平岡町をゆく(16) 古宮組の村・寺家町組の村
明治22年4月1日、平岡地域の村々が合併して「平岡村」が誕生しました。
それでは、平岡村となった二俣村・高畑村・西谷村等々の各村は、江戸時代一つのまとまった地域だったのでしょうか。
二俣村は古宮組の村・高畑・西谷・新在家は寺家町組の村
少し説明が必要のようです。
江戸時代、各村には村を治める庄屋(しょうや)が置かれました。
庄屋は、大庄屋(おおじょうや)の支配下にありました。
大庄屋は、各村の庄屋をまとめ、指導する庄屋のことです。
つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、大庄屋はふつう十五ヵ村ほどの村々を治めていました。
大庄屋の支配する地域を「組」と呼んでいます。
組の名は、ふつう大庄屋のいる村の名で呼ばれます。
それでは、現代の平岡町にあった村々は、同じ組にあったのでしょうか。答は、「ノー」です。
平岡地区の新在家、高畑、西谷、土山の各村々は、寺家町組(図の緑)に属していました。
山之上、一色、中野、八反田そして二俣の各村々は、現在の播磨町の村々とともに古宮組(図の赤)でした。
野口地区の古大内、二ツ屋、坂井そして別府の西脇村も古宮組でした。
江戸時代、二俣村は、現在の播磨町と同じ行政区に属していました。
これは、二俣村が古代より阿閇庄の村に属し、また新しくは新井の村々(新井郷)としての結びつきがあったと思われます。
これに対し、寺家町組は、街道筋という共通の性格を持った地域でした。
江戸時代も終わり頃から明治時代になると、各村々の性格・利害もずいぶん変わりました。
二俣村の生活は、すっかり高畑・西谷、つまり寺家町組の村々との繋がり方が、播磨町の各村々よりも強くなりました。
そのため、明治22年、行政地区の大改革(大合併)が行われ時、二俣村は平岡村二俣となりました。