老人の生き方(3)
浜までは 海女も蓑着る しぐれかな
年をとると、人問が劣化することがすくなくない。いつごろからか、そう思うようになった。
若いときから中年までは、りっぱな人であったのに、年をとってくると、欲が深くなる、猜疑(さいぎ)心はつよくなる。いうことなすこと、いちいちまわりを傷つけることが多くなる。人格も、体力によって支えられているのか、老いて体が弱ってくるにつれて、人格を支えていた力が崩れて、もっていたのであろう醜(みにく)いものが外にあらわれてくる。
そのことを自身では気がつかないだけに老醜(ろうしゆう)はあわれである。
昔から、そうであったに違いない。人々はその堕落(だらく)を怖れて、信仰に入った。出家はしないまでも、隠居して、まわりの人の迷惑にならないことを心がけた。
いまは、宗教に救いを求めるのは難しい。自分の力で、崩れていくものをとりおさえて、できれば新しい徳をつむようにはできないものだろうか。老いの
入口にさしかかったとき、私はそんなことを考えた。
そういうときに、たまたま、「浜までは海女も蓑着る時而かな」に出会った。
啓示のように思われた。死ぬまでは、たとえわずかでも、前へ進めるだけは進もう。恥ずかしくないように、できれば、これまでより、いくらかでもましな人間になりたい。そうして、幸福な人生の中で生を終えたい。死はさけられないが、そこへ至るまではせいぜいいきいきと、美しく、明るく生きていきたい。
『知的な老い方(外山滋比古著)』に瀧瓢水の句が紹介されていたので、お借りしてしまいました。自分の文章で書くべきなんですね。反省。
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