みみのアンテナ

得た情報を発信・また受信したい

誕生日直前に

2016-08-14 10:21:32 | 人生

8月16日・・・私の誕生日である。

誕生日というと人さまは決まり文句「おめでとうございます」

と言ってくれる。

いやもう棺桶に近づいているのだから!と可愛くない返答をする。

同級生同士だったら、まだ元気よと素直に受け取れるが。

母は暑いこの時期に私をこの世に送り出してくれた。

地獄の釜の蓋の空く日・餓鬼の子も緩む日

盆明けの16日には、昔からこのように言われているが、私自身正確な意味を

知らない。

この日は(16日)鬼も休むということなのであろうか?

藪入りともいう。丁稚奉公も休みを貰って帰れる時期を言うようである。

 

夏もたけなわになり、15日が近付くと戦争にまつわる話がいっぱい出てくる。

先だっては、原子爆弾投下についての特集があっていた。

原爆は京都にも落とすはずだった。時のトルーマン大統領が京都は駄目だと認めなかった

そうで、昔から変わらぬ古都を伝えることができるのは、トルーマン大統領のおかげか?

アメリカも軍部が強く、大統領にうまく都合のいいように伝えていたり、作話していた

ようである。

小倉は原爆投下の目標地だったのは、誰もが知っているだろう。

 余談だが小学校のとき作文で、

   お天気が悪くて、原子爆弾は小倉に落とさずに、広島(長崎?)に落ちました。

   おかげで小倉は助かりました。

 この作文、読んだ母から怒られた。

アメリカ軍部は、広島を軍需都市とトルーマンに伝え投下することを、認めさせた。

長崎以外に、原爆は日本のあちこちに落とす予定だったと聞いて驚いた。

日本も天皇陛下の名前を利用して、(そのように教育して)軍部は負け戦を続けていた。

「勝」ことを信じて、 本土決戦を視野に!

海外にいた、日本人スパイや、外交官は日本は負けると踏んでいたのに、

それを拒絶していた日本軍部!  罪は大きい!

 

天皇陛下のお言葉を、2度聞く機会を得た。

1度目・・・下世話な言い方をすると

      早く「隠居したい」ということなのだろう。

      ご隠居さんにさせてあげればいいのにと、と思っていた。

2度目・・・象徴天皇はどうあるべきか、深い意味を述べられたことを

      理解できた。

   

   誕生日が来る前、物事をいろいろ考える事柄があって、ぼけてはおれんで。

テレビのCMで、有名人が語ったあと「お母さんありがとう」と言っているのを、見たが

私も     

    私を生んでくれてありがとう


死期が近づくと・・・・

2016-02-10 05:54:18 | 人生

7日の日曜日、正月以来のビールを(350C)を飲んだ。

このため、大河ドラマが終わって次なる番組を見ていたが、眠ってしまった。

夜半にふと目覚めた、3時半位だった・・・6Hはしっかり眠っているのですぐに

睡眠に入れず、目はつぶっているのだが・・・

いつしか、いろいろな過去に見聞した事柄やシーンが頭のなかをよぎる。

同級生だったNさんの妹さんが、ブログを開設していて時々訪問する。

ワンちゃんと暮らしていて、こよなく愛しているのがわかる。幸せな犬である。

犬のことで、もしかしてと云う事象を思い出す記憶に、自分が何も、いや考えが及ばなかった

ことに気持ちがさいなまれる。

若いころは紫川の近くに住んでいた。

河口近くだったその川は潮が引くと、降りて行って川遊びをした記憶がある。

ある日対岸に犬がいた、誰もいない。 飼い主は?犬はしきりに吠えていた。

満ち潮が始まっていた。

今居住しているところは、イタビツ川が近くにある。

バスでよく通るが、マックスバリューに行くときは歩いていく。

潮が引くと割と浅い、凸凹の河原が出現する。両岸にはコンクリートの歩道ができる場所が

あるが、満ち潮になるとそのコンクリ歩道も水の底になる。

コンクリ歩道に犬がいた、この犬どこから降りてきたのだろう?

そう思って通り過ぎた。

最近考えが及んだ・・・・捨てられたのだ!

猫のように岸壁を飛び上がれない・・・・可哀そうに・・・そのとき考えが及んでいたら、

私は誰かを呼んで助けあげただろう。いいや絶対に助けた。

それから、思い出すと気づかなかった自分を責めている。

この目覚めた夜、犬のあとに亡くなった母や姉たちを思い出した。

テレビで緩和ケアを担当しているドクターが、自分もその病棟の患者なのに、

死ぬまで患者を診たいと働いている。そのドクターの経験から

死期の近づいている患者は、夢枕に親や兄弟(姉妹)祖父母が出てくるそうである。

いわゆるお迎えなのであろう。

その夢を見ると、数日後に安らかな死を迎える・・・・そうである。

次姉は緩和ケア病棟に入っていた。

日ごろから、霊とかあの世とか信じない人であった。

それが、ふと「足元にいっぱい出てきているよ、知らない人」

多分緩和ケアで過去亡くなった人たちであろう。

姉は、緩和ケアに入ったときから苦しまずに逝きたいと、ドクターに頼んでいた。

いよいよ苦しくなったのか、自分から頼んだのであろう、

ドクターからご本人さんがこのように希望していますと知らされ、家族の人と喋れなく

なりますよと言うと、姉は了承したそうである。

この状態になると、早い人は半日くらいで逝くと言われ、私と長姉と義姉とで交代で泊まり込んだ。

次兄が同じ病だが一般病棟に入院していた。

なので、兄嫁は両方看ることもあるが、却って自宅に戻らずにすむからいいよと言ってくれた。

次姉は、9日くらいで逝った。

医者も看護士さんも、後日心臓の強い人だと言った。

この9日間に、姉の親しかった人が見舞に来て、大きい声で姉を何度も呼んだ。

姉はパッと目を開けすぐに閉じた。耳だけは最後まで聞こえているそうである。

なので、逝きかかった人の前で、財産の話や葬儀の話などするものでない。

このHさんは、私や長姉の知らない話を次姉の前で話し始めた。

テレビは掛けていた。それが地声の大きいHさんが話し始めると、テレビが突然消えた。

私や長姉にも言わず、あの世まで持って行くつもりだったであろう話を、Hさんが話したので

抗議のテレビ消しなのであろう・・・・今考えると。

10数年経って、長姉を送り出すとき、私一人で対応したが、意識がなくなり姉は個室に移され私はそこに泊まり込んだ。

亡くなった日、私は姉のそばで大河ドラマを見ていた。

テレビが映らなくなった。

夜勤の人に言って、別なテレビと交換して貰った。だがやはり映らなかった。

今考えると、もうすぐ逝くよの知らせだったのかも。

私は食堂に行き大河ドラマを見ていた。夜勤の看護師さんが「お姉さん呼吸が止まっています」

姉はよく母と次姉が夢に出てくると言っていた。長兄も出て来て22年間生きた猫のハナちゃんも出てきた。

次兄も出てきて、兄嫁は自分のところに出て来てくれないとこぼしていた。

長姉は父が死んだ時から、母を助けて妹や弟たちの面倒を見てきた人だ。

割と早くから、お迎えの予告があったのかも。

2月26日・・・長姉の祥月命日である。

        姉に話しかけている日々・・・・誰もまだ夢には出てこない

こんな事を思い浮かべていたので、「あさがきた」まさしく。

なので2~3日おとなしく、パソコン開かずに早寝した。


なんでもやってみよう!

2015-08-09 16:04:46 | 人生

久しぶりにブログを書こうとPCを開くと、Windows10を入手するかと表示されたので、

OKクリックをした。

夜は大体PC開いてメルマガやネット検索するのだが、このWindowsのOSの

バージョンアップのOKクリックを、うっかり行ったので、読み込み中と表示されてず~っとである。

翌日の朝になっても 読み込み中 と表示されたまま。

PCが省エネの為時々消えている。その都度マウスを動かして動作環境の手伝いをする。

いったいいつになったら終わるのか?

PC作業ができない。

そうしている間に、スマホにメールが入ってくる。

  おかしい! タブレットの案内だが6月18日よりキャンペーンが始まります・・・・だって。

  おかしいがタブレットが欲しいと、ずーっと思っているが、その案内メールのタブレットの写真見て、

  どうしてこんなメールが・・・・このスマホ屋に聞きにいこう。

  えい面倒なり、Windows の動きを✖で閉じて出かけて行く。

  リバーウオークに行くと、全部の携帯屋さんが出店している。

  まずスマホのymobailを尋ねる。

  タブレットのキャンペーン・・・・お客さんこれは一番下が新しいメールです。

  なんじゃ! メールはSMSで入って来ていた。SMSだと下方が新しいことは今初めて認識した。

  スマホのメール機能は殆ど使わない。

  ちょっと指が触れただけで、打ちかけのメールはどこかに隠れてしまうからで、

  返ってストレスになる。 

  なのでメールは今までのPHSを使っている。

  キャンペーン内容・接続料金・タブレットが大きいのと小さいのがあるので、その違いを聞き

  キャンペーン期間中は事務手数料は0円であることも。

  一応携帯に便利なタブレットを予約した。

  ついでにパソコンのOSのアップデートの話すると、3GBなのでとても時間がかかるのですよ。

  へーそうっだたのか、 あるコミュニティに参加していて、この話をすると、

  いろいろ教えてくれた。

  結論から言えば予約しているなら、1年以内にOSのバージョンアップすればいいのであることを。

  慌てずともよい・・・・である。

  

  せっかく携帯屋が軒を並べているので、全部の携帯屋を周り料金や機能を聞いた。

  大きさ的にはdokomo のタブレットが気にいった。 今なら事務手数料は0円という。

  softbankもそうである。

  auだけは事務手数料が発生することがわかった。

  ymobailにもっと検討してみたいのでとキャンセルした。

  私のブログがタブレットやスマホからアップできるなら、高速バスに90分揺られている間に暇つぶしができる。

  ま、寝ていることのほうが多いけどね。

  

                          続きはまた書こう!

  

 


生きがい・・・

2015-04-07 23:00:50 | 人生

現役を退く少し前に、退職者予定者の説明会があった。

 健康・趣味・金銭・・・・そのどれが欠けても楽しく生活できない・・・そのとおり。

勤労・ボランティア、何でもいい、人と接する機会を多く持たねば、心身の健康を維持できない。

幸い、私は今年度も福岡での仕事を継続させて頂いた。

そのためには健康の維持が必要だが、最近膝が痛くなった。

昨年しゃがみ込みができなくなり、痛みが伴ってきた。かかりつけの整形外科のDR,に

「しゃがむと、ひざがバリバリしてとても痛いのです」

MRIを撮りましょう。 大きい病院に行くことになった。 結果は半月板を痛めていた。

「転びましたか?」 その記憶はなかった。 「どこかで打ちましたか?」 そうだと返事はできなかった。

だが、部屋に椅子を置いていて、よく膝をぶつける。

半月板を痛めるくらいだから、よほど強く打たねばいけないが、それも記憶にない。

整形の先生は、膝に水が溜まっているかもと、膝に針刺す。

100ccの水を抜いた。 そしてパンフレットをくれた。水抜きはくせになるか?イヤならない。

炎症が起きているから水が出るのであって、炎症が治まれば水は出ませんと書いていた。

そのような疑問を持っている人が多くいるのであろう。

4~5回水抜きをしたが、最近は水は無しになった。

痛みを取るという、膝の体操に行くようになった。

そしてネットで教えてもらった、両膝で自分の握りこぶしを挟む筋力運動、膝締めである。

教えてもらった時はしもやけができていたので、自分の拳は占めると痛い。

テレビで腰痛の為にソフトボールを使って、痛みを緩和するという話があっていて、

その時のDR,は自分が試したと言っていた。

腰の場所も言っていたが、部位の名前を思い出さない。

やり方は見ていたので早速ソフトボールを買ってきた。

そのボール膝締めに丁度よい。

膝の痛みを取る運動はわずか30分だが、運動したあとは痛みが緩和されている。

もっと改善して、今や私の生きがいとなっている、月に何度かの仕事がスムースにこなせるように

ならねばならない。

 

 


エレクトーン奏者の渡辺知子さん  ②

2015-02-26 10:22:43 | 人生

前回は、眠気に勝てず途中で終わってしまった。

続きを・・・・・

ご主人の名前は 橋本たかし さんという。

サングラスをしたままで、本当の顔は見られなかった。

渡辺さんは言う・・・・この人とても優しいのです、どうしてこんなに優しくなれるのだろうか?

ご主人には重度障害者の妹さんがいたことで納得したと言っていた。

自分はエレキ演奏していたある日、クリスマスコンサートが終わってホテルの部屋に戻るエレベーターの中で、

金づちで殴られたような痛みに襲われ、そのまま意識がなくなる。

意識が戻ったときは病院のベットだった。

病名 くも膜下出血

死んでいたかも知れないが意識は戻った、しかし後遺症で車椅子になりIQも下がった。

リハビリは続いたが復帰は望めないかと思うことはあった。

車椅子生活は続き、今まで見ていた張り紙が見上げねば見られないところにあるのが、

分かり、もう一度普通の目線でみたいと思った。

リハビリ中随分年配のおじさんが、アンタの夢は何かね?と聞いてきた。

ちょっとムカついたと言っていた。

そのおじさんは、自分がリハビリを頑張っているのは、孫をこの手で抱きたいからや、と言った言葉に

ハッとしたとのこと。

張り紙を普通の目線で見ることや、もう一度エレクトーンを演奏することを目標に、必死にリハビリをした。

そして今の自分がいるとの話・・・・感動して涙ぐむ人は沢山いた。

奇跡のカムバックを遂げた渡辺さんは、渡辺知子一座を立ち上げ、3月6日にリバーウオーク北九州で演奏会を

しますとのこと。

スタッフはほとんど障害者かその家族で、聴覚障害者のために手話コーラスを取り入れ、衣装もカラフルなのに取り替える

と言っていた。

3月6日?私の記憶違いがなければこの日程だが、間違っていなければ良いが行こうと思う人はリバーウオーク

北九州芸術劇場に問い合わせて確認したほうがいいかも。

渡辺さんに陰ながらエールを送りたい!

だが、くも膜下は一度起こすとまたという可能性があるので、十分に気を付けて欲しい。


エレクトーン奏者の渡辺知子さん

2015-02-23 20:37:41 | 人生

2月9日(月)、その2日前町内の組長さんより、市民センターで渡辺智子さんの演奏がある。

午前中はビデオ視聴があり、飲み物付き、お昼ご飯が出て演奏そしてお抹茶付きで500円なので行きませんか?

何も用事がなかったので、行くことにした。

ビデオは認知症に関連するものだった、途中から見て、途中で携帯に電話が入り、なので内容はよくわからなかったが、

出演者は顔の知れた役者ばかりだった。

お昼は事前にカレーと聞いていたが、ご飯と豚汁煮物漬物だった。

さていよいよメインの演奏!

私が知っている渡辺さんは、小倉の今は消失したデパートの玉屋でよくエレクトーンを弾いていて、曲目当クイズとか

盛んに行っていたのを思い出した。

それがいつの間にか見なくなった。  噂に具合が悪いと聞いていた。

渡辺さんは2人で登場してきた。一人は男性で 「私たちつがいです」 と自己紹介。

のっけから話しは面白い。

98%私が喋ります、残りの2%しかこの人は喋りませんしかも楽器で・・・・・会場は笑々だ!

旦那さんはオカリナとかフルートとかもう一つトローンボーンだったかな?

自分は結婚はしないと思っていた。

彼がプロポーズしたとき、ありきたりに断れば傷つけると思ったので、

「お金もちでないと、それに飛行機買ってくれる人がいいので」

彼はう~んと唸りながら、本物の飛行機は買ってあげられんけど、紙の飛行機なら100位折れるけど・・・・で結婚しました。

そして自分の生い立ちと病気のことは曲の合間に喋る・・・喋る・・・喋る

聞いてみれば小学校も中学校も隣と言える地域だった。

小学校の時、紫斑病になり20歳くらいまで生きるだろうかと言われていた。

体中に紫色の斑点ができて、学校はずーっと休んでいた。

当時は祖母と叔母と母と女ばかりの4人暮らしだった。  祖母はこの頃ガンに侵され余命幾ばくかだった。

「私が死ぬときあんたのその病気も持って行くからね」と言っていたが、おばあちゃんが亡くなったあくる朝、

私の体は綺麗になっていた。ホントの話です。

高校生の時エレクトーンの大会で優勝しグランプリを獲得したことl。

社会人になって・・・・・・・眠い・・・続きは後日

 


寿命

2015-01-01 15:29:44 | 人生
12月28日にご近所さんが亡くなられた。
我が町内では、各戸から500円徴集し代表の人は通やに行ったときに、戸数分の
会葬御礼を持ち帰る。
あの会葬御礼は今や価格があがり、葬儀屋は会葬御礼でも儲けようという魂胆があるようである。

この町内に来て姉を二人送り出している。
500円徴集して、今や1、000円くらいする会葬御礼は、アシが出る。
頂かない方がいい。
しかも個人で香典を包んでくる町内の人もいる、その人たちは二重に出しているのである。

意見として言いたいが、自分宅のあった直後は言えるものでない。

「お通やは〇日、葬儀は×日」と知らせに来た組長さんに、5〇〇円出しは廃止にすべし」と言う。
他の方の意見を聞いてみましょう。

結局500円だしは取り止めた。というより個人でだすひとばかりだったので、今回はこの徴集はなかった。

29日お通や
30日お葬式

30日予定が入っていたので、お葬式は失礼した。

81歳の人だった。

           合掌

恩師を訪ねる

2014-03-15 22:05:27 | 人生
恩師が入居している介護施設を訪問した。
K先生である。
多分、いろいろ食べ物持参は無理かもと思ったが、デパートで「全国うまいもの大会」
があっていたので、飲み込みのよさそうな、硬いのは避けて今日食べてしまえるものを、
探した。
京都から、わらび餅が出ていたが、餅で年寄りが咽喉に詰まらせるという事故があるので
避けた。
そのお店が、抹茶をベースにしてプリンのようなかたまりにして、別な容器で粒餡を
のせて食べる、スィーツがあった。
初めてみるスィーツだった。
私はもちろん食べたことはない。
一つ買ってみた。
「冷蔵庫でよーく冷やして、今日中にお召し上がりください」と言って、容器の上に
クールパックを乗せて、渡してくれた。

別なお菓子を3っつほど買い足して、小倉駅のバスセンターに行く。
インターネットで聞いていた施設の名前で、検索し電話を掛け、宇佐町という町名を
聞いていたので、更に検索して地図を印刷して持参。
地図を検索したとき、グーグルのストリートビューが立ち上がり、この施設の番地だと
まだ建設工事中の映像だった。

右上に警告があれば報告するようになっているが、そんなことで時間をとりたくない。
要するに場所が分かればいいのである。

関西に住む弟さんによると、去年できたのです。と言っていたので、ストリートビューは
この地域の撮影のとき、間に合わなかったのであろう。

施設に連絡したとき、小倉駅から乗ればいいですと教えてくれたので、小倉駅の
バスセンターで宇佐町に行くバスを尋ねて乗車。

宇佐町で降りて、地図を見るがさっぱりわからない。

近くの建物から出てきた男性に地図を見せて、尋ねると、
「そこの角にローソンがあるから、そのローソンから左にまっすぐ行くと・・・」
と教えてくれた。

ローソンまで行くと、その前に明和町というバス停があった。
そのバス停のほうがよほど近い。

次訪問するときは、明和町で下車すればいいのである。

町名は宇佐町、名前は良く聞く町だが降り立って自分の足で歩くのは初めて。

少し歩くと、何とまあピンク色をベースにした、淡いベージュとツートンカラーの
大きな建物が見えてきた。

何だか周辺の町並みとそぐわない、浮きあがった感じである。

受付は2Fで1Fはオートロック、2Fでは図書閲覧室とスポーツジムがあり、
一般の人に開放している。

入居者募集の看板が目に付く。

先生の部屋は7Fである。

入って行き、私の名前を名乗り覚えているかと挨拶すると、小学校の名前を先生が
答えた。

「新しいことは、すぐ忘れます」弟さんはそう言っていた。
それが認知症の症状だから仕方がないわ。

小学校はどこを回ったか意図的に聞くと、3っつほど答えた。

我が母校には、先生は希望してきたといいすぐに5年生を受け持ったと言われた。
その学年こそが、私とクラス替えのなかった学年なのである。

「私の正念場だった学校よ」

私に、お母さんは元気?・・・みんな死に絶えて、私今一人です。
ふ~ん今幾つ・・・年齢を答えた。
どこに今住んでいるの・・・住所を答えた。

私も先生のこの場所、弟さんに聞いて来たのですよ。
先生は、大阪とか行かれるもんか!と言われた。多分弟さんは大阪に引き取ろうと
したのであろう。

結構会話は成り立っている。

行ってすぐお菓子を出して、食べれそうか尋ねると「食べるよ」と即答。

体が少し傾いているので、食べるとき印刷した地図をお盆のように抱えて、
私は先生がこぼしていいようにじっと持っていた。
持っている私の体制は中腰・・・なので少し腰痛が起きた。

案の上、時々こぼす。
これ美味しいね、アンタのはないの?
自分は家で食べるからいいと答える。

食べ終わると、私に住所と年齢をまた聞いた。誰と住んでいるのか?とも。
気長に答えると、早く結婚しなさいアンタまだきれいだよ。
ずっこけそうになりながら、そして笑いながら、今更行かなくても・・・

先生は自分は結婚しなかったので、子供もおらん、それでこの果てよ
バツなんやろと言われた。

1H居た。窓からの眺望は足立山が広がり、我が家の墓地も良く見えた。

そろそろいとまを告げると、先生は黙り込んだ、「退屈するね」
先生また来るから・・・ほんとまた来てね。

妹さんは大分にいるというので、多分誰も来ないであろう。
テレビも見飽きた。読書は続かないという。

食事は皆と食堂で摂るそうなので、このときとコールしたときしか人との、接触は
ないのであろう。

こんな生活・・・・目的もなく刺激もない生活では認知も進むのではないか、

きっとまた来ようと思った。

一つ掬われたのは、私がYさんを覚えているかと尋ねると、店をしていた人よね。
それで、思い立ち電話して代わると、何やら話しの返事・・・
うん誘ってね・・・

どうやら、Yさんが同窓会の話しをしたようである。

私にもっと生きねば、と言った。

傾いた体で杖を突きスタッフに支えられて、私を棟の出入り口まで送ってきた。
私はスタッフに、名刺(介護サービス相談員の呼称の)を渡して帰った。

こんな人が後ろ盾にいるんだよと、印象づけると先生へのあたりが少し代わるかも。

恩師の行方

2014-02-26 22:37:27 | 人生

小学校のとき6年間クラス替えはなかった。

変わったのは担任だけである。

2年間ずつ3人担任が替わった。 いずれも女性である。

1、2年のときのTO田先生、3、4年のときのK先生はすでに他界されていると、

同級会のとき、話のタネになっていた。

5,6年のときのK先生は、3、4年のときのK先生と従姉妹同志ということを、

知ったのも、そんな集まりだったかも。

最終学年のK先生には、4,5年前のクラス会にはお呼びした。

とても喜んでおられた。

数々の学校を移動し、大勢の教え子を送り出したであるはずなのに、

先生自身がおっしゃっている。

「不思議と、あなた達のクラスのことは覚えているよ」

〇〇さんはどうしている?・・・・というくらいに。

私は時々先生に元気コールをしていた。 先生は一人者なので・・・・

なので、先生も私のことはよく記憶してくれている。

だが、ここ数年私は自分の姉の病気に付き合っていたので、先生どころではなかった。

姉を送り自分が独居になって、また元気コールをしてみた。

連絡がつかない。

同じ地域に同級生がいるので、見に行って貰った。

「一時入院されていたけど、妹さんに引き取られたらしいってよ」

彼女は、先生の部屋の周辺の住人から、その情報を得てきてくれた。

それで、まあ先生とはエンドかな?

そう思っていた。

だが、昨日のことである、私は先生のマンションの近くに用事があって行ったので、

ちょっと、また何か進展情報が得られないかと寄ってみた。

ここの住人らしき方が入口近くにおられたので、自己紹介をして、私は教え子だと挨拶して、

K 先生のことご存知ないかと尋ねた。

「弟さんに引き取られたらしい」といい、このマンションの管理会社に電話してみたら?

と提案してくれて、管理会社の連絡先の情報を貰った。

翌日・・・・・すなわち今日

管理会社に電話すると、けんもほろろ 「個人情報ですからお教えできかねます」

事情説明して自己紹介をし、連絡先を管理会社として知っているだろうから、

そこに連絡して電話番号を教えて良いかお尋ねしてくれればいいのです。

弟さんは関西にお住まいということは、聞いているが・・・というと、連絡取ってくれた。

5分もせずに、管理会社から連絡が入った。

相手の了承とれたのでと電話番号教えてくれた。

16;00過ぎにかけて欲しいと言われたそうなので、先生は弟さんに引き取られて

デイサービスを利用しているのだな!と想像した。

17:30分過ぎに電話して、弟さんとお話し、「デイに行かれているのですか?」

「今先生とお話しできますか」

すると、「北九州の〇▽◆という去年できた、老人施設に入居しています」

今年90歳になり、昔のことは覚えていますが今は・・・・新しいことは・・・・

と言われた。

先日認知症の研修を受けたとき、85歳過ぎたら5人に1人は認知症になることを、

聞いたので、K先生は多分に認知症になられたのであろう。

近々に尋ねてみようかとは思っている。

 


思い出と訃報

2014-01-21 22:10:00 | 人生
以前にも書いたが、小学校6年間はクラス替えはなかった。

そんなものだと思っていた・・・子どもの頃は。どうも実験(お試し)だったようである、ずーっと学び舎が同じ童たちと

2~3年ずつクラス編成が替わる場合の子どもたちとでは、将来的にどうなのだろうか?

その結果は誰も聞いていない。

本当に実験? 

クラス編成をするのが面倒くさいだけじゃないの?

聞きたい教員は大概あの世に旅立っているので、無理か!

今のようないじめはどうだったろう。

けんかは確かにあった。

私のなかに、思い出される一つのシーンがある。

あれっていじめだと思う。

私の所属したクラスでは2,3年生のころ、女子のなかでは派閥を利かせていた人が

二人いた。

一人はMムラさんもう一人はNノさんである。

そのころ、漫画の本にあんみつ姫が登場していて、誰かが持ってきていた。

私は読みたくて、その本を貸して欲しいというと「うん」と言っていた相手・・・正直思い出せない。


「貸せない・・・Nノさんが、Yさんに貸してはいけないって言ったから」

そのように言ってきたのは、Aグさん・・・本の持ち主ではなかったはず。

どうしてもあんみつ姫が読みたくて、結局家で買ってもらった。

もう一つのシーン

掃除の時間・・・廊下を雑巾であの独特の雑巾がけのスタイル。

女子はスカートの端を口に加えて、雑巾を両手で押さえてよつんばいで走るのである。

この頃では、昔の古い小学校を利用して何百メートルもある廊下で、雑巾がけ競争を行っている
ニュースを見たことがあるが、懐かしい映像である。

その雑巾がけ・・・私が拭いていると誰かが足で前方をふさいだ。進めないように。

場所を変えると、また同じことをされた。何回か続いたと記憶している。

やはり、MムラさんかNノさんの指図だったようである。

なぜこのようなことをされたのか・・・私は大体一匹オオカミであった。

誰かの言いなりになるとか、命令されるとか、いわゆる家来とか強い人の傘下に入るという
ことは嫌いであった。

休み時間は読書をして一人で過ごすことが多かった。

担任の周りに集まり、お喋りに余念のなかった人たち、多分Nノさんは中心人物でなかったか。

ある日担任に言われた。「アンタはみんなと一緒にお話ししたりしないね、一緒に集まっておいで」

3年生か4年生の時だ。それでもそばに行かなかった。

そばに行って何話す?

だが今は違う・・・・正反対だ。
お喋り大好き!

初めての人に話相手をしようかと傾聴ボランティアをするようになった。

去年3月Nノさんはこの世を去った。

子どものとき代議士になりたいと言っていた、頭脳明晰の人であった。

そして、数日前には同じく去年らしいが、Mカワさん(男子)が亡くなっていたという、
知らせを受けた。Mカワさんは母校のPTAの会長を務めたと聞く。

段々クラスの人が減るのだね。

荒了寛さんのカレンダーの言葉に「明日のことは分からないから、皆生きていられるのです」

そうだそうだ。

明日は我が身かと分かると今日のうちにエンディングノートを作成しておかねば
ならないからね