老人の生き方(2) 『知的な老い方(外山滋比古著』より
(その2)前号の続きです。
瓢水は、通称を叶屋(かのうや)新之丞、のち新右衛門と称した。播磨(はりま)の富商であった。
千石船を七艘(そう)も有するほど栄えていたのを、瓢水の風流によって、産を失い、晩年はむしろ貧しかった。
1684年生まれ、1762年没。享年79歳一九。
生涯、無欲、無私の人で、逸話に富んでいる。
(これらの逸話については、省かせていただきます)
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「浜までは海女も蓑着る時雨かな」にまつわるエピソードはこうである。
瓢水の評判をきいた旅の僧が、瓢水を訪ねてきた。ところが、そのときも、あいにく留守だった。
どこへ行かれたのかという旅僧の問いに、家人が、風邪をこじらせたので、薬を買いに行ったと答えた。
それをきいて、旅の僧は、「さすがの瓢水も、命が惜しくなられたか」ということばを残して立ち去った。
帰ってその話をきいて瓢水の作ったのが、この浜までは海女も蓑着る時雨かなであるといわれる。
薬を買いに行ってなにがわるいか、年をとってはいるが、いよいよ、となるまでは、わが身をいたわりたい、病気はなおしたい、という含意である。
そうすると、この「浜」は、死ということにもなる。人間、死ぬまで、生きている限りはせいぜい身をいとい、よく生きることを心がけなくてはいけない。
どうせもうこの年だから、どうでもよいといった、投げやりな考え方、生き方はおもしろくない。せいぜいつとめて、わが身を正すようにしたいものだ。
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