●8月29日(金)
<左京最北の地、久多に>
今日は、左京の山間部、久多に!
途中、大原は梅の宮神社前のバス停のところの川に先の大雨で倒れた樹木のことで現場を見る。このまま放置しておくとたいへんです。早速、区役所と連絡を取って対処を要請しよう。
そして、大原からおよそ40分ほどかな。途中トンネルから滋賀県に入り、花折トンネルを越えて、大津市梅ノ木から針畑川の渓谷沿いに狭隘な断崖絶壁の道を進むと、右は朽木は生杉に行く道との分かれ。そこからが久多。久多のオートキャンプ場。ウルグアイ・ランド合意による関連対策として設立されました。竣工式にも行ったよ!
山の向こうは福井県です。畑は鹿と猿が食べに来るので、金網を囲んで畑をされている風景は、つらいね。ポスターを貼ったり、知人宅に挨拶に行くと築160年の立派な家で お茶を御馳走になる。
昼ごはんは、3年前に開店した「いろは」で地鶏のうどんとおにぎりと。卵焼きもついて850円!美味かった!
<モニタリングポストのこと>
そして今は廃校になった久多小学校のグランドの片隅に原発事故等に備えるため、京都府が設置したモニタリングポスト(放射能測定装置)。久多の山の向こうに高浜原発があります。
京都市のUPZ(緊急時防護措置を準備すべき地域)は、左京区広河原と久多なのです。この9月20日には、京都市原子力防災訓練が実施されます。 広報によると、訓練に参加する住民が避難マニュアルに定めた電話連絡網を用いて避難する旨の情報を伝達し,互いに助け合いながら,訓練会場(避難時集合場所)へ移動し,汚染検査(スクリーニング)や健康調査を受けるまでの流れを実地に体験する。また,訓練後,同会場において,原子力防災等に関する知識を習得するための講習会を開催されます。
<大見新村プロジェクト>
そして367号線を引き返して、大原小出石から国道477号とは名前だけの坂道を上ると百井の集落。そしてさらに奥の大見に。
残土投棄の大見公園計画に反対して論陣を張ったのは、もう27年前。大見の藤井一家とはもう30年以上の付き合いかな。今では藤井康裕君が、大見新村プロジェクトを立ち上げて、左京区役所のまちづくり支援交付金受けて、若者たちが集い始めている。NHKの取材チームも来ていました。
来週水曜日午後6時過ぎの「京いちにち」で放映されますよ!みなさん、がんばってね!ここまでポスターを貼りに来る議員はいないだろうよ!道中、先の大雨で道がかなり荒れているなあ。
山岳ドライブから帰ったのは午後4時過ぎ。錦林小学校に明日の夜市のために机を借りに行く。なんとか準備も進んだ、後は、明日の天気と安全に進行できることを願うのみ。
●8月28日(木)
朝、聖護院の眼鏡店、吉川文一君のご母堂の葬儀。彼は、中学時代からの同級生で、近年は消防団で地域に貢献してきた。家族葬でしめやかに営まれる。読経されたご住職は、知人でした。
午後は、ポスター貼りなどで地域をウロウロ。
夕方は、白河総合支援学校の前校長先生、森脇勤先生の御尊父様で総合支援教育に長年尽くされてきた森脇功先生の通夜。経糸の会、ヒューマンふれあいコンサートの実行委員会などで何回かお会いしたことがあり、ご焼香に。心よりご冥福をお祈りいたします。
その後、屯風にて吉田東通の夜市の実行委員会。明後日の開催に向けて最後の打ち合わせ。晴れたらええなあ!
●8月27日(水)
久しぶりに晴れ間が見えた朝、熊野神社前で2週間ぶりかな、街頭行動。テーマは防災。ぼちぼちがんばります。音が大きすぎますと注意を受けて、ともあれ自粛。
それから、「吉田東通の夜市」のビラまき。
夕方は、わが後援会の事務局会議。島内研府会議員も同席してもらって、今後の市政懇談会の日程などを考える。
<鈴木マサホ、生い立ち、そして青春時代>
ところで以下の文章は、ぼくが主宰している地域ウエッブサイト「左京ライフ」にコムペイジの牧野君が作ってくれたインタビュー形式の項目に喋り口調で書いた原稿。参考までにわが青春時代、ご笑覧ください。ちょっと長い文章だけれど貼りつけておきましょう。
――――――――――――――――――――――――――――――
Q 幼少時代の話をきかせてください。どんな子供だったのですか?
子供の時に熱中して事はありますか?小・中・高校と、どんな生徒でした?
A ぼくの小さな頃からまず中学生時代から話しましょう。
ぼくの生まれたのは、1949年昭和24年、戦争が終わってちょっと落ち着いてきた時代かな。ベビーブーム、団塊の世代。今の事務所があるところが、ぼくの生まれ育ったところ。社家がたくさんあった。ぼくは鈴木家14代目。我が家も大きな敷地で、土蔵もあったし「おくどさん(かまど)もあった。親父は、京大の職員。兄弟は男の3人。ぼくは長男。おばあちゃん子やった。
幼稚園は、今は「国際学生の家」になっているところにあったキリスト教の「錦林幼稚園」。小学校は第四錦林小学校。今では 2クラスしかないけれど、なんと一クラス50人はいたと思うけど7クラスだよ。「芋の子を洗う」というけど、グランドなんかもうごちゃごちゃ。
吉田山が遊び場で、当時はいまほど樹が生えていなくてソリ遊びや基地を作って遊んだし、三角ベースというソフトボールで遊んだり。
相撲は若乃花と栃錦の時代。プロ野球は、長嶋選手がデビューしたのはぼくが3年生の頃か?少年マガジンが発売されたのもその頃か。マンガも読み始めたし、ちょうどその頃、皇太子のご成婚ということでテレビが普及し始めた。それまでは近所の家にテレビを見に行ったよ。電話は呼び出し!まあまあ勉強はできた方かな。
6年生の時の担任のゴジラというあだ名の山内光夫先生はみんなが大好きやった。大文字山などよく連れて行ってもらったなあ。野球盤でも遊んだのを覚えてるよ。暖房は石炭ストーブだったよ。
給食はなんでも食べたけど脱脂粉乳は鼻をつまんで飲んでた。また鯨がよく出てたね。
中学は家から走って1分。近衛中学校。なんと一学年17クラス。プレハブ教室。夏は暑い暑い。地歴部とかに入ってたかな?1963年、アメリカから初めてテレビ中継があるということでテレビを見ていたらケネディー大統領の暗殺事件。もう驚いた。まあまあ勉強したと思うけど、英語は嫌いやった。生徒会の役もしてたかな。じいさんが亡くなってから、おばあちゃんと一緒に暮らしたこともあった。あんまり中学の時の鮮明な記憶はないなあ。
Q で高校時代はどうでしたか
A 1964年、東京オリンピックの年、新幹線が開通した時か、鴨沂高校に入学する。この頃は地域制というので、公立高校は鴨沂に決まっていた。まあまあの成績だったら入れたし。
鴨沂は自由の学風が伝統的にあって、制服はないし楽しかった。クラブは山岳部。北山に北山荘という三高時代からの山小屋があって、新入生歓迎コンパで酒を飲まされたよ!あれから飲みづづけてるね。生徒自治会活動も熱心にしたよ。3年の時の「仰げば尊し」という、山車をみんなで作って紫野グランドまで行進する3年のときの大イベント!もう最高やね!ガールフレンドもいたし、御所でよくデートもした。ほろ苦い思い出はたくさんあるよ。
そうそう、ジュリー、沢田研二は同級生や。クラスは違ったけれど空手部やったか、また漢文のクラスかなにかで一緒になった。確か彼は修学旅行のあと退学して音楽の道に行った。
それで、社会のこと。ちょうどベトナム戦争が激しくなってくるとき、アメリカの北爆もあり、南ベトナムの弾圧もひどかった。そのころかな、ベトナムに平和を!集会にも初めて行った。
鴨沂高校の3年間は充実してたなあ。
でも、受験勉強もほとんどしてないし、大学は受かるわけがなし。もちろん一浪(ひとなみ)。近畿予備校に通い、途中からは部屋にこもって猛勉強した。イントレピッド号から4人の脱走米兵が現れて、スエーデンに亡命したというニュースは印象に残ってるよ。
Q 一浪して大学に入ったのですね。「ベ平連」運動に参加されていたとか?
A、そして大学時代のこと。話せば長くなるよ。何せ大学を卒業するのに9年かかっているしね。
4つほど受けた大学で同志社の文学部文化学科文化史西洋史専攻にかろうじて合格した。入学式ではヘルメットを被った学生が演説してたよ。まさにベトナム反戦、学園闘争の始まりの頃。
山岳部に入ったが、トレーニングがきつくて、またロッククライミングの練習でよく落ちかけて、こらアカン。夏前に辞めた。入学して、2か月か、6・15、ヒッチハイクで同級生と東京に行って、作家の小田実さんがリーダーのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加。銀座をデモしたよ。昂奮したね。それからはベ平連運動に邁進!
8月には「反戦と変革のための国際会議」が国際会館であった。事務局として聖護院おおぎや旅館に住み込みや。
京大、同志社、立命などバリケードストなどあり、百万遍で火炎瓶が投げられたり騒然とし始めた。
デモばかりしていたなあ。そして反戦脱走米兵に出会う。我が家の近くに下宿をさせてぼくが世話役みたいなもの。銭湯にいったり飲みに行ったりもした。そのポールことダニエル・デニスは1969年、近衛広場で逮捕されて、3日間に渡って川端署前で抗議行動。彼は米軍に引き渡されて、軍法会議にかけられたんやろね。その後の彼の消息は知らないが、その後も数人の反戦米兵を行動を共にしたこともあったよ。
20歳の時。わが人生の原点。
またその夏、もちろん復帰前の沖縄にワークキャンプで行った。B52の爆撃機が飛び立つ嘉手納基地やコザの街は衝撃的だった。「思想の科学」という雑誌に「20歳・夏・沖縄紀行」と題して、原稿用紙に百枚ほど書いた。あの頃は、物書きになりたい夢を見てた。
そして70年、大阪万博の年。キューバにサトウキビ刈りに行った。休学して3か月、50人ほどのメンバーで共同生活。世界からキューバ革命の応援に青年たちが集った。カストロ首相の演説は凄かった。
帰国して、旅費を返すために大丸の配達のアルバイトもしたよ。
71年かな、海兵隊基地がある岩国にも反戦活動で行くようになり、凧を揚げて戦闘機を止めようなどともした。
そして72年には反戦喫茶「ほびっと」開店。亡くなったけれど当時のマスター、中川六平君が書いた「戦争を止めた喫茶店ほびっと」(講談社刊)には、ぼくの名前が実名で出てくるよ。
その「ほびっと」で出会ったのがカミサン。74年で結婚。
学生結婚。一年間、上賀茂で住み込みで「楽」という喫茶店でやとわれマスター。そして75年から烏丸今出川の「駱駝館という喫茶店でもマスターをした。喫茶店の仕事をしながら大学に通うという生活。
そしてようやく77年、9年目にして卒業。卒業論文は「プエルトリコ史」。カリブ海に浮かぶ島の話。アメリカの植民地だった。卒論を書き上げたころに長男が生まれた。で、新聞学科の大学院を受験したが、不合格。思えば、もし受かってたら人生変わってたかな?
Q、へえ?27歳で卒業ですか?波瀾万丈でしたね。それから選挙に出馬ですか?
A 卒業して、喫茶店の仕事も面白くなくなって、京都イングリッシュセンターという英会話学校でちょっと仕事をした。その時は。、京都の留学生にインタビューしたりアンケートをしたり、シンポジウムを開催したり、京都の国際化を考えるようになったよ。
そして、他府県で、ベ平連の仲間が議員になり始めていたので、京都でぼくも出ようやないかと決意。
生まれ育ったまちで平和を訴えよう、市政を市民の手にと、30歳の時、1979年春に市議選初挑戦!髭を生やしたままで、いやあ楽しい選挙でした。肩書は「市民運動家」。かっこええでしょ。
「ネコもネズミも怒ってる」という選挙ドキュメントの冊子もできた。ラジオの特別番組が流れたり、新聞にもたくさん書いてもらった。
落選後「月刊地域闘争」という雑誌の編集をしたりもして、4年後に、また挑戦。ちょっと内輪もめもありまた落選。それから4年近く中央市場で働き、また大丸の配達もしながら、社会党の推薦も得て、3度目の挑戦で初当選!
1987年昭和62年のこと。38歳でした。
――――――――――――――――――――――――――――――
●8月26日(火)
昼前から地元吉田界隈をポスター貼りなどでウロウロ。4時前、議員団室にてとある建築物の建て替えについて担当者と協議。
夕方は、東九条の故郷の家に。韓国は崇實大学から名誉政治学博士号を授与された野中広務先生の祝賀会に京都市会日韓親善議員連盟の役員として出席。89歳になられた野中さんは、お元気です。戦前の反省を踏まえて日韓の親善と平和を今後も希求すると、熱い想いを語られました。党派を超えて政治家の大先輩とツーショットも。
それから吉田神社参集殿で開催されていた吉田山の里山を再生する会の実行委員会。ロータリーの人や地元の各種団体の人、また京大の深町先生らも来られて熱い想いを語り、今後の日程など協議。
●8月25日(月)
昨日の地蔵盆で雨に濡れて、なんとなく体がだるい。疲れがたまった月曜日。9時半には議員団室に行って、わが議員団の市会改革推進委員会のメンバーと簡単な打ち合わせ。
<市会改革推進委員会 議会報告会開催を決定>
そして10時より市会改革推進委員会。
まずは、先日の宝塚、北九州市への視察を踏まえて、懸案の議会報告会について。この報告会の開催については、公明党とともに民主・都みらい議員団として、開催の方向でぼくはなんども粘り強く意見を述べてきて、開催に前向きな寺田委員長の仕切りのもとで、消極的だった自民も合意が得られ、会派の意見を述べる時間も必要だと主張する共産も賛成して、テーマは議会改革についてと、また各会派の意見を表明する機会を設けることという内容で、なんとか試行的に実施することで、まとまった!よかった!
議会報告会は10月28日(火)午後6時30分から京都駅前のメルパルク京都で開催することも確認。みなさん来てくださいね!
そのほか、市会事務局が作成した資料を基に、議会広報のありかたや、議会の機能強化、投票率の向上対策などについても協議。また浜松市と相模原市の議会基本条例が制定されたので、その説明も。
午後は、なんとなく気怠くて、家に帰ってうたた寝。たまには休息を取らないとね。夕方から事務所に戻って雑務。
<左京最北の地、久多に>
今日は、左京の山間部、久多に!
途中、大原は梅の宮神社前のバス停のところの川に先の大雨で倒れた樹木のことで現場を見る。このまま放置しておくとたいへんです。早速、区役所と連絡を取って対処を要請しよう。
そして、大原からおよそ40分ほどかな。途中トンネルから滋賀県に入り、花折トンネルを越えて、大津市梅ノ木から針畑川の渓谷沿いに狭隘な断崖絶壁の道を進むと、右は朽木は生杉に行く道との分かれ。そこからが久多。久多のオートキャンプ場。ウルグアイ・ランド合意による関連対策として設立されました。竣工式にも行ったよ!
山の向こうは福井県です。畑は鹿と猿が食べに来るので、金網を囲んで畑をされている風景は、つらいね。ポスターを貼ったり、知人宅に挨拶に行くと築160年の立派な家で お茶を御馳走になる。
昼ごはんは、3年前に開店した「いろは」で地鶏のうどんとおにぎりと。卵焼きもついて850円!美味かった!
<モニタリングポストのこと>
そして今は廃校になった久多小学校のグランドの片隅に原発事故等に備えるため、京都府が設置したモニタリングポスト(放射能測定装置)。久多の山の向こうに高浜原発があります。
京都市のUPZ(緊急時防護措置を準備すべき地域)は、左京区広河原と久多なのです。この9月20日には、京都市原子力防災訓練が実施されます。 広報によると、訓練に参加する住民が避難マニュアルに定めた電話連絡網を用いて避難する旨の情報を伝達し,互いに助け合いながら,訓練会場(避難時集合場所)へ移動し,汚染検査(スクリーニング)や健康調査を受けるまでの流れを実地に体験する。また,訓練後,同会場において,原子力防災等に関する知識を習得するための講習会を開催されます。
<大見新村プロジェクト>
そして367号線を引き返して、大原小出石から国道477号とは名前だけの坂道を上ると百井の集落。そしてさらに奥の大見に。
残土投棄の大見公園計画に反対して論陣を張ったのは、もう27年前。大見の藤井一家とはもう30年以上の付き合いかな。今では藤井康裕君が、大見新村プロジェクトを立ち上げて、左京区役所のまちづくり支援交付金受けて、若者たちが集い始めている。NHKの取材チームも来ていました。
来週水曜日午後6時過ぎの「京いちにち」で放映されますよ!みなさん、がんばってね!ここまでポスターを貼りに来る議員はいないだろうよ!道中、先の大雨で道がかなり荒れているなあ。
山岳ドライブから帰ったのは午後4時過ぎ。錦林小学校に明日の夜市のために机を借りに行く。なんとか準備も進んだ、後は、明日の天気と安全に進行できることを願うのみ。
●8月28日(木)
朝、聖護院の眼鏡店、吉川文一君のご母堂の葬儀。彼は、中学時代からの同級生で、近年は消防団で地域に貢献してきた。家族葬でしめやかに営まれる。読経されたご住職は、知人でした。
午後は、ポスター貼りなどで地域をウロウロ。
夕方は、白河総合支援学校の前校長先生、森脇勤先生の御尊父様で総合支援教育に長年尽くされてきた森脇功先生の通夜。経糸の会、ヒューマンふれあいコンサートの実行委員会などで何回かお会いしたことがあり、ご焼香に。心よりご冥福をお祈りいたします。
その後、屯風にて吉田東通の夜市の実行委員会。明後日の開催に向けて最後の打ち合わせ。晴れたらええなあ!
●8月27日(水)
久しぶりに晴れ間が見えた朝、熊野神社前で2週間ぶりかな、街頭行動。テーマは防災。ぼちぼちがんばります。音が大きすぎますと注意を受けて、ともあれ自粛。
それから、「吉田東通の夜市」のビラまき。
夕方は、わが後援会の事務局会議。島内研府会議員も同席してもらって、今後の市政懇談会の日程などを考える。
<鈴木マサホ、生い立ち、そして青春時代>
ところで以下の文章は、ぼくが主宰している地域ウエッブサイト「左京ライフ」にコムペイジの牧野君が作ってくれたインタビュー形式の項目に喋り口調で書いた原稿。参考までにわが青春時代、ご笑覧ください。ちょっと長い文章だけれど貼りつけておきましょう。
――――――――――――――――――――――――――――――
Q 幼少時代の話をきかせてください。どんな子供だったのですか?
子供の時に熱中して事はありますか?小・中・高校と、どんな生徒でした?
A ぼくの小さな頃からまず中学生時代から話しましょう。
ぼくの生まれたのは、1949年昭和24年、戦争が終わってちょっと落ち着いてきた時代かな。ベビーブーム、団塊の世代。今の事務所があるところが、ぼくの生まれ育ったところ。社家がたくさんあった。ぼくは鈴木家14代目。我が家も大きな敷地で、土蔵もあったし「おくどさん(かまど)もあった。親父は、京大の職員。兄弟は男の3人。ぼくは長男。おばあちゃん子やった。
幼稚園は、今は「国際学生の家」になっているところにあったキリスト教の「錦林幼稚園」。小学校は第四錦林小学校。今では 2クラスしかないけれど、なんと一クラス50人はいたと思うけど7クラスだよ。「芋の子を洗う」というけど、グランドなんかもうごちゃごちゃ。
吉田山が遊び場で、当時はいまほど樹が生えていなくてソリ遊びや基地を作って遊んだし、三角ベースというソフトボールで遊んだり。
相撲は若乃花と栃錦の時代。プロ野球は、長嶋選手がデビューしたのはぼくが3年生の頃か?少年マガジンが発売されたのもその頃か。マンガも読み始めたし、ちょうどその頃、皇太子のご成婚ということでテレビが普及し始めた。それまでは近所の家にテレビを見に行ったよ。電話は呼び出し!まあまあ勉強はできた方かな。
6年生の時の担任のゴジラというあだ名の山内光夫先生はみんなが大好きやった。大文字山などよく連れて行ってもらったなあ。野球盤でも遊んだのを覚えてるよ。暖房は石炭ストーブだったよ。
給食はなんでも食べたけど脱脂粉乳は鼻をつまんで飲んでた。また鯨がよく出てたね。
中学は家から走って1分。近衛中学校。なんと一学年17クラス。プレハブ教室。夏は暑い暑い。地歴部とかに入ってたかな?1963年、アメリカから初めてテレビ中継があるということでテレビを見ていたらケネディー大統領の暗殺事件。もう驚いた。まあまあ勉強したと思うけど、英語は嫌いやった。生徒会の役もしてたかな。じいさんが亡くなってから、おばあちゃんと一緒に暮らしたこともあった。あんまり中学の時の鮮明な記憶はないなあ。
Q で高校時代はどうでしたか
A 1964年、東京オリンピックの年、新幹線が開通した時か、鴨沂高校に入学する。この頃は地域制というので、公立高校は鴨沂に決まっていた。まあまあの成績だったら入れたし。
鴨沂は自由の学風が伝統的にあって、制服はないし楽しかった。クラブは山岳部。北山に北山荘という三高時代からの山小屋があって、新入生歓迎コンパで酒を飲まされたよ!あれから飲みづづけてるね。生徒自治会活動も熱心にしたよ。3年の時の「仰げば尊し」という、山車をみんなで作って紫野グランドまで行進する3年のときの大イベント!もう最高やね!ガールフレンドもいたし、御所でよくデートもした。ほろ苦い思い出はたくさんあるよ。
そうそう、ジュリー、沢田研二は同級生や。クラスは違ったけれど空手部やったか、また漢文のクラスかなにかで一緒になった。確か彼は修学旅行のあと退学して音楽の道に行った。
それで、社会のこと。ちょうどベトナム戦争が激しくなってくるとき、アメリカの北爆もあり、南ベトナムの弾圧もひどかった。そのころかな、ベトナムに平和を!集会にも初めて行った。
鴨沂高校の3年間は充実してたなあ。
でも、受験勉強もほとんどしてないし、大学は受かるわけがなし。もちろん一浪(ひとなみ)。近畿予備校に通い、途中からは部屋にこもって猛勉強した。イントレピッド号から4人の脱走米兵が現れて、スエーデンに亡命したというニュースは印象に残ってるよ。
Q 一浪して大学に入ったのですね。「ベ平連」運動に参加されていたとか?
A、そして大学時代のこと。話せば長くなるよ。何せ大学を卒業するのに9年かかっているしね。
4つほど受けた大学で同志社の文学部文化学科文化史西洋史専攻にかろうじて合格した。入学式ではヘルメットを被った学生が演説してたよ。まさにベトナム反戦、学園闘争の始まりの頃。
山岳部に入ったが、トレーニングがきつくて、またロッククライミングの練習でよく落ちかけて、こらアカン。夏前に辞めた。入学して、2か月か、6・15、ヒッチハイクで同級生と東京に行って、作家の小田実さんがリーダーのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加。銀座をデモしたよ。昂奮したね。それからはベ平連運動に邁進!
8月には「反戦と変革のための国際会議」が国際会館であった。事務局として聖護院おおぎや旅館に住み込みや。
京大、同志社、立命などバリケードストなどあり、百万遍で火炎瓶が投げられたり騒然とし始めた。
デモばかりしていたなあ。そして反戦脱走米兵に出会う。我が家の近くに下宿をさせてぼくが世話役みたいなもの。銭湯にいったり飲みに行ったりもした。そのポールことダニエル・デニスは1969年、近衛広場で逮捕されて、3日間に渡って川端署前で抗議行動。彼は米軍に引き渡されて、軍法会議にかけられたんやろね。その後の彼の消息は知らないが、その後も数人の反戦米兵を行動を共にしたこともあったよ。
20歳の時。わが人生の原点。
またその夏、もちろん復帰前の沖縄にワークキャンプで行った。B52の爆撃機が飛び立つ嘉手納基地やコザの街は衝撃的だった。「思想の科学」という雑誌に「20歳・夏・沖縄紀行」と題して、原稿用紙に百枚ほど書いた。あの頃は、物書きになりたい夢を見てた。
そして70年、大阪万博の年。キューバにサトウキビ刈りに行った。休学して3か月、50人ほどのメンバーで共同生活。世界からキューバ革命の応援に青年たちが集った。カストロ首相の演説は凄かった。
帰国して、旅費を返すために大丸の配達のアルバイトもしたよ。
71年かな、海兵隊基地がある岩国にも反戦活動で行くようになり、凧を揚げて戦闘機を止めようなどともした。
そして72年には反戦喫茶「ほびっと」開店。亡くなったけれど当時のマスター、中川六平君が書いた「戦争を止めた喫茶店ほびっと」(講談社刊)には、ぼくの名前が実名で出てくるよ。
その「ほびっと」で出会ったのがカミサン。74年で結婚。
学生結婚。一年間、上賀茂で住み込みで「楽」という喫茶店でやとわれマスター。そして75年から烏丸今出川の「駱駝館という喫茶店でもマスターをした。喫茶店の仕事をしながら大学に通うという生活。
そしてようやく77年、9年目にして卒業。卒業論文は「プエルトリコ史」。カリブ海に浮かぶ島の話。アメリカの植民地だった。卒論を書き上げたころに長男が生まれた。で、新聞学科の大学院を受験したが、不合格。思えば、もし受かってたら人生変わってたかな?
Q、へえ?27歳で卒業ですか?波瀾万丈でしたね。それから選挙に出馬ですか?
A 卒業して、喫茶店の仕事も面白くなくなって、京都イングリッシュセンターという英会話学校でちょっと仕事をした。その時は。、京都の留学生にインタビューしたりアンケートをしたり、シンポジウムを開催したり、京都の国際化を考えるようになったよ。
そして、他府県で、ベ平連の仲間が議員になり始めていたので、京都でぼくも出ようやないかと決意。
生まれ育ったまちで平和を訴えよう、市政を市民の手にと、30歳の時、1979年春に市議選初挑戦!髭を生やしたままで、いやあ楽しい選挙でした。肩書は「市民運動家」。かっこええでしょ。
「ネコもネズミも怒ってる」という選挙ドキュメントの冊子もできた。ラジオの特別番組が流れたり、新聞にもたくさん書いてもらった。
落選後「月刊地域闘争」という雑誌の編集をしたりもして、4年後に、また挑戦。ちょっと内輪もめもありまた落選。それから4年近く中央市場で働き、また大丸の配達もしながら、社会党の推薦も得て、3度目の挑戦で初当選!
1987年昭和62年のこと。38歳でした。
――――――――――――――――――――――――――――――
●8月26日(火)
昼前から地元吉田界隈をポスター貼りなどでウロウロ。4時前、議員団室にてとある建築物の建て替えについて担当者と協議。
夕方は、東九条の故郷の家に。韓国は崇實大学から名誉政治学博士号を授与された野中広務先生の祝賀会に京都市会日韓親善議員連盟の役員として出席。89歳になられた野中さんは、お元気です。戦前の反省を踏まえて日韓の親善と平和を今後も希求すると、熱い想いを語られました。党派を超えて政治家の大先輩とツーショットも。
それから吉田神社参集殿で開催されていた吉田山の里山を再生する会の実行委員会。ロータリーの人や地元の各種団体の人、また京大の深町先生らも来られて熱い想いを語り、今後の日程など協議。
●8月25日(月)
昨日の地蔵盆で雨に濡れて、なんとなく体がだるい。疲れがたまった月曜日。9時半には議員団室に行って、わが議員団の市会改革推進委員会のメンバーと簡単な打ち合わせ。
<市会改革推進委員会 議会報告会開催を決定>
そして10時より市会改革推進委員会。
まずは、先日の宝塚、北九州市への視察を踏まえて、懸案の議会報告会について。この報告会の開催については、公明党とともに民主・都みらい議員団として、開催の方向でぼくはなんども粘り強く意見を述べてきて、開催に前向きな寺田委員長の仕切りのもとで、消極的だった自民も合意が得られ、会派の意見を述べる時間も必要だと主張する共産も賛成して、テーマは議会改革についてと、また各会派の意見を表明する機会を設けることという内容で、なんとか試行的に実施することで、まとまった!よかった!
議会報告会は10月28日(火)午後6時30分から京都駅前のメルパルク京都で開催することも確認。みなさん来てくださいね!
そのほか、市会事務局が作成した資料を基に、議会広報のありかたや、議会の機能強化、投票率の向上対策などについても協議。また浜松市と相模原市の議会基本条例が制定されたので、その説明も。
午後は、なんとなく気怠くて、家に帰ってうたた寝。たまには休息を取らないとね。夕方から事務所に戻って雑務。