奇跡への絆

図師ひろき

愛みやざき県外研修

2008年09月03日 23時59分29秒 | Weblog
 2泊3日の行程で福岡県・佐賀県に研修に行ってきました。

 私はみんなと合流する前に、縄文・弥生時代の遺跡を活かした地域活性化に取り組んでいる福岡市にも足を延ばしてきました。
 まず金隈(かねのくま)遺跡です。ここは福岡平野の東部、御笠川に沿って南北に伸びている月隈(つきぐま)丘陵のほぼ真ん中あたりに位置しています。
 昭和43年、桃畑の開墾作業中にこの遺跡は発見されました。福岡市教育委員会の発掘調査の結果、弥生時代の大規模な共同墓地の跡として、学問的にも非常に価値の高い遺跡であることが判明し、昭和47年には国指定の史跡となりました。
 この遺跡からは、348基の甕棺墓(素焼きの甕や壺をお棺に使用するもの)と、119基の土こう墓(土を長方形に掘って遺体を葬り板をかぶせるもの)と、木を組み合わせたもの(組み合わせ式木棺墓)の2通りの様式があります。
 出土人骨から割り出された平均身長は、男性162.7cm、女性151.3cmで、縄文人と比較すると顔も面長になり、身長も急に高くなっています。戦後は勿論急速に伸びていく平均身長ですが、それまでの我が国では、弥生人が一番高い身長を持っていました。

 次に板付(いたづけ)遺跡です。ここは縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡で、。国の史跡です。
 竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡と共に日本最古の水稲耕作跡です。
 また1916(大正5)年に、甕館内から青銅製の矛や剣が出土しました。低台地上の集落と周辺の沖積地に広がる水田跡、墓地などが見られます。
 弥生時代前期より下の縄文時代晩期末の地層から大区画の水田跡と農機具、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認されました。
 畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定されています。日本での初期集落、稲作を知る上で重要な遺跡です。

 ちなみに板付遺跡では、火熾しの体験コーナーがありました。
 何度もチャレンジしてみましたが、火は点かず悔しい思いをしましたが、やはり当時の疑似体験ができる施設整備に必要性を実感しました。
 この2つの遺跡は車で15分ほどの距離にあり、遺跡を結ぶ道路は、古代遺跡ロード(!?)なるネーミングがされており、訪れる者の心をくすぐるとともに、最短距離での動線確保がされていた。
 どちらの施設担当者も施設運営について詳しい説明をしていただきました。特に金隈遺跡に担当者におかれましたは、丁寧な対応で、タクシーの手配や次の板付遺跡担当者への引継ぎまでしていただきました。
 今後、県立博物館や県立西都原考古博物館を運営管理を向上させる上でのヒントをいただきました。

 メンバーと合流してからの佐賀県研修及び九州電力研修については、明日報告します。