今回の一連の事態に対し、私に寄せられるご意見、ご指摘などには何の反論もなく、真摯に受け止め、今後の活動や判断の指標にさせていただきます。
しかし私が不在の時に、電話やFAX、そして来客の応対をしてくれる家族の心労が心配でなりません。
両親は退職後、祖父祖母の介護の傍ら、細々と弁当や惣菜を作って、直売所などで売って、年金の足しにしていました。
そんな時、私がこんな状態になってしまったので
「あんたの送り迎えをせんといかんから、弁当つくりもやめんといかんねぇ・・・」
と母がポツリ・・・
私は両親の生きがいまで奪ってしまったのか・・・と悔しくてたまらなくなります・・・
そんな母が、高鍋駅まで送ってくれる車の中で
「・・・しっかり反省して、たくさん謝って、何回も何回の頭を下げんといかんね・・・のさんじゃろけど頑張らんといかんよ・・・私どんもあんたん代わりに頭を下げるこつはできるかい・・・みんなに助けられてここまで来たっちゃかい頑張らんといかんよ・・・」
私は今回の件では、絶対に涙を流さないと決めています。
母は続けて
「でもあんたとこんげして、ゆっくり話をするのはいつ以来かね・・・これからは家族の会話が増えればいいねぇ・・・」
40歳になって親に送り迎えをしてもらうことは、本当に情けないことですが、確かに両親とは同居していながらも、ろくに会話のない生活が続いていました。
23時くらいに帰宅・・・6時には起床・・・街頭あいさつをして、そのまま地域へ、県庁へ・・・
「あんたは幸せねぇ・・・
ちっとは自分の幸せのことも考えないよ・・・
あんたはいっつも走り回って、人の前に出て、一番のさん思いをしてきたのはわかっちょるけど・・・私たちも10年間小さくなって生きてきたとよ・・・
もうぼちぼち楽な生活をさせてもらいてぇ気もするけんねぇ・・・」
励ましとも愚痴とも分からぬ母の言葉に、町議会議員時代から数えて10年の我が家の様子が凝縮されていました。
私は“福祉の壁は政治にあり”との志に愚直に挑み続けてきました。
その間3回の選挙を乗り越え、家族は献身的に支えてくれました。
私の代わりに罵声や非難を浴びながらも、笑顔で耐えてきてくれました。
その生活が、楽であるわけはありません。
“俺は家族の支えになれているのか・・・”
私は今回の件を機会に、生き方を見直します。