平岡町をゆく(13) 新井用水物語(4) 新井用水と池
黒く塗りつぶした池に注目してください。
明暦二年(1656)、新井は完成しました。それに伴って、「池は不必要になった」かというと、そうではありません。
この地域は、もともと水の得にくい土地がらでした。
そのため、これらの池に水を確保するために「新井」が掘られたといってもよいほどです。
用水完成後も、しばしば十分な水が得られない年がありました。
新井は、加古川・尾上の田畑を潤す「五か井用水」とは違い、勾配がほとんどありません。そのため、新井は満水にして水位を上げなければ、水は流れてくれません。
新井(13km)の分水地(神野町西条)の標高は約12mであり、終着「大池」(播磨町)の標高は約5mです。
しかも、「新井」は、「五か井用水」の取入れ口と同じす。
従って、旱魃のときは、「五か井」を優先させ、「新井」の分水口をせき止めるという条件までありました。
池を潰して、新田を作るという余裕なんてありません。黒く塗った池は、新井から取水している池です。
新井と池がともに稼動して、この地域の水は何とか確保されるという状況でした。
新井の北側の池は、「新井」より土地が高いため、取水することができません。これらの池は、依然として、雨水が最大の水源でした。
新井用水にそった池の多くは、古い時代に造られたようですが、記録がありません。
新井の完成後も、依然として池が命綱でした。
記録がないので、以下は推測です。
日照の年は、池の水もかれてしまいました。新井の水も使えません。二俣村の作物は枯れ、その後には、きまったように飢えがまっていました。