松田優作は、いま思えばアクション俳優から脱皮しようと画策した「家族ゲーム」撮影中から、メディア向けにこう連発していた。
「ライブイン・茅ヶ崎」がPFFで入選し(だから1978年頃のぴあにはこの作品の告知が毎号のように載っていた)、「の・ようなもの」で注目されていただけのど新人を、リップサービスもあるとはいえ、そこまで断言して大丈夫かと思ったら、映画の出来は想像を超えていた。確かに、天才だった。
ただ、シャイな性格の裏返しのためだろう、年賀状で「流行監督宣言」なんかやっちゃったものだから業界でバッシングを受けたこともあってか、彼は映画界において決してメインストリームにいようとはしなかった。
だからいつまでも巨匠ではなく鬼才あつかいだったのは本人も納得ずくだろうか。享年61。60歳の誕生日に死んだ小津安二郎よりも年長だったとは意外だ。新鋭のイメージがなにしろ強烈だったから。
作風は、良くも悪しくも『頭で考えた』感じ。広告代理店が使いすぎて手垢がついたフレーズ“コンセプト”がはっきりしているというか。名場面だった「の・ようなもの」の道中づけ、「家族ゲーム」の静謐なラスト、「それから」の赤い影などは、そのコンセプトが奏効した部分だと思う。
個人的には「ときめきに死す」において「涼しいですね」とテロリスト沢田研二、杉浦直樹がやりとりするシーン、「悲しい色やねん」の森尾由美のかけ声、そしてなんといっても「の・ようなもの」のラストが大好き。脚本を担当した(監督は根岸吉太郎)「ウホッホ探検隊」の静けさもよかったなあ。
製作者としても有能で、業界で干されていた爆笑問題を「おいしい結婚」でコメディリリーフに使い、のちに太田光を監督に起用したりもしている。だから彼の森田哀悼のコメントは重みがあるはずだ。
頭のいい人だったから、こんな映画も撮れるんだぞ、と主張したような「武士の家計簿」的方向に行く選択肢もあっただろう。ストレートな直球が余技にみえる才能。まことに、惜しい人を……。
きっと照れ屋だったからだと思うんです。小津にしても、
思い入れたっぷりの演技は拒否していたでしょう?
あれに近いものがあったんじゃないかなあ。
「噂のストリッパー」は見てないんで、ぜひともディスカスしたいと
思いますっ。
でも森田芳光が評価され始めたころは、
まだ技術に走る作家は貶められていたかも。
テーマ第一主義は生きていましたから。
森田監督作品ではありませんが、「ウホッホ探検隊」
は一度観てほしいと思います。
あれは、どう考えても小津を意識してたと思うんです。
森田芳光の栄光と不幸は
“いかようにも撮れてしまう”
あたりだったと思います。もちろん不自然な
セリフまわしとかも含めて。
おそらく、“業”とか“必然”とかとは無縁だったのでは
ないかと。ファンに怒られそうだけど。
少なくともそう考えて嫌っている人はけっこういますよね。
尾崎豊の破綻は、幻冬舎の見城社長の本でそれこそ必然
だと思いました。ありゃー長生きできないわ。
お!名古屋のATG二本立て、シルバー(ゴールド?)劇場
家族ゲーム、ドッカンドッカン受けてました。
映画の、ストーリー以外の楽しみをたっぷりこってりと
教えてもらった監督さんでした。
画面の温度が低い感じ、いいですよね。
「の・ようなもの」の道中づけは、しかしめずらしく
激しいので、その破綻もうれしいです。