1500年代後期に九州の関が原と言っても過言ではない、“高城合戦”が宮崎県児湯郡木城町で行われたことはあまり知られていません。
戦国時代真っ只中の1570年代、伊東氏と島津氏が現在の宮崎県内で勢力争いをしていました。
そして各地の戦いで勝利をおさめた島津氏は、新納院高城(木城町)の地頭に山田新助有信を任命しました。その後も都於郡城(西都市)に鎌田政近。財部城(高鍋町)に河上三河守。内山城(高岡町)に比志島国貞を配し、伊東氏の残党の反攻に備えました。
その頃、豊後(大分県)で九州統一の野望を抱いていたのが“大友宗麟”です。
大友氏は北九州の攻略にも成功し、強大な勢力を確保していましたが、島津氏の日向領有は脅威となっていました。
大友氏は徐々に南下を始め、そして1578年11月高城川(小丸川)合戦をむかえます。
初戦は大友軍優勢。
大友勢は優位に乗じて殺到。しかも若武者は我も我もと先陣をの功を競い、統制もとれぬまま突撃を繰り返しました。猪突しかない大友勢を島津軍冷静に迎え撃ち、大軍の横から反撃奇襲。分断されてしまった大友軍は戦力半減。一気に形勢は逆転します。
その時、高城川の川面は両軍の兵士の亡骸で覆いつくされ、淵は血で紅に染まったと伝えられています。
これが、第一次高城合戦と呼ばれるものです。
大友軍は敗走、豊後に退きました。
島津氏は日向国の経営を安泰にし、九州制覇を目指して北進していきます。
大友宗麟は島津軍の攻撃を自力でかわすことが困難と判断し、1586年自ら大阪に出向き、全国制覇を目前にしていた“豊臣秀吉”に助けを求めます。
秀吉は、島津氏と大友氏の和睦を勧めましたが、島津氏が応じず、秀吉の九州征伐が始まったのです。
そして豊臣軍と島津軍の第二次高城合戦へと発展していくのです。
この時代の転換期となった戦いの展開を、膨大な資料を丁寧に整理して、分かりやすく解説した“高城戦記~九州の関が原はどのように戦われてたのか~”が鉱脈社から出版されました。
著者は、木城町にお住まいの山内正徳先生です。
この度開催された出版記念祝賀会に参加して来ました。
山内先生は90歳を超えられていますいますが、ますます創作意欲旺盛で
「次回は、小・中学生にも理解できる、学校の副読本として使ってもらえるような作品を作ってみたい。」
と語られていました。
頭が下がります。
私たちは、過去から、歴史からしか生き方を学ぶことができません。
時には自分の地域に息づく史実に耳を傾け、自分の立つ位置を見つめなおすことは大切です。
街の風景が変わって見えてきますよ。
“高城戦記”是非、ご一読を。