みみのアンテナ

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恩師の死を知る

2017-10-17 23:06:49 | 思い出

小学校5,6年の時受け持って貰った、加治先生の死を本日朝知った。

昨年11月1日92歳で亡くなられたそうである。

先生には年の離れた弟さん妹さんがおられたというのは、知っていた。

そのご兄弟の進学費用を先生が支えていたことも。

未婚のまま先生は逝かれた。

 

そもそも先生の死を知るに至ったのは、M女の嘆きからである。

M女が引っ越しに至ったのは、私が一緒に動いたからである。

生活ができないと嘆いているM女に家賃の安い所に移るべきだと進言した。

そのやり方に消極的だったので、お尻を叩いてやったのが始まり。

敷金礼金なし、インターネットであらかた探し関連する不動産屋に同行した。

「畳の部屋は嫌、洋間がいいベットを置くから」

「トイレにはコンセントが欲しい」・・・自分の暖か便座を付けたいから・・・

彼女の荷物を見て、処分する家具があったとしても、最低2DKか2LDKがいいのではと私は見ていた。

だが彼女は1DKを選んだ。

今になって、狭い・足の踏み場がないと言って嘆いている。

そして、隣の部屋の人が、夜中に騒いで寝られないと言い出した。

睡眠導入剤を飲んでいるよね?と私がいうと、そでれも目覚めるそうである。

「ノイローゼになりそう!」折角半分くらい、元気になって来たのにぶり返すか?

ふと彼女が居住する範囲を広げて、ネット検索をしてみた。

片野新町・・・この地で資金権利金なし・安価な家賃・交通に便利・広さ

ふと片野新町は、恩師のマンションがあった地名である。

恩師は、介護着き有料老人ホームにいて、私が訪ねたとき「先生のマンションはどうなっているんですか?」

「さあね、そのままよ」と言っていたのを思い出した。

大阪の弟さんに電話して分かったのである。

先生の亡くなられたのが・・・・ 「先生のマンション、お安くお貸しできませんか?」

「もう、処分しました」

どうしようもない。彼女には「市営アパートに早く入居できるのは、民生委員や議員に頼むと

早いというの聞いたけど」「そんな人知らない」

「共産党に頼むと、必ず動いてくれるらしいよ、だけど後が大変よ入会させようと、いろいろ

 コンタクト取って来るらしいから」

頼み方が分からないようだが、電話帳で共産党事務所を調べたらどうなんやろうね。

正直私はそこまではしたくない。自分で調べてみて突破口を開くことや。

保証人がいるだろうから、それは保証人になってくれる、NPO法人を知っているからその名前を

彼女には教えてあげようと思っている。

もう明日、連絡取ってあげよう。 


友逝く・・・・②

2016-09-01 13:41:29 | 思い出

武蔵野の友人・・・・T子さんと呼ぼう。

T子さんはとても楽しい人だった・・・・⓵の時も書いたが

私が人と相対するとき、大体喋り方に回るが、T子さんとお喋りすると

笑ったり、うんうんと聞き方に回っている。

私は、なんどか出張や研修で、東京に行っているが、

「銀座のキャピタルホテルに泊まる」と連絡入れておいた。

ホテルに到着すると、ホテルマンがお客様がお待ちですと言った・・・??

ロビーでT子さんがニコニコ笑っていた。

一緒に私のルームに入ると、私も泊まるからね。

えぇ!  だってベットは一つよ。

私が連絡入れると、すぐにホテルに電話して、同じ部屋に宿泊したい。

ツインルームに変えて欲しい。

部屋は空いていなくて、隣ならシングルで取れるということで仕方なくOKしたとのこと。

夜も朝も一緒に食事して、0:00位まで喋った。

彼女はまだその時独身だった。

2度目彼女と共にしたのは、川越駅の近くに購入した彼女のマンション。

時々来るという、当時農林水産省に努めていた妹さんにお会いした。

妹さんはマンションには泊まらなかったので、二人で過ごした。

その時飲んだビールに氷を入れた。

2度目彼女のマンションにお邪魔したときはすでに結婚して、お花の草月流の師範の免許を

持っていたので、結婚していてもマンションの一室が稽古場になっていた。

この日は弟さんが泊まることになっていたが、夜遅く帰ってきたので会わなかった・

彼女から結婚して悩んだことを聞かされた。

結婚後まもなくに教会から寄付が来た。

いかほど寄付されますか?   20万くらいにしておきましょう。

この夫婦の会話に驚いた。

また人を紹介するとき、◎◎さんは▽▽大学を卒業されて、◎✖の職業で、何をされています。

要するに、誰かの講演に行くと、略歴を紹介するがあのようなのを、日常茶飯事に

行うということなのであろう。

生活レベルが違うことの悩みだった。

ご主人は同じ大学の工学部の教授だった。

文学部に勤務していた彼女は(私は彼女の仕事場にも行ったことがある)

もちろん見知ってはいない。

ある日大学からの帰り、雨が降って来たので雨宿りしていた。

そこに車が泊まり、乗りませんか? それがご主人だった。

 まるでドラマな出会いである。

それが縁で、時々会うようになった。

ある日、この音楽聞いてみませんか? と工学部の先生はテープを渡してくれた。

彼女は忙しかったので、しばらくテープの音楽は聞かなかった。

1~2ヶ月経っていたろうか、ちょっと暇な時間が続いたので借りていたテープ

の音楽を聞くことにした。

曲名まで聞いていないが、テープの終わりに先生の声が入っていた。

あなたと一緒にいたら、楽しいだろうなと思う・・・・

結婚してほしい。

彼女はびっくりして、しばし考えた。

誰とも結婚をしない・・・という選択肢は捨てていない。

自分が素敵な人だと思う人とはもう出会わないかも・・・と思った。

それで思い切って電話して、御受けしますと返事した。

先生は 本当!

あとで聞くと、彼女からの返事がすぐにないので、

断られたと思い舞い込んできたお見合いのお話しに、

耳を傾けていたときだったそうである。

全く映画の世界である。

続きはまたにしよう。  

 


40年前の資生堂ホネケーキ

2016-07-01 06:05:34 | 思い出

       

            

    姉は若い頃に茶道の裏千家のお茶名と、お煎茶の光風流のお茶名を

    頂いていて、いつごろか出稽古に行っていた。

    幼稚園に出向き、先生方にもお稽古をつけていた。

    昔からのお稽古ごとには、夏冬にはお月謝とは別に「お礼」を

    差し上げる慣例があった。

    今はどのようになっているのか、習い事に月謝とは別に「お礼」を

    するのか知らないが・・・・・

    このホネケーキは、幼稚園で戴いてきた。

    確か3~4回でなかったかと、思うが。

    匂いは良かった。

    洗顔用だが、使い切ってないときに次のを戴くので、

    在庫として貯まった。

    長姉は、肌が弱くこの石鹸は合わないと言って、1~2度使ったきりだった。

    それが、ふと体洗いに使い匂いがいいので、お風呂場に置くようになった。

    当然石鹸の消耗が早くなった。

    次姉は「いくら沢山あっても・・・・」

    何やら皮肉を込めた冗談を、言ったとに長姉はカチンときて

    2度と使わなかった。

    石鹸は中々減らない。

    私はいくつか福岡に戻るとき、貰って帰った。

    次姉は使っていいよというが、長姉は無視していた。

    この石鹸事件(まさしく事件)は解決せぬまま、姉達はあの世に旅立って 

    しまった。

    この石鹸は、最後のホネケーキである。

    洗面所の手洗い用に使っている。

    時々、常用の泡洗顔がなくなると、面倒なりと洗顔に使うが、長い時が

    経っても、ほのかに香る。

    新しいときには、もっと香りが強かったようにある。

    今でも売られているのだろうか?

    ホネケーキは!