陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー「クレメンティーナ」その11.

2010-05-05 22:19:11 | 翻訳
11.

 ホテルは“ディ・ルッソ”そのもので、エレヴェーターで上がっていったふたりは、厚い絨毯が敷きつめられたホールを歩き、豪華な部屋へ通された。ふかふかの絨毯はどこまでも続き、トイレまでもがすばらしい――ビデだけは備え付けられていなかったが――。ボーイが帰っていくと、ジョーはウィスキーのボトルを旅行鞄から取り出して一杯引っかけてから、ここにおすわり、と自分の膝に呼んだ。彼女は、もうちょっとあとでね、と答えた。あとよ、こんなに明るいと具合が悪いでしょ、月が上るまで待って。下に降りて、ダイニング・ルームとラウンジが見に行きたいわ。

彼女は潮風でミンクが痛んだりしないだろうか、と考えており、ジョーはもう一杯飲んでいる。窓から外を見ると、海と、うち寄せる波の描く白い線が続いていた。窓は閉まっていたので、打ち寄せた波が砕ける音も、夢の中で聞いているかのようだった。

ふたりはまた下へ降りていったが、何もしゃべらなかった。というのも、贅沢な場所では「ベラ・リンガ(※美しい言葉)」が使えないのなら話などしない方がいいと、はっきりと思い知らされていたからだ。ふたりはバーをのぞき、豪華なダイニングルームを眺め、外に出て、海沿いの歩道を散歩した。海はヴェニスのようで、風もまたヴェニスのように潮のにおいがした。運ばれてくるにおいの中には、フライのにおいも混じっていて、それをかいでいるうちに、ローマでのサン・ジュゼッペのお祭りを思い出した。

彼らの横には、緑色の冷たい海が広がっている。その海を越えて、この新世界にやってきたのだ。海ではない方の側には、心引かれるものがいろいろあった。歩道を歩いていくと、ジプシーたちがいた。窓には人間の手の絵が描いてある。手相を見てもらえるらしかった。彼女がイタリア語が話せるかと聞くと、ジプシーは「シ、シ、ノン チェ ドゥッビオ(※ええ、ええ、いかがわしいものではありませんよ!)」と言うので、ジョーは1ドルを手に握らせた。彼女はジプシーについてカーテンの向こうに入っていき、ジプシーは彼女の手を見て、運勢についてしゃべり始めた。

ところがジプシーが使うのはイタリア語ではない。スペイン語と、クレメンティーナがこれまで聞いたことのない言葉が少しずつ入り混じった、ひどく変則的な言葉で、話のそこここで彼女に理解できたのは、「海」と「航海」という言葉だけだった。だが、その航海も、彼女がこれからすることになるのか、それともしてきたと言っているのかはわからない。イタリア語がしゃべれもしないのに、そんな嘘を言うジプシーの話に、もうそれ以上耳を傾けているのがいやになって、お金を返してちょうだい、と言った。ところがジプシーは、もし金を返せなどと言おうものなら、呪いをかけてやる、と言う。

ジプシーの呪いがどんなものか知っていたので、それ以上抵抗するのはやめて小屋を出ると、ジョーが待っている木の歩道に戻った。そうしてまた、うきうきするようなフライのにおいのただよう海沿いの道を歩き出した。何とか彼らの財布の紐をゆるめさせようと、売り子はまるで地獄の天使のように、笑いかけ、手招きしていた。

黄昏時だった。沈んでいく太陽が真珠のように輝いている。振り向くと、ホテルの窓がピンク色に染まっていた。そこでは彼らが客であり、彼らの部屋があり、いつでも好きなときに戻ることができるのだ。波の音が遠くの山で発破をかけるかすかな音のように響いていた。



(この項つづく)