みみのアンテナ

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占い師は諜報部員だった②

2012-12-23 15:18:13 | Weblog
 
 29歳になったばかりであった。

 縁談があった。
 足が一本無くても嫁に行こうと思っていた時期なので、合うときからそのつもりで
 見合いに臨んだ。
 
 その人は一度で私を気に入ってくれた。
 その人はバツいちであったが、籍に入籍する間もなく別れたと言っていた。

 何度もデイトに誘ってくれたが、会うたび私の気持ちに「この人とはうまくいかない」
 という気持ちが生じ、それが段々膨らんでいくのに気付いた。
 一度気に入って結婚した相手のことを、デイトのたびに批判(悪口)したのである

 一度目は、その人と旨くいかなかった理由を聞いたとき、うんうんそう? 
 私としては、だから今度は「貴女とは旨くいきたい」と結婚生活での青写真を
 一緒に描きたいと思っていた。

 会うたびに別れた伴侶の悪口には辟易してきた。
 私と旨くいかなくなったら、このように悪口を言うのだろうか!
 何回目かのデイトで、「一度は気に入って結婚した人のことを一度目の説明で、
 納得しました。でもそれ以上は聞きたくありません。
 デイトのたびに・・・もっと青写真を一緒にお話したかったのに」
 私の言葉は決してやさしくはなかったと思う。
 
 その人の顔色が変わった。
 貴女に未練があると思われたくなかったので・・・と一言。

 もう遅い、出発からすれ違っているではないか!
 今更私の気持ちが、出発点のあの純な気持ちには戻れないと思った。

 もういやになった・・・止めよう・・・姉は足が一本無くても行くって言っていたで
 ないか。

 結局サヨナラをした。

 多分縁談はしばらくはないであろう。

 嫌いな洋裁なんか誰が生涯の仕事にするものか!
 真剣に仕事探しを始めた。
 2Hのパートタイムにさしあたりいくことにした。
 そこにTさんという、若い女性も来ていた。

 「昼間も働いているの?」そうだと答えた。
 木材会社の事務員である。
 事務員の募集はしていないか尋ねると、枠があるという。
 そろばんは出来ない、簿記も出来ないというと、今は計算機導入しています。
 それに、簿記は専門の人がいるし、当面は私が補佐しますよ。

 社会保険もあるし、ボーナスもある。
 こんないい話があろうか!

 面接に行き、いつでも好きな時から来ていいよと言われた。
 昼食のお弁当も会社持ちで出る。

 入社して分かった・・・事務員はすぐ止めていく・・・なぜなら?
 社長はワンマンで、社員を怒るとき遠慮なしにお構いなく、怒鳴る。
 男女関係なく。それに会社の雑用をしているオバサンがいた。
 口やかましい人で、雑巾一つ絞るのも、バケツに水汲むときの行動もやかましい。

 あのオバサン何?
 社長のお姉さんよ。
 この会社の情報をもっと知っておきたかったと云うと、Tさんはそれ言うと、
 来る人はいないよ。
 しかし、Tさんは3年くらいもうこの会社で事務員をやっている。

 社長が私とTさんを料亭に連れて行ってくれた。
 Tさんは、こんなこと初めてだと言った。

 会社の人が私に飲みに行こうと誘うが断る。
 パートタイムはしばらく二人して行っていた。
 すると、跡取りの婿で時期社長の副社長がパート先に顔覗かせた。
 この方は北海道大学で教鞭を取っていたらしい。

 Tさんに言わせれば、こんなこと初めてだといった。
 今にして思えば、どうやら私は目立った存在だったようである。

 自分で折角入社したが、何か違うと感じていた。
 会社とはこんなものか!
 そのうち社長は100万円という大金を私に集金してくるように命じた。

 びっくりしたが、従業員の車で行くのである。
 車に乗っていたが、集金した大金は胸に抱いて会社に戻った。

 こんなとき、 
 姉が公務員の試験を受けてはどうかという。

 勤務は学校専門だが聞いたことの無い職種であった。
 それは県の職員にもなるとのことだった。

 今年度の試験はもう終わったので、次年度受けてはどうか?
 その気になった。
 Tさんに一応そちらに向かって行きたいと、耳打ちした。

 休み時間に勉強するようにした。
 すると、休み時間二人でこもってはいけない。
 交代で、電話番をせよという。

 今までこもっていたのに。
 日曜・祝日は休みだったが、一月に一度日曜出勤するようにと命じられた。

 今なら労基法違反で、訴える方法も知っているが初めて会社勤めなので、
 こんなものかと思ったものである。
 代わりに平日に休みをやるとか提示がなかった、勉強するヒマがなくなるので
 Tさんには悪いけどもう止めるからと、自分の意向を伝える。
 公務員の試験を受けることは、落ちてはいけないのでシークレットであった。

 止めることを、会社に申し出ると引き止められた。経理事務の年配男性が窓口だった。
 「ず~っと仕事続けると言ったでないか」
 「別にしたいことが出てきたのです」
 申し出た当月の月末で止めたいと言ったのに、社長は何に腹たったのか「明日から
 来なくていい」と言った。

 情けなくて心で泣いた。止めたあと、Tさんが
 「社長が知り合いに新聞記者がいる、結婚しないかと言っている」
 と私に連絡して欲しいと言ったそうである。

 いやもう、この会社とは縁切りにしたいと思った。

 1年後私は公務員の試験に受かった。

 そして、公務員として勤務初めて、会社の経理担当している年配男性のAさんに
 ひょっこり会った。

 Tさんから、私のその後のことは伝わっていなかったようで、いきさつを説明
 することになった。
 Aさんはそんなことなら、言えば良かったのにと云ったが「落ちては恥ずかしいので」
 社長や副社長にお伝え下さいと挨拶した。

 やっと溜飲の下がった思いであった。

 占い師の話しを最近思い出している。

 右に行くも左に行くも自分で決める。
 人生180度変わるから・・・
 つくづく変わった人生で良かった!

 

占い師は諜報部員だった

2012-12-18 00:01:40 | Weblog

若い時は手相見・占い師・姓名判断等の門をくぐったものである。

大抵は気休めでそれで生涯や自分の進路を決めようと思うものでない。
自分の人生は自分で決めるのがよい。

自分の人生だからである。

今振り返ると、当たっていると云う占いが2件あるのを思い出した。

一つめ20代の半ばである。
私はそれより数年若いときである・・・・いや学校卒業して1年位立った頃
卒業した学校にPTA雇いで1年半程勤めたことがある。

同僚と週のうち半分は喫茶店に寄って油を売り帰宅していた。
お稽古ごとと称して夜洋裁教室に行かされていた。

正直針仕事は苦手で、どちらかというと嫌いである。

母は私がスカートの裾の折り曲げた部分の糸がほつれ、それを安全ピンで
止めているのを見つけ、女性がそんなことではいけない。
ボタンつけやほつれ位出来ねばならないと、洋裁教室に行かされる羽目になった。

先生は男性で県立学校の家庭科の先生で退職されたあと、自宅で教室を開いておられた。
夜・・・帰るとき人通りは少なく暗い夜道であった。
    結構生徒はいた。帰りに連れがいるときは良かったが・・・恐い。

今日は雨風が強いから休む。どうしてもテレビの見たいのがある。
洋裁道具は置いたままである。

ワンピースにすると云って裁断を習い上の見頃は形になっていたが、袖は片方のみ
スカートの部分はまだ胴体についていない・・・なのでワンピースの体をなしていない。

他の人は1ヶ月位で(週2~3日の教室)1枚出来上がっていた。
先生は2ヶ月目に入っている私に「進んでいますか?」声を懸けてきた。
「はぁ」と何とも消極的な返事を記憶している。

結局いつの間にか行かなくなった。洋裁道具は置いたままで・・・

母はそれならきちんと洋裁学校に入学するように(ドレメ・文化学院等)
そうするようにした。

勤めていた学校は5月に辞めた。日教組が強く人事に反対して教員ストが頻繁に
行われており、この歳私の記憶に謝りがなければ教育委員会の教員の人事発令は、
4月1日でなく5月に行われたのである。
なので、私は5月に辞めたのである。

洋裁学校の入学は4月と10月である。
私は10月の入学まで遊ぶことになった。

歩いて数分の所に洋装店があり、我が家では母も姉ももちろん私もその店に、仕立て
を頼んでいた。
洋装店のオーナーで近所の人は先生と呼んでいた、その先生が注文に行った姉から
私が洋裁学校入学を待っていることを知り、仮縫い位は出来るだろうから、それまで
手伝いに来て欲しいと云われ行くことになった。

夜は自分の服を縫いに来ていいよと云われ、昼も夜も行くようになった。
月謝を出すのでなく、手伝いに行くのでお駄賃をくれるのである。

10月洋裁学校には入学しなかった。
こんな家の近くに、つっかけ履きでお小遣いになって、おまけに自分の洋服は教えて
貰いながら縫えるのである。

こんなわけで腰を据えた。・・・嫁に行くまでこれでいいか!
数年経っていた。
やはり針仕事は苦手である。肩は凝るし中々嫁入り先もない。

小学校時代の友人は仕事を辞めたいと言っていた。
私は別な仕事を新聞で探し履歴書を出していた。

二人で運勢見の所に行った。
Nさんが最初に見て貰った、次に私である。
迷っていることは云わず、ただ生年月日と名前を提出しただけである。

私に「今家か何か代わろうとしているかね」びっくりした!
「仕事を代わろうと思っています」
「どこに行っても秋の風は吹くよ、代わらないことを勧める」またびっくりした。
Nさんには「自分の好きな方向に決めるといい」

私は仕方なく洋裁を続けることになった。
Nさんは代わった。

更に数年経っていた。
相変わらず嫌だ嫌だ辞めた~い。
今度お見合いがあったら、足が1本なくても嫁に行こう、と決めていた。
すでに見合いの回数20回を超えていたが、「帯に短したすきに長し」で、
ピンと来る人には一人しか出会ってない(悲しいかなその人とは縁がなかった)

別なYさんという友人と、良く当たる運勢見がいるそうよと出かけた。
Yさんとは別々に見て貰った。

眼光するどいこの運勢を見る人は、今の時代だから云うけれど私は戦時中大陸で
諜報部員をしていた。この頃易の見方を現地の人に教わったのである・・・・と

もしかして“陸軍中野学校”出身かも・・・

私に、貴女ね来年あたり(その時は秋も過ぎていた)生涯の進路を決めるようなことが
あるよ。右に行くか左に行くか自分で決めることがある。
どちらに行くかで180度代わる人生だよ。

それは今思い出して、当たっているのである。
また機会があれば、このブログで独り言を言おう。