hiyamizu's blog

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小田嶋隆『小田嶋隆のコラム道』を読む

2013年02月05日 | 読書2
小田嶋隆著『小田嶋隆のコラム道』(2012年6月ミシマ社発行)を読んだ。

足掛け5年、ミシマ社ホームページ(「小田嶋隆のコラム道」)及び「ミシマガジン」に掲載された人気連載「コラム道」の書籍化だ。
内田樹氏との夢の対談も収録。

当たり前だが、コラムの書き方が書いてあるわけではない。コラムの特徴は何か、コラムを書くときの心得に触れている。

全画面の中から何を切り取るかがポイント。
絵には構図がある。・・・「全世界は作品にならない」・・・絵を描く人間が最初に直面する問題は・・・「何を描くか」なのである。・・・コラムは、短いライン数の中で、何かを言い切る仕事だ。

ある出来事について書くときに、その出来事そのものに注目するよりも、事実と背景が織りなす「形」に視点を移したほうが、事件の本質をとらえやすくなり場合があるということだ。


推敲はアタマが冷えてから行う
・・・執筆中の書き直しや読み直しは、正式な「推敲」とは別だ・・・「推敲」は、別途、別の時間に、別の形式で読むという方法において、必ず必要だということだ。


私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

さすがコラムシスト、いくつかにはなるほどを思うことが書かれているが、それぞれはバラバラで全体としても構成は希薄だ。なにしろ、5年に渡って書かれたものでは致し方ない。

思考の最大到達距離が、五メートルである人がいたとする。その人間は、アタマの中で考えているかぎり、半径五メートルの範囲でしか自分の視野を確保することができない。・・・文章を書く作業は、たとえば、岩場にハーケンを穿つ動作に似ている。ひとつ文を書くと、足場がひとつ増える。

人によっても違うだろうが、私は書き下していくことで頭が整理でき、次への展開を考えることができる。

アイディアは突然やってくる。・・・
わざわざ自転車を停めて書きとめた構想も、眠い目をこじあけて記録したショートストーリーも醒めた目であらためて読み直してみると、凡庸きわまりないクズネタなのである。・・・メモはゴルファーにとっての素振りのようなものだと考えて、ぜひ無駄と思わずに、なるべくこまめに書くようにしよう。

私も枕元にメモを置いてある。名案だと思って書き留めると、当たり前のことが多い。

年月が経過してもきちんと意味が読みとれるメモをとるために、独自の訓練を積むという考え方もそれはそれで悪くはない。が、そういうメモがとれるようになった人間は、たぶんジャーナリストになってしまう。私の見るところ、それは格落ちということになる。

コラムニストの誇り?

・・・たとえば、『源氏物語』には、主語のない文がとても多い。・・・この「主語を明示することをはばかる感覚」は、現代にも引き継がれている。・・・短歌や俳句はもちろん、詩においても、主語は極力排除される。
・・・
一般に、新聞の記事は主語を明示しない。読んでみればわかる。どこにも書き手の顔が見えないように書かれている。・・・記者は、「われわれは菅直人を支持しない」と書く代わりに「菅政権に対する不支持が広がっている」と書く。

だから、私をはっきり出すコラムは、記事の中で囲まれて区別される。



小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年東京赤羽生れ。早稲田大学卒。
食品メーカー営業マンを経て、テクニカルライターの草分けとなる。
国内では稀有となったコラムニストの一人。
著書に、『我が心はICにあらず』『その「正義」があぶない。』など。



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