ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(44) 余話・新井用水(1) 伝兵衛の願い

2022-03-24 06:47:42 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(43) 余話・新井用水(1) 伝兵衛の願い

  ここで、神野町地域を少し離れますが、余話として、神野町から播磨町への田畑を潤した新井戸用水と五ヶ井用水の話をしておきましょう。



 承応三年(1654)の旱魃はひどいものでした。

 太陽が、大地を容赦なく照りつけ、大旱魃となりました。

 溜池にたよる現在の平岡・野口町、そして播磨町24ヶ村の百姓たちは、木の実・草の根、竹の実を、そして種籾までも食べつくし、餓死する者も少なくありませんでした。

 それに比べ、加古川の水を利用している五ヶ井郷(現在の加古川町・尾上町)の村々は、ほとんど被害もなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受けむしろよく実っていていました。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓たちは、食べるものがなくなりました。五ヶ井郷から食料と種籾を分けて、何とか生活をおくっていました。

 古宮村(こみやむら・播磨町)の大庄屋・今里伝兵衛(いまざとでんべい)は、枯れることのない加古川から何とか水をひきたいと考えました。

 しかし、水は川より高い土地には流れてくれません。そのため、「上流の城山(じょやま・神野町西条)のすぐ北の五ヶ井用水の取り入れ口から水を分けてもらえないか」と考えたのです。

 水は百姓の命であり、五ヶ井郷の了解が得られるとは思えません。

 伝兵衛らは、姫路藩主に熱心に嘆願しました。

 ついに、藩主・榊原忠次の許しを得ることができました。難問は、いっきに解決しました。

 新井用水の工事は、明暦元年(1665)正月に始まりました。

 新井用水の起工式に伝兵衛は白装束で臨んだといいます。翌年3月に完成しました。

 新井用水は、五ヶ井用水に対して新しい用水という意味です。

*挿し絵:五ヵ井郷(五ヶ井用水から水を得ている村々)の豊かな稔具合を見ている伝兵衛と村人

 

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神野町をゆく(43) 五ヶ井用水 用水は、城山辺りの加古川から

2022-03-23 10:41:10 | 加古川市歴史探訪・神野町編

          神野町をゆく(43) 五ヶ井用水 用水は、城山辺りの加古川から

 承応3年(1654)の旱魃はひどいものでした。

 そのため、古宮(こみや:播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛(いまざとでんべえ)は、上流の城山(じょやま・神野町西条)のところから、現在の播磨町までの用水を計画しました。

 工事は、明暦元年(1665)正月に始まり、翌年3月に完成させました。

 これが、新井用水です。

*新井用水については「新井用水・2(次号)」の後、余話として挿入します。

 図は、旧二塚村(現在の神野町の西部)の絵図(寛延三年・1750)の解読図(部分)に彩色をしました。

 城山のちかくで堰をつくり、そこから流れ下った新井用水(赤色)は、やがて旧二塚村の東を流れ、曇川に突き当たります。(★印のヶ所)

 現在、新井用水はここから曇川(青色)の下をサイフォンでくぐり、曇川に沿って西ノ山の山麓を流れています。

 絵図には、曇川に沿った新井用水は描かれていません。

 絵図では、新井用水は★印のところで、いったん曇川に流れ込み、下流部の五カ井用水(緑色)の手前で曇川と別れ、ほぼ現在の流路をながれています。

 流路は、少しややこしいです。春の一日、散歩を楽しみながら流路辺りを散策ください。

  

 

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神野町をゆく(42) 稲根神社(4) 稲根神社と鳥居

2022-03-22 10:53:21 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(42) 稲根神社(3) 稲根神社と鳥居

 稲根神社に、こんな話が伝えられています。

 昔、太ノ家は、代々稲根神社の御魂(みたま)を大切にお守りをしていました。

 江戸時代のことです。太ノ庄左衛門の時でした。

 庄左衛門の娘は、それはそれは美しい人で、この噂が姫路の殿様に伝わり、殿様から「是非、殿様のお側で仕えるように・・・」と再々、使者が使わされてきました。

 しかし、娘は「太ノ家を継ぐ者であるし、お宮番を大切にしたいと・・・」と殿様からの申しいれを断り続けました。

 お咎めがあるかもしれないので、神主に相談しました。

 しばらく身を隠すことにし、「娘は所在知れず」ということにしたのです。

 娘は、草谷(稲美町)のある神社に身を隠しました。

 草谷の神主は、身の危険を感じながら、娘を隠し続けました。

 稲根神社は、このことに感謝して、「造りかけの鳥居を草谷の神社に贈り、後の世まで恩義を忘れないために、鳥居を建てないことにした」ということです。

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照、挿絵も同書より

 

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神野町をゆく(41) 稲根神社(3) 経塚

2022-03-21 06:44:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(41) 稲根神社(3) 経塚

 経塚(きょうづか)の話です。

 経塚とは、平安時代の後期の末法思想の広がりを背景に、仏教のおとろえを恐れた貴族や僧侶が、法華経(ほけきょう)などの巻物を経筒(写真)に入れ、地中に埋めものです。

 *写真は『信仰の美術』(加古川総合文化センター)より

 その目的は、極楽往生、子孫繁栄や時代が下ると死者の冥福を祈ることを目的としたものが多くなります。

 普通、埋葬された場所は、寺院や神社の境内ですが、墓地の一角の場合もありました。

 稲根神社の裏の二塚古墳の墳丘部から安政年間(185460)に、写真の経筒が出土しています。

 暴風雨で倒れた松の根本から発見されたと伝えられています。

 昭和37年の調査までは、別の銅製の経筒と「源能定」銘の小銅版があったらしいのです。現在は残っていません。

 源能定は、後醍醐天皇の忠臣でした。この経塚は、鎌倉時代の終わりの頃のものと推定されます。

 それにしても、彼の銘のある経塚をがどうして、この地にあったのでしょうか。

 謎が残ります。

  *『信仰の美術(東播磨の聖たち)』(加古川総合文化センター)、『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

 

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神野町をゆく(40) 稲根神社(2) 二塚古墳

2022-03-20 07:13:22 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

 

  神野町をゆく(40) 稲根神社(2) 二塚古墳

 稲根神社の小さな丘の後ろに、二つの円墳(はっきりしない)があります。

 二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。

 2号墳(写真上)は、1号墳(写真下)よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧に造られています。

 そして、2号墳の方が1号墳よりも少し早く造られているようです。

 2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。

 稲根神社のあるこの集落は、江戸時代、この二つの古墳にちなみ二塚村と呼ばれていました。

 明治9年に加古郡手末村と合併して神野村となりました。

 しかし、二塚村は「元禄郷帳」に「古ハ手末村」と記しているところから判断すると元は一村であったようです。

 *『加古川市史(第四巻)』参照

 

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神野町をゆく(39) 稲根神社(いなねじんじゃ・1)

2022-03-19 08:39:46 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(39) 稲根神社(いなねじんじゃ・1)

 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となりました。

 その旧二塚村に稲根神社(写真)があります。曇川の河口にある集落です。

 稲根神社は、古代にさかのぼる神社のようです。

 神社の裏に、二つの後期古墳があります。旧二塚村もこの古墳から名づけられています。

 郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』で、稲根神社について、次のように語っておられます。

 「・・・二塚古墳に葬られていた豪族が、水と平地を求めて神野の里にやって来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。

 また、稲根神社の由来は次のようです。

 ・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って世の中に米が満つようになった・・・

 本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要です。

 しかし、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そしてなによりも神社の名前(稲根)をつなげてみると、納得してしまいます。

 私たちの地方では神野の地で最初に稲作が始まり、やがて播磨の地に広まったことを語っているのかもしれません。

 ともかく、神野の地(賀意理多の谷:かおりだのたに)は、稲作が早くからはじまった土地のようです。

 *『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

 

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神野町をゆく(38) 舟引原(ふなひきはら)

2022-03-18 10:54:15 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

    神野町をゆく(38) 舟引原(ふなひきはら)

  地図は、石見完次氏が、加古川史会の「会報(第36号)」に発表された論文「播磨風土記研究・舟引原はあった」を参考にしています。

 『播磨風土記』に次のような記述があります。

 ・・・この里に舟引原(ふなひきはら)がある。昔、神前村に荒ぶる神がいて、つねに行く人の舟を妨害して通さなかった。

 ここを往来する舟は、すべて印南(加古川)の大津江に留まり上流へと上り、賀意理多の谷(かおりだのたに)から舟を引き出し、赤石(明石)郡の潮(みなと)まで通行させた。故に、舟引原という・・・

 上記の神前村は古宮辺りの浜で、大津江は現在の加古川町稲屋辺りだとされています。

 しかし、『風土記』にある賀意理多の谷・舟引原については、従来学会でも不詳とされていました。

 加古川史学会の石見完次氏は、加古郡稲美町六分一(ろくぶいち)の古い字限図に「舟引」を見つけられ、舟引原の場所を確定されました。

 舟引原の位置から、「賀意理多の谷(かおりだのたに)」は曇川が流れる地域を指すことは容易に推測されます。

 古代においては、地図の赤い線にそって舟を魚住の泊(名寸隅・なきすみ)へと運んだようです。

 それにしても、荒ぶる神の正体は何でしょうか。多くの書物は「海賊説」をとっています。

 *「会報36号」(加古川史学会)参照

 

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神野町をゆく(37) 夕立の夢(福沢の伝承)

2022-03-17 07:27:35 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 福沢(神野町石守)は、曇川が低いところを、わずかに流れるだけの村でした。

 しばしば、旱魃で苦しみました。福沢にこん伝承があります。

   神野町をゆく(37) 夕立の夢(福沢の伝承)

 むかし、日照続きで稲はやけてしまうし困ってしまいました。

 何ちゅうても雨が降らんとしようがない。いっぺん五郎吉さん(雷)に頼んで大きな夕立をふらしてもらわんな・・・と考え、毎日、五郎吉さんが来んかと、遠くの山を眺めておりました。

 ある日でした。山の向こうで「ゴロゴロ」と鳴っておるのが聞こえてきました。

 目の前でピカッと光りました。

 「五郎吉さんが来よった」と心を躍かせながら手招きをした。

 五郎吉さんが、「何か用かい」と尋ので「実は、頼みがあるんや。お前の友達の雨が欲しいやが、降らしてくれんか・・・」と五郎吉さんに言うと「易いこっちゃ」というのでした。

 ・・・(そして)五郎吉さん(雷)のようけおる広峰・書写の上空に連れて行ってくれたました。

 ・・・五郎吉さんの親方が雨の降らせる呪文を唱えました。そしたら、西の方から「ゴロゴロ」と鳴り出し雨もだんだん大降りになってきました。

 「この辺はどこや」と言うので「市川と言うところや、もっと東」と言うと(福沢の上で)法外な雨を降らしてくれました。

 安心して雲の上から降りたら、田も畑もようけの水やった。これで米もようけとれるし、ひと安心。

 そんな所へ坊さんが来て、「あんたが、五郎吉さんへに頼んでくれたおかげで助かったと(村人は)言うてるで・・・」

 ・・・・その時、目が覚めました。「なんや夢かいな・・・・」

*紙面の都合で一部を省略しました。

 

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神野町をゆく(36) 曇り川は一級河川?

2022-03-16 07:09:05 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(36) 曇り川は一級河川?

 どうでもよい話ですが、でも気になる話題です。

 「どうして曇り川が一級河川で、天満の大池あたりから南の播磨町方面に流れる流れる喜瀬川はなぜ二級河川なのだろう」

 こんな疑問を持たれたことはありませんか。

 インターネットで調べてみました。

(インターネットより)

<質問>

 かなり小規模な一級河川があるにもかかわらず、地方を代表するような大きな川が二級河川であったりすることが不思議です。

<回答>

 国土交通大臣が指定・管理する水系が、一級河川。都道府県知事が管理する水系が二級河川です。

 複数の県をまたいで流れる河川は、一級河川に指定されています。

 また、一つの県でも重要性の高い河川は、国が管理する一級河川に指定されています。

 以上の説明の「水系」に注目してください。

 この指定は、河川ではなく水系を指定しています。

 つまり、加古川と加古川に流れ込む大小全ての川が全て一級河川です。

 曇川も、曇り川は一級河川・加古川に流れる河川です。

 従って、一級河川で、喜瀬川は瀬戸内海に流れ込み、県が管理する川のために二級河川というわけです。

 曇川の支流の国安川も、もちろん一級河川です。

 今日は、どうでもよいことですが、こだわってみたくなる話題でした。

*写真:右の川で国安川、左の川が曇川で、共に一級河川

 

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神野町をゆく(35) 青之井用水

2022-03-15 10:06:13 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

  神野町をゆく(35) 青之井用水 

 水田への水の補給方法は、ため池だけではありません。

 もう一つは、川から「用水」引く方法です。

 川の途中に堰を作り、そこから下流に緩やかな勾配を持つ溝(用水)をつくり、田へ水を引きます。図をご覧ください。

 Aの用水は、淡河川から印南野台地を経て流れてきた用水です。

 矢印のところに平木橋があり、最後に平木池(現在は埋め立てられています)に流れ込みました。

         青之井用水と高堀

 緑色の用水は、寛文四年(1664)に完成した青之井用水です。

 青之井用水は、曇川から皿池(中央の黒い大きな池)に入り、更に先に流れ近隣の田畑を潤しました。

 赤色の用水にも注目下さい。青之井用水から分かれた高堀り溝です。

 高掘り溝は、平木橋の下をとおり、さらに南の戸ヶ池に流れ、野口の北部の池に流れました。

 皿池のある場所の標高は、約22メートルで、平木橋の辺りは標高約27メートルです。

 戸ヶ池の辺りは、約22メートルです。

 平木橋辺りの土地が壁のように立ちはだかり、水はそれ以上流れませんでした。

 百姓は、そこに深い溝を掘りました。これが高掘り溝です。

 少し、説明が必要です。

 「高掘り溝」とは、高いところを掘った溝の意味ではありません。

 高掘り溝は、村高(生産高)に応じて工事をした溝の意味です。

 「当時、石守村(神野町)が600石、水足村(野口町)が644石であったので、この割合で工事の負担をしてできた堀」という意味です。

 現在、平木橋は東播南北道路の建設により取り壊される運命にあったのですが、各方面の努力により文化財として野口町水足の公民館横の前ノ池(まえのいけ)に移転され保存されています。

*写真:「前ノ池」(野口町水足)に保存される前の平木橋

 

 

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神野町をゆく(34) 万才池の研究(5)・万才池ができた

2022-03-14 08:15:04 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(34) 万才池の研究(5)・万才池ができた

 村の人は苦労して万才池をつくり、田をつくり、そして、田をつくった後は、池から水を流してくる溝をつくりました。

 ・・・・いちばん下の田で使い終わった水は、川へ流してしまうのではなく、隣の村の用水路に流れ込むようにしたそうです。

      万才池ができた後

 「万才池ができてからは、水の心配はなくなったのですか」

 「よくなったが、それでも水はたりなかった。

 曇川は見てのとおり、小さな小川だ。秋から冬の間に水がいっぱいにならないことが、よくあったものだよ。

 そういう時は、村の人たちはみんなが集まって、今年は五分植えにしようとか、三分植えにするかなどと相談するんだ。

 五分植えというのは、いつもの年の半分しか田植えをしないことで・・・」

 「今は、どうなんですか」

 「135メートルもボーリングして、地下水を汲み上げているし、田んぼも少なくなったものだから、水不足はなくなったよ。

 でも家や工場がふえて、用水路に汚れた水が流れ込むので、困っているんだよ」

 *昭和55年発行の『小学校社会四年・上』(学校図書)で神野町の万才池が地域学習のモデルとして取り上げられ、全国に紹介されました。紙面の都合上一部省略しています

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神野町をゆく(33) 万才池の研究(4)・万才池への揚水

2022-03-13 08:23:53 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   

 神野町をゆく(3) 万才池の研究(4)・万才池への揚水

 万才池は、標高30mの所にあります。曇川から用水をつくり、水を引くのはむりです。

 曇川からの揚水は、ポンプでくみあげました。

 教科書(『小学校社会四年上』)(学校図書)記述を続けます。

      ポンプでの揚水 

  ・・・曇川の水を汲み上げるには、図のように汲み上げた水を万才池に流し込まなければなりません。

 実際には14mも水を上げたそうです。

 村の人たちは、20馬力の蒸気ポンプを買って、すえつけました。

 石炭をたいて蒸気をおこすのです。

 馬方(うまかた)さんが、荷馬車で石炭をポンプ場に運んでいるのを、おじいさんの子どものころによく見かけたそうです。

 田植えの前の、川の水も多くなる3月から4月にかけては、夜どおしかまを炊いて、万才池に水をくみあげました。

 兵隊に行ったとき、軍艦のかまたきをした人が、交代でポンプ場のかまをたいたそうです・・・

*写真:ポンプきかい場、『東播磨の民俗』(石原完次著)より

 

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神野町をゆく(32) 万才池の研究(3)・池づくりが始まる

2022-03-12 06:21:19 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   

    神野町をゆく(32) 万才池の研究(3)・池づくりが始まる

 村人は、池づくりをはじめました。

 ・・・この池がある辺りは、元はだんだん畑で、村のお墓もあるさびしいところでした。

 そこへ、6ヘクタールもある池をつくるのですから、それこそ大変でした。

 機械のない頃なので、鍬で土をほり、じょれんで土をもっこにのせ、天秤でかついで運びました。

 岡の上の池ですから、土手が崩れたら、家も流されてしまいます。

 だから、じょうぶな土手にしなければなりません。

 工事のためにかかるお金は、農家の人たちが出しあったりしたそうです。

 そして、働いたのも、この村のお百姓さんたちでした。

 みんな、農業仕事のないときに、工事作業にでたのです。

 

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神野町をゆく(31) 万才池の研究(2)・綿が売れなくなる

2022-03-11 10:18:18 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(31) 万才池の研究(2)・綿が売れなくなる

 「万才池の研究(2)」も、前回紹介した『小学校社会四年上)」(学校図書)からの転載です。

 児童がおじいさんに質問しています。

 ・・・「万才池は、この辺りでは一番高いところにある。高いところに池をつくれば、近くの田んぼ全部に水を送れる。その代わり低いところに流れている曇川の水を、池まで上げるのがたいへんだよ」

 「万才池ができるまで、この土地では何を作っていたんですか」

 「水がないので、畑にしかならなかったんだよ。そして、そこで作っていたのは、あわ・ひえ・そば・まめや芋だったな。売れるものでは、綿をつくっていた。

 ところが綿も、だんだん売れなくなったので、次第に米をつくろうとする家がでてきた。

 でも、米を作るためには水がいるし、水を貯める池もいる。池をつくるにはたくさんのお金がかかる。

 ・・・・村の人は、何度も何度も寄り合いをして、とうとう池をつくることにしたということだ」

 ・・・先生は「発表の中に綿をつくってもさっぱり売れなくなったと言うところがあったね。こういうことなんだよ」と次のように話してくれました。

 「明治になってから、それまで、糸車や機織機を使って手でつくっていた糸や布を、蒸気で動かす機械を使ってつくるようになったのだよ。

 綿もインドやアメリカのものが安く買えるようになったので、これまでのように農家から買わなくなったんだよ」

 *挿絵:棉

 

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神野町をゆく(30) 万才池の研究(1)

2022-03-10 10:52:26 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(30) 万才池の研究(1)

 加古川市神野町の南東部あたりは高台で、特に水の得にくい土地でした。

 そのため、多くの土地は細々と畑地として利用されていました。

 稲美町との境の高台(海抜m35m)に万才池(写真)が築かれました。

 この池について、昭和55年の『小学校社会四年上・下』(学校図書)に、取り上げられました。

 現在、この教科書は入手困難でもあり、ここで再度紹介しましょう。

 *しんいち君の研究のグループの発表のという形で書かれています。(多くのカ所で、ひらがなを漢字になおしました)

   万歳池は、明治38年につくられる

 ・・・・等高線をたどって地図を見ると、隣の稲美町に50mの等高線があって、加古川市の方にそれ、より低い等高線がありました。

 等高線と等高線の間が広くなっているので傾斜の緩やかな台地があることが分かりました。

 この辺りには、ため池の印がたくさんついていました。

 ほとんどのため池が、10m以上の台地の上にあることもわかりました。

 ・・・・

 つぎに、万才池がどうしてつくられたについて話します。

 おじいさんに教えてもらったので、私たちの質問とおじいさんの答えという形で発表します。

 「この池はいつごろつくられたのですか」

 「私が生まれる二年前の、明治38年(1905)にできたんだよ」・・・

 「万歳池なんて、おもしろい名前ですね」

 「明治37~38年に、日露戦争という戦争に勝ったので、この名前をつけたそうだよ」・・・(『小学校社会四年上』学校図書より)



 万才池が教科書に取り上げられて以来、もっぱら「日露戦争説」が採られていますが、万才池の形が亀の甲羅に似ており、亀は長寿のしるしであり、おめでたいところから「万才池」と名づけられたという説もあります。

 *写真:万才池付近の地図

 

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