陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

居場所を求めて

2010-05-18 23:00:46 | weblog
もう少し「居場所」の話を続ける。

物理的な文字通りの居場所はある。自分のやるべき仕事もある。にもかかわらず、やはり「居場所がない」と感じることもある。もう少し正確にいうと「居場所がない」というより、「ここは自分のほんとうの居場所ではない」という意識だ。

以前、マンションの自治会の役員をやったときのこと。
中に、妙に協調性のないおじさんがいた。ひどく高圧的な物言いで、会議中、誰かが発言していると、平気で遮って自分の意見を口にするくせに、人がちょっと話に口をはさもうものなら、「オレの話が聞けんのか」と大きな声を出す。どうやら数年前に会社を定年になったようで、「あの人は未だに重役気分が抜けない」と陰で噂する人もいた。

そう言われてみれば、「自分の話はみんなが耳を傾けて当然」「自分の提案を実行すれば、万事まちがいがない」という態度は、人に話を聞かせ慣れている人のそれで、いきなり腰を折ってまでするような話か、と思うこともあったが、その人はそれで通用するほどのポジションにいたのだろう。わたしなどはてんで「女の子」扱いで(そんなに若くはなかったが)、「パソコンは女の子にやってもらったらいい」などと顎で使われて、もっと人当たりの柔らかい、人間の練れた人に「すまんなあ」と頭を下げられたりもしたのだった。

その人の態度はまさに「ここは自分のほんとうの居場所ではない」「自分はこんなところにいるような人間ではない」といったもので、「ほんとうの居場所」の話もよく聞かされた。自分はそこで、どれだけバリバリと仕事をこなしていたか。年間、どれだけの金を動かしていたか。自分の一声で、どれほどのことが決まっていったか、などと。

それでも、その人はマンションの自治会、という居場所を、決して不快には思っていなかっただろうし、自分の居場所がない、とも思っていなかっただろう。ただ、そこにいるわたしたちに、「自分が何者であるか」を説明しようとしていた。すなわち、いまある自分の姿、仕事を定年退職して、ポロシャツを着てコットンのズボンをはいている自分の姿ではなく、スーツをばりっと着込んで、「××社」という大手企業の看板を背負った自分を見て欲しかった。自分を「××社重役」として見て欲しかったのだ。

だが、自分が仕事がどれだけできたか、自分にどれほどの能力があるか、と説明すればするほど、その人の姿は滑稽に見えた。自分は頭が良かった、大学はどこそこを何番で卒業した、と力説すればするほど、気の毒な話だが、馬鹿に見えた。

これは、わたしたちが日常的に経験することだけれど、自分が頭がいい、という人は、例外なくたいしたことはない。自分が美人だ、と公言してはばからない女の子は、多少かわいいにせよ、自分で思っているほどではないし、自分には特別な才能があると言う人のそれは、概してたいしたものではない。

それはなぜか。それは、その人が生まれつきの素質や頭の良さだけで処理できることしかやってこなかった、そういう狭い場所にしか身を置いてこなかった、ということを、証明しているに過ぎないからだ。

何かをやっていれば、かならず壁にぶちあたる。自分のできなさ、頭の悪さをかみしめなければならないことになる。広い世界に身を置けば、自分よりはるかにきれいな人、スタイルも良く、頭脳も優秀で、高度な技術で楽器が弾けたり、語学に長けていたりする人を、いくらでも目の当たりにすることになる。自分のぶちあたった壁を軽々と乗り越えていく人を、痛みと共に眺めるしかない経験をしなくてはならなくなる。

そうやって、歯がみをしながら、なんとか壁を乗り越えても、またつぎの壁が待っている。自分の前には、つねに「自分のできないこと」が待っている。

同時に、たとえ何かができるようになったとしても、ほとんどの場合、自分の努力などほんのちっぽけなもので、自分を助けてくれる人がいたり、引き上げてくれる人がいたり、自分とは関係のない、「たまたま」によって、それが可能になったことを知るようになる。それができない人とできる自分の差など、自分のあずかり知らない「たまたま」のせいでしかないことがわかってくる。自分がこれまで後生大事に抱いてきた「セルフイメージ」が、どれほどちっぽけなものであったか、骨身にしみてわかってくるのだ。

そうやって、壁をいくつも越えて、やがて気がつくのは、いまの「自分」を作り上げたのは、生まれつきの「頭の良さ」でも「素質」でもなく、自分がやってきたことであり、出会った人びとである。だからこそ、自分が何者であるかを誰かに知ってほしければ、共に過ごし、一緒に何かをするしかないことがわかってくるのだ。そうして、いま自分がいる場所が「自分の居場所」だということも。

人は、自分のことをさまざまに評価する。それは、自分の望む像であることの方が少ないだろう。その像の食い違いに気がついて、自分の「セルフイメージ」を相手に押しつけようとしても、それは無駄な話だ。あなたの目の前にいる自分は、ほんとうの自分ではない、と言っているのにほかならないのだから。説明のために、かつての居場所や数字などを「客観的な証拠」として持ち出したところで、それがいったいどれほどの役に立つことだろう。その元重役と同じで、力を込めて言えば言うほど、人はその人から距離を置いていくだろう。

それでも、わたしたちは、ほかの人にいてもらわなければならない。「自分の居場所」であるためには、そこに自分以外の人がいてくれなければならないからだ。誰もいないところでは、「自分」は存在できないからだ。

だとしたら、人が自分に対して評価する通りに、ふるまうしかなくなるのだろうか。ほかの人の見る自分の像が、自分が「こうありたい」「こうやりたい」「こう生きていきたい」と思うものとまったく異なっていたとしたら、わたしたちにとってそれは受け入れがたいし、そういう人たちに取り巻かれていると、そこは「自分の居場所」とは呼べなくなる。

だから、そのときは闘うのだ。自分の居場所を作るために。
自分がどういう人間か、焦って言葉で説明する代わりに、共に経験を重ねるのだ。

――あなたにそこにいてほしい。
だって、ここはわたしの居場所だから、と。