よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

イノベータ平田篤胤 その3

2011年05月31日 | 日本教・スピリチュアリティ

今の世の中では、ほとんどの人が、生きている人間の体がなくなってしまえば人間はそれで終わりであり、あとに何も残らないと思っているようだ。

たとえば、「死後の世界」、「霊魂」。

そんな話、やめとけよ、やめとけよ。そんな話、始めたらサイエンティストじゃなくなるぞ!こないだも、車いすの物理学者ホーキング氏が「天国も死後の世界もない」って断言したじゃないか。

そんな声が聞こえてくる、いやはや。

特に日本では妙にこの傾向が強い。いろいろな国のサイエンティストやビジネスパースンとプライベートにいろいろな議論をしてきたが、けっこう欧州、アメリカ、中東、インドあたりの知識人は、まじめに「死後の世界」、「霊魂」の議論に乗ってくる。ホーキング博士のものいいに真っ向から反対する人々が圧倒的に多い。

日本は物質文明が進んで来た反面、知識人の意識はけっこう世俗・低俗的な国で、宗教リテラシー向上にはさほど熱心でない。また、マルクス史観、唯物論や唯物史観の影響、戦後の屈折した反動などがあって、「死後の世界」、「霊魂」のは非科学的、科学が取り扱うようなテーマではないと、片付けられてきた。

かたや欧米や中東、インドなどでは科学者がキリスト教、イスラーム、ヒンズー教などを信仰して実践しているのは特段不思議なことではない。むしろ、しっかりした精神基盤を宗教的なプラクティスを通して確立して、世俗的な仕事もこなして統合するような人物がリスペクトされる。

ははぁ。

私はガキの頃から続いている特殊な超常的体験や、世界放浪経験、長じてからの医療サービスに関連する仕事の経験、グローバル・リテラシーの視点などから「死後の世界」や「霊魂」の問題を、バサっと捨て去るわけにはいかないと思っている。むしろ、ニッポンという文脈を背負って「死後の世界」や「霊魂」をキチンと受けとめることが本質的に大事だと思っている。

いやはや。

ついでに外国の方々にも、それらを正々堂々と開陳、解説することが大事だ。グローバル・リテラシー、インテリジェンスの重要項目として「死後の世界」や「霊魂」の、比較宗教学的な洞察が実に必要だ。

まぁ、そんなに肩に力を入れなくたって、「死後の世界」や「霊魂」のありかたを考えることは大切なことだと思っている。いろいろあって長くなるので、ここではその理由をふたつだけあげる。

①少生多死社会の到来

日本は少子高齢化どころか、少生多死社会に突入してしまって、今後圧倒的に多くの死を社会として受け止めざるを得ないからだ。人には生きたい、死にたくない欲望がある。そして医学、技術が発展して、どんどん生命を長らえさせる術がその欲望を満たそうとする。その欲望を満たすための社会的なコスト=国民医療費をどんどん投入しても、結局は人は死ぬ。

②増え続ける不条理な死

自殺(年間3万人以上11年連続)、孤独死、無縁死、そして今後は放射性物質とそれが発する放射線(現代の魑魅魍魎)の低量ながらも長期にわたる内部被曝を原因としてがんやその他の疾患が確率的に発症し、結果として死がいやらしく増えてゆく。なぜオレが?なぜうちの子供だけが?という不条理な死が増えてゆく。スピリチュアル・ペインが増してゆく。

つまり、死んだら自分はどうなるの?どう死んでいったらいいの?という問題に、より多くの人が直面して自問自答せざるを得なくなってきている。

 それはのっぺりとした抽象的な死じゃないぜよ。家族、隣人、友達などの切実で具体的な死ぜよ。死は、生まれ、育って、老いて、病を得る帰結として訪れることが多いから、結局は生老病死への自問自答が増えてゆくぜよ。逃げられんぜよ。

だから仏教看護(藤腹明子氏)のような仏教の言説、プラクティスを、寄り添うこと、ケアに直接結びつけて実践してゆこうというスタイルや死生学のような行き方は、今後のよりいっそう求められるだろう。

平田篤胤の話に戻す。西洋列強の亜細亜侵略、日本圧迫、そして開国、維新というグローバリズムの大海流のなかで、篤胤は、ジャパニーズならではのアイデンティティを真摯に模索、探求した。

 篤胤は、外国(とつくに)から伝搬された仏教、儒教、道教、基督教などを徹底的に研究。ジャパニーズなるものを、外来の仏教、儒教、道教、基督教などと比較考量し、そういった借りモノの衣を一枚、一枚とりさっていって、結局残る世界を篤胤は描写しまくった。

平田篤胤は、主著の「霊の真柱」(たまのみはしら)でこんなことを言っている。

「学問をするにはまず何よりも自らの死後の魂の行方を知らなければならない」

これ、「自らの死後の魂の行方や死後の世界のことは忘れて、学問をやりましょう」などというそんじょそこらの平均的(ほどんどのと言うべきででしょうか)日本の科学者の意識と真逆ですね。

            ◇   ◇   ◇

「霊の真柱」の上の巻で、篤胤は壮大な神々と世界観のモデリングを行う。10のモデルを次々に弁証法的に展開するオリジナリティ溢れる構成が圧巻だ。世界観(world view)を大胆に構成し直すイノベーション。

この手法は、たとえば、大正時代の人、原田常治が「上代日本正史」前後2巻などでおこなった実在の歴史的人物として神々に迫るというものとは別のアプローチ。原田常治あたりから流行り始めた手法も面白いが、ここではそれはひとまず措く。

まえにもちょっと書いたが、畢竟、「死後の世界」や「霊魂」はふたつの捉え方に行き着く。①絶対主義:「死後の世界」や「霊魂」は絶対的に存在するという立場。多くの宗教者はこの立場をとる。②構成主義:人間社会の意識、習俗、風習、民俗などが「死後の世界」や「霊魂」を構成(コンスティチュート)するという立場。

篤胤の精神的な師匠である本居宣長は、古典を考証した結果、人の魂はその死後、黄泉国におもむくとした。黄泉の国は穢れた悪しき国であり、だから死ぬことほど悲しいことはないとした。その逃れることのできない運命をそのまま淡々と受け入れるべきだと説いた。

篤胤にも大きな影響を与えた服部中庸も死者の霊魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸はイマジネーションをはたらかせて、黄泉国は天体の「月」のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると構成した。

しかし天文学にも通暁していた篤胤にとって、霊魂が月に行くなどという構成は妄説にしかすぎない。篤胤は、他の学者のように死後の世界はこの世(現世)とは切り離された全く別のところにあるとはしない。

黄泉の国の存在は認めたが、黄泉の国は、死者の国とイコールではないとした。篤胤は、死者の魂は、現世=顕世(うつしよ)を去って死者の世界=幽世(かくりよ)に行くが、その異界はこの世、現世のありとあらゆる場所に遍満・遍在しているとした。


顕世(うつしよ)=上のモデルの左側からはその幽世(かくりよ)=右側を見ることはできない。しかし、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところ、すぐそこにある幽世に居て、そこから現世のことを見ているという。彼らは祭祀、鎮魂などを通じて顕世の生者とコンタクトを続け、近親者・縁者を見守ってゆくとした。ちなみに上に引用した図以外の図の一応の、「霊の真柱」の解説サイトもある。

            ◇   ◇   ◇

門下一同、悩みながら、幕藩体制が崩壊して明治時代を直前にしたの「夜明け前」(島崎藤村)のグローバル化に直面し、ジャパニーズのジャパニーズたるアイデンティティを求め確立していった篤胤。篤胤が「霊の真柱」で大胆に展開した世界観は、グローバルにしてローカル。

 さて、イノベーションを推進するためのグローバル対応。このテーゼ、イノベーションを言痛(こちたく)議論する産学官領域にかまびすしい。かまびすしい議論がぽこっと忘れてしまっている精神的、内向的なローカル化の支え。

世俗的、外向的なイノベーション・グローバル対応とは、精神的、内向的なローカル化の支えがあってはじめてものにすることができるのである。しょせん支える土壌がないところに柱は建たない。かまびすしい議論には土壌がないではないか、柱がないではないか。

グローバルとローカルの相克、軋轢という点で、篤胤が生きた時代と現代は非常に似ている。だからこそ、土壌と柱が問われるのだ。グローバルなイノベーション対応という文脈にこそ、篤胤の力作、代表作の「霊の真柱」は豊かな示唆を与えてくれるのではなかろうか。


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