みみのアンテナ

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もう一つのカレンダー言葉

2014-03-28 00:08:32 | 宗教
荒了寛さんのカレンダーはもう一本ある。

某保健会社の代理店の営業員から2年続けて頂いたのである。
会社等に配るカレンダーなので、もう差し上げられない・・・・

多分誰かに言われたのであろう。

このカレンダーの3月には
   
    いばらない
    自慢しない
    けちらない
    悪口を云わない
    そうすればついてきます。

 絵は、父親風なおっさんダルマが先頭に立ち、その後ろに奥さん風の、背の低い
 女ダルマ、更にその後ろに・・・

 4人の子供らしい、しかも段々に小さくなっていて、いわゆる縦列になっている。

 画像を入れようとして失敗!
 

3月は去る・・・

2014-03-25 21:47:27 | 四季
1月は行く・2月は逃げる・3月は去る昔から良く聞く言葉で、時の流れの速さを
うたっているのだが、本当に早いわ。

それだけ棺桶との距離が近いってことか。

以前旧いカレンダーを気に入って処分しないことをこのブログで書いた。
荒了寛さんという宗教家の言葉が気に入って、ずーっと我が家にかけている。

4~5年前のカレンダーだが、月が替わるとめくるようにしている。

この数年前の3月のページには

 「 よく解っている人は、難しいことを 易しく話す 」

ふーむ、易しくね。

中学生になって、初めて文法を習ったとき正直さっぱり解らなかった。

国語の先生は、早口でお年寄りだった。

れる、られる・・・なによ~

名詞だけはどうにか理解したが、何が動詞で、何が形容詞なのかまた形容動詞か解らなかった。

国語は好きな学科だったのだが・・・

我が中学はその頃名門校で、他地域から越境入学してくる学友がわんさと来ていた。
なので文法なんて、すぐに理解したのだと思う。

先生の授業はおまけに、進むのが早かった。
多分解っている人が多勢いたので進みが早かったのであろう。
これは私が今になって思うことである。

ところが2年生になって、若い女性の先生から文法を習い、そうだったのか!とやっと理解することができた。
目からウロコが落ちるとはこんな感じなのだろう。


面白いことに、私が高校に進んだときこの若い女性N先生の妹さんと、机を並べたのである。
彼女にはよく言っていた。

「お姉さん先生から習って、文法が解ったよ」
この彼女とは卒業しても互いに連絡を取り合い、彼女は嫁いで尼崎に住んでいた。

ご主人の仕事の都合で一時岐阜に住んでいたが、このとき遊びに行った。
料理の上手な人だった。

彼女はもう亡くなって何年になるだろう!

私が福岡に住んでいた頃、ある日職場に知らない女性から電話が入った。

「〇○の娘です」と名乗ったのでびっくりした。

「母は末期がんです」2度びっくり。

医者に会いたい人がいたら、会わせてあげるといいのではと言われた。
本人はがんだと知っている。だが末期であと1~2か月とは知らないとのこと。

会いたい人は私だと言ったそうである。

確か10月の3連休だったと記憶しているが、大阪でなく宝塚の聖マリア病院(?だった)の緩和病棟にいる彼女を
見舞うことにして、切符を買っていた。

7時代の早いのを取っていた。

朝食をしながらテレビをかけると新幹線のトンネル内で崩落があり、上下線とも不通! とニュースが流れた。

すぐに駅に電話すると、復旧の見通しが立っていないので本日は予定を中止した方がいいでしょう。

彼女の病室の電話番号を聞いていたので、翌日に回すことを伝えた。

彼女を見舞うと、お姉さんである国語の先生も来られていた。

結婚されて東村山に住んでいると言われていた。そして娘がいたが脳腫瘍で早世したとも言われていた。

がんとは厄介で怖い存在だ。我が家の母も姉兄たちも皆がんで逝った。

私は何がんで逝くのか・・・と思う。

先週は・・・

2014-03-24 23:34:49 | 生活
k先生を翌日も訪ねた。
本とメガネを持参して、先生に本を開いて見せて読むかどうか尋ねる。
絵本形式の本である。
メガネをかけてみて「やっぱり、よう見えるわ」と本を貸してあげることにした。

また同じことを聞く。
「どこに住んでいるの?」
「両親は達者か?」
「仕事しているの?」

何だか受け答えが前日より、悪いような気がした。
だが、同級生たちの名前を出し、N野さんを覚えていますか?
「覚えているよ」
「昨年亡くなったのですよ」 少し沈黙!
他の人の名前を出すと「うんうん」とうなずく。

今回はティッシュを持って行き、ベットですぐ取れるように工作をして、職員にその実態を見せておいた。

体が右横に傾いているので、耳もほっぺも引力のせいで右に下がっている。
なので少しよだれもこぼす。

前日スイーッツを食べるとき、そのよだれをふき取ってやるのにティッシュがない。
職員に聞くと、箪笥の小引出しより出した。

あとでもう一枚使おうと、私が引出しを開けると殆どない。
しかも杖をつかねばならない人に、自分で出せっていうのかと思った。

なのでフックを持参してベットに取り付け、壁掛け式のように下げられるようにした。
ごみ入れもないでないか!
ビニール袋を少しずらして、ベットにくくりつけた。

翌週からは少し私に忙しさが、増してきたので以後k先生を訪ねていない。
ちょっと気になる。

18日、今年度最後の仕事で福岡に行った。
管理職に今年度終わりの仕事です、お世話になりましたと挨拶すると、
「次年度はどうされますか?」
「呼んでいただければ、喜んで」

「多分そうなるでしょう」
心の中で安堵感が広がった。

そして、次年度の誓約書と身体検査表を渡された。
20日にかかりつけのO先生の所で、検査を受けた。

私としては既往症を書かれた方が、ひっかかりになるのでないか心配だが
先生は私の聴力の方を心配した。

なによ、聞こえているって!


帰宅すると、近所の人から電話が入り「アンタ居なかったね」
外出していたと言うと、「4月5日にお花見に行こうよ、場所は新幹線公園、お弁当代は・・・」
の連絡に、一応参加することにした。
グリーンクラブという名で、地域の年配の人たちの集まりに誘われたので受諾してのことである。

インターネットで新幹線公園を検索するが、見つかりません・・・と表示された。
多分地域語なのであろう。

まぁ一緒に行けばいいことである。

お天気が良いので、裏の花壇に出る。
久しぶりなので、雑草に覆われていた。

水仙が自生しているので、仏様用に頂く。
今年は蕗が沢山生えていたので、適当に採って蕗の葉も、別々の味にして煮付けた。

ご近所の人に持って行くと、筍の煮つけをくれた。

物々交換である。

今日も雑草取りをして、市販のものと種類の違う三つ葉が自生しているので採った。

市販の三つ葉を姉は、椎茸を焼いてさっと湯がいた三つ葉と合わせて、辛子醤油であえたものを出してくれたことが、
あるが、(もちろん適宜な大きさに切って)その味が気に入り野生の三つ葉を使って、同じように作って食べるのである。

自然の恵みに感謝!

恩師を訪ねる

2014-03-15 22:05:27 | 人生
恩師が入居している介護施設を訪問した。
K先生である。
多分、いろいろ食べ物持参は無理かもと思ったが、デパートで「全国うまいもの大会」
があっていたので、飲み込みのよさそうな、硬いのは避けて今日食べてしまえるものを、
探した。
京都から、わらび餅が出ていたが、餅で年寄りが咽喉に詰まらせるという事故があるので
避けた。
そのお店が、抹茶をベースにしてプリンのようなかたまりにして、別な容器で粒餡を
のせて食べる、スィーツがあった。
初めてみるスィーツだった。
私はもちろん食べたことはない。
一つ買ってみた。
「冷蔵庫でよーく冷やして、今日中にお召し上がりください」と言って、容器の上に
クールパックを乗せて、渡してくれた。

別なお菓子を3っつほど買い足して、小倉駅のバスセンターに行く。
インターネットで聞いていた施設の名前で、検索し電話を掛け、宇佐町という町名を
聞いていたので、更に検索して地図を印刷して持参。
地図を検索したとき、グーグルのストリートビューが立ち上がり、この施設の番地だと
まだ建設工事中の映像だった。

右上に警告があれば報告するようになっているが、そんなことで時間をとりたくない。
要するに場所が分かればいいのである。

関西に住む弟さんによると、去年できたのです。と言っていたので、ストリートビューは
この地域の撮影のとき、間に合わなかったのであろう。

施設に連絡したとき、小倉駅から乗ればいいですと教えてくれたので、小倉駅の
バスセンターで宇佐町に行くバスを尋ねて乗車。

宇佐町で降りて、地図を見るがさっぱりわからない。

近くの建物から出てきた男性に地図を見せて、尋ねると、
「そこの角にローソンがあるから、そのローソンから左にまっすぐ行くと・・・」
と教えてくれた。

ローソンまで行くと、その前に明和町というバス停があった。
そのバス停のほうがよほど近い。

次訪問するときは、明和町で下車すればいいのである。

町名は宇佐町、名前は良く聞く町だが降り立って自分の足で歩くのは初めて。

少し歩くと、何とまあピンク色をベースにした、淡いベージュとツートンカラーの
大きな建物が見えてきた。

何だか周辺の町並みとそぐわない、浮きあがった感じである。

受付は2Fで1Fはオートロック、2Fでは図書閲覧室とスポーツジムがあり、
一般の人に開放している。

入居者募集の看板が目に付く。

先生の部屋は7Fである。

入って行き、私の名前を名乗り覚えているかと挨拶すると、小学校の名前を先生が
答えた。

「新しいことは、すぐ忘れます」弟さんはそう言っていた。
それが認知症の症状だから仕方がないわ。

小学校はどこを回ったか意図的に聞くと、3っつほど答えた。

我が母校には、先生は希望してきたといいすぐに5年生を受け持ったと言われた。
その学年こそが、私とクラス替えのなかった学年なのである。

「私の正念場だった学校よ」

私に、お母さんは元気?・・・みんな死に絶えて、私今一人です。
ふ~ん今幾つ・・・年齢を答えた。
どこに今住んでいるの・・・住所を答えた。

私も先生のこの場所、弟さんに聞いて来たのですよ。
先生は、大阪とか行かれるもんか!と言われた。多分弟さんは大阪に引き取ろうと
したのであろう。

結構会話は成り立っている。

行ってすぐお菓子を出して、食べれそうか尋ねると「食べるよ」と即答。

体が少し傾いているので、食べるとき印刷した地図をお盆のように抱えて、
私は先生がこぼしていいようにじっと持っていた。
持っている私の体制は中腰・・・なので少し腰痛が起きた。

案の上、時々こぼす。
これ美味しいね、アンタのはないの?
自分は家で食べるからいいと答える。

食べ終わると、私に住所と年齢をまた聞いた。誰と住んでいるのか?とも。
気長に答えると、早く結婚しなさいアンタまだきれいだよ。
ずっこけそうになりながら、そして笑いながら、今更行かなくても・・・

先生は自分は結婚しなかったので、子供もおらん、それでこの果てよ
バツなんやろと言われた。

1H居た。窓からの眺望は足立山が広がり、我が家の墓地も良く見えた。

そろそろいとまを告げると、先生は黙り込んだ、「退屈するね」
先生また来るから・・・ほんとまた来てね。

妹さんは大分にいるというので、多分誰も来ないであろう。
テレビも見飽きた。読書は続かないという。

食事は皆と食堂で摂るそうなので、このときとコールしたときしか人との、接触は
ないのであろう。

こんな生活・・・・目的もなく刺激もない生活では認知も進むのではないか、

きっとまた来ようと思った。

一つ掬われたのは、私がYさんを覚えているかと尋ねると、店をしていた人よね。
それで、思い立ち電話して代わると、何やら話しの返事・・・
うん誘ってね・・・

どうやら、Yさんが同窓会の話しをしたようである。

私にもっと生きねば、と言った。

傾いた体で杖を突きスタッフに支えられて、私を棟の出入り口まで送ってきた。
私はスタッフに、名刺(介護サービス相談員の呼称の)を渡して帰った。

こんな人が後ろ盾にいるんだよと、印象づけると先生へのあたりが少し代わるかも。

落語と音楽演奏会へ

2014-03-09 22:45:21 | 娯楽
8日(土曜日)は、「プロより上手い」と絶賛されているというふれ込みの、

プロではない落語を聴きに行った。場所はリーセントホテル。

面白かった。

生業を持っているのでアマチュアになるが、出演者の二人は公務員!

一人は川崎亭好朝・もう一人は粗忽家酔書、しかも教員!

もう20年近く落語していてあちこちに呼ばれていくそうである。

公務員は内職はできないので、ギャラは取らない。

なので500円の入場料のみだった。多分お車代として金一封があるやも、

会場費もあるだろうからねと、500円の行方をミーチャンハーチャン宜しく

従妹と休憩時間にクチャべりながら、次を待った。

粗忽家酔書さんは噺家という芸とは別に、紙切りも行う。

従妹がリクエストに桜を出すと、見事に日本髪女性が二人満開の桜の下で、お花見

しているのを、切り絵にした。

お見事!従妹は喜んで・・・・多分額に入れて飾るのであろう。

来年私は、素早くリクエストしようと来年もこの落語には来ようと思った。

9日(日)

アルモニーサンクという、以前は厚生年金会館と言っていた会場で九州交響楽団の、
ロシアバレエ音楽の世界~ソチ五輪によせて~

これは第一部として、第二部は合唱組曲「北九州」演奏会。

北九州の組曲は団伊玖磨の作曲である。

1978年の北九州市の市政15周年を記念して、作曲家の団伊玖磨の手によるものだそうで、
私は初めて耳にした。

何百人かの大合唱だった。

翌月曜日のNHKのローカルニュースで「筑後を歌う、大合唱、団伊玖磨の作曲」このような内容が

流れた。

大合唱していた年配の人たち、北九州も同じだ。ただ北九州はコンクール入賞校も参加していたので、

小中学生も交じっての大合唱だった。

同じ日にこのような催しがあり、面白いと思った。

この合唱のとき、思い出したことがある。

まだ姉が元気なとき、テノール歌手の錦織健と東欧の大合唱団のコラボがあったが、私がチケット注文するとき

姉にも打診すると行くと言った。

姉は日本古来のいわゆる謡曲を好んでいて、実際に自身もお稽古をしていた。

なのでもう一つの洋曲には興味がないのかと思っていた。

秋川雅史のコンサートのときもそうだった。

誘うと行くよだった。

今振り返ると、姉は一流が好きだったのではなかったかと思われる。

どの人もそうだろうが・・・・
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