ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町を歩く(52) 石守構居

2022-04-01 10:22:00 | 加古川市歴史探訪・神野町編

         神野町を歩く(52) 石守構居

 鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があり、その外にも、比較的小規模な多くの城がありました。

 城について、『加古川市史(第二巻)』の説明をお借りします。

 「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、(はっきりした定義はなく)その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび、構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない・・・」

 これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられました。

 石守構居へ以前(2007年)訪ねときには「政神大神社」という社がありましたが、今は「石守城址」の石柱があるだけです。

 場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南で、大きな木を目印にすればすぐ見つかります。

 構居にある説明(加古川市教育委員会)の一部を読んでおきます。

 ・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。

 長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功を樹てたが、討ち死にした。

 また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われている。

  

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