ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(16) 古宮組の村・寺家町組の村

2024-07-07 09:32:24 | 加古川市の歴史・平岡町編

         平岡町をゆく(16) 古宮組の村・寺家町組の村

 明治22年4月1日、平岡地域の村々が合併して「平岡村」が誕生しました。

 それでは、平岡村となった二俣村・高畑村・西谷村等々の各村は、江戸時代一つのまとまった地域だったのでしょうか。

       二俣村は古宮組の村・高畑・西谷・新在家は寺家町組の村

 少し説明が必要のようです。

 江戸時代、各村には村を治める庄屋(しょうや)が置かれました。

 庄屋は、大庄屋(おおじょうや)の支配下にありました。

 大庄屋は、各村の庄屋をまとめ、指導する庄屋のことです。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、大庄屋はふつう十五ヵ村ほどの村々を治めていました。

 大庄屋の支配する地域を「組」と呼んでいます。

 組の名は、ふつう大庄屋のいる村の名で呼ばれます。

 それでは、現代の平岡町にあった村々は、同じ組にあったのでしょうか。答は、「ノー」です。

 平岡地区の新在家、高畑、西谷、土山の各村々は、寺家町組(図の緑)に属していました。

 山之上、一色、中野、八反田そして二俣の各村々は、現在の播磨町の村々とともに古宮組(図の赤)でした。

 野口地区の古大内、二ツ屋、坂井そして別府の西脇村も古宮組でした。

 江戸時代、二俣村は、現在の播磨町と同じ行政区に属していました。

 これは、二俣村が古代より阿閇庄の村に属し、また新しくは新井の村々(新井郷)としての結びつきがあったと思われます。

 これに対し、寺家町組は、街道筋という共通の性格を持った地域でした。

 江戸時代も終わり頃から明治時代になると、各村々の性格・利害もずいぶん変わりました。

 二俣村の生活は、すっかり高畑・西谷、つまり寺家町組の村々との繋がり方が、播磨町の各村々よりも強くなりました。

そのため、明治22年、行政地区の大改革(大合併)が行われ時、二俣村は平岡村二俣となりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする