俳人、瀧瓢水
今日昼から本屋に出かけ、『知的な老い方(外山滋比古著)』(大和書房)を買いました。こんな題名の本を手にするようでは、少しやばい歳の証です。
退職前の人はけっして買わない本だと思います。
買った理由は歳のほかに、この本が瀧瓢水の俳句から書き始められていたからです。
瓢水は、江戸時代の俳人で、現在の加古川市の別府町に生まれています。
瓢水について、昨年少し凝って調べました。大阪で亡くなっています。
瓢水の墓参りもしてきました。別府公民館でお話もしました。
そんな関係で、外山氏の書かれた瓢水の文章を紹介したくなりました。
*以下『知的な老い方(外山滋比古著)』(大和書房)からの引用です。紙面の都合で少し省いています。
老人の生き方
(その1)
友人の哲学者が、関西のある小さな女子大学の学長をしていて、ある年、その大学の卒業式に私(外山)を招いた。
カトリックの学校の卒業式はおごそかで、美しかった。
学長が訓辞をした。なかなか難しいことをいうのは、哲学者だから、しかたがないか、と思ってきいていると、ひょっこり、(瓢水の句)「浜までは海女も蓑着る時雨かな」が出てきた。
そのあとの訓辞は見ちがえるように鮮やかであった。
・・・
海女はいずれ海に入るのである。時雨が降っていても、どうせ、濡れるのだから構うことはないとしてもよいところだが、さすがにたしなみは忘れないで、蓑を着ていく。その心を美しいと見た句であろう。
人間は、なにかというと、“どうせ”ということをいって、甘える。
たしなみを失い、努力を怠る。みっともないことを平気でする。いやしいものである。
しっかりした生き方をするものは、ぎりぎり最後の最後まで、わが身をいとい、美しく、明るく生きることにつとめる。
どうせ、年老いたのだから、年寄りだから、いまさら面倒なことはごめんこうむりたい。どうせ退職したのだから、これからは、悠々自適で余生をすごす、などという。その実は、なまけて、なり行きまかせに生きていこうというよくない心にふりまわされているのである。(no13)
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