平岡町をゆく(24) 加古川地方の綿作
文化5年(1803)姫路藩は、73万両というとんでもない負債を抱えていました。
これは、米に換算すると62万石にもなります。姫路城下の収穫高のうち5割が税金として、年貢米は7万石となります。
そっくり負債にあてても7年を要します。
小手先を弄するぐらいではどうにもならない数字です。
しかし、藩は綿布の専売制度でこれを完済しました。全国的にも珍しい例でした。
この大事業に、平岡町二俣の坂田藤蔵が大きな役割を果すことになります。
坂田藤蔵・綿布専売制度については、後にも述べます。
そのまえに、加古川地方の綿作について、少し述べておきましょう。
加古川地方の綿作
綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。
その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地となりました。
木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。
江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿は商品作物として栽培されるようになります。
姫路木綿は、品質がよく、加古川や市川(姫路)の水質が木綿を晒すには適していました。
姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評でした。
この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。
二俣の近辺の田畑でも、江戸時代の終わりの頃、秋には真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていました。
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