たむたむの独り言

写真を中心にした情報です。

神経痛を克服するには入浴と開き直って動き回ること

2009-09-27 21:33:51 | Weblog

2009年9月27日(日)、昨夜は神経痛が痛んでよく眠れなかった。朝起きてからも右胸が痛くて気分が悪い。温泉にでも行きたいが、痛みをこらえてそこまで行くのが億劫である。しかし、このままでは辛いので自宅で風呂に入る。お湯につかっている間は嘘のように痛みが消える。湯上がり後は少しは痛みが和らいだ。じっとしているより動いた方が痛みを忘れていられることが多いので、先日緑化計画を頼まれた工場の現場を見に行くことにした。そこは阿賀野川の河口の工場で周囲にはクロマツとアカシアの林のほか水田や住宅地も近くにある。何年か前に住宅地との間の緩衝緑地帯の造成計画を頼まれて計画案を提出したところである。住宅地側の緑地帯に行ってみると、ほぼ計画通りに施工されて結果も良好である。今回は水田に接する海側の部分である。昔はクロマツの防風林が成立していたと思われるが、現在はニセアカシアやツル植物に覆われて荒廃している。所々で車を降りて写真を撮っていると「トキ観察時のお願い」という立て看板が目に入った。そういえばトキが佐渡から最初に本土に渡ってきたのは確かこの辺りだったような気がする。背後には荒れてはいるが松やアカシアの林があってねぐらや止まり木には事欠かないし餌場の水田もある。今回の計画はトキにも人間にも快適な林の造成を計画することにしよう。
 夕方になってだいぶ痛みが薄らぎ痛みがくる間隔も長くなった。夕陽が狙えそうだったので海に行ってみた。モンゴルの草原に昇る朝日も良かったが、日本海に沈む夕日もまたいいものだ。



〈トキと水田への注意を呼びかける看板、今もいるのかどうかはわからない。〉


〈日本海に沈む夕日の見える海岸、わが家から歩いても行けるビュースポットである。〉

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再び寝ないでソウルへ、1泊5日となった旅の最終日

2009-09-26 11:37:52 | Weblog

2009年9月23日(水)、夜中の0:20発ソウル行きのフライトも満席の状態である。真夜中にかかわらず水平飛行に移ると食事が出てくる。こちらもじっとしていた訳ではないので何となく空腹感はある。結局出されたものはすべて平らげたが、少しでも寝るために食後のコーヒーだけは遠慮した。
 しかし結局寝付かれず早朝4:00にソウルに到着。これから新潟行の乗り継ぎは夕方まで待たなくてはならない。ホテルで仮眠することもできたが、せっかくだからと水原(スーウオン)にある世界遺産の華城行宮を見に行くことになった。
 空港から早朝1番の水原行のシャトルバスが5:30に出ることがわかったため、それに乗っていくことにした。今回はまるで韓国観光ツアーになってしまった。
 華城行宮は朝鮮行宮建築の歴史的建造物を復元したものである。やはり中国、朝鮮、日本の宮廷や寺院建築は、それぞれ異なった特徴を有しつつも、根源的には同じ文化の土台の上にあることを改めて感じた。
 昨日の寒さから一転して今日は真夏の暑さである。朝早くから行動したのは正解だった。10過ぎのバスで空港に戻り、空港の中にあるサウナに入って少し仮眠をとる。18:00発の新潟行きに搭乗したがこれも満席である。さすがシルバーウイークの効果である。
 20:00予定通り新潟空港に到着。実際の2倍ほどの長さに感じた1泊5日の旅も無事終わった。


〈山の上から水原の市街地を見渡す。中心部が古い街並みで建築物の高さ制限がかかっているようだ。〉


〈華城行宮の華麗な建築様式を復元した宮廷を見学〉

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モンゴル日本大使館に表敬訪問

2009-09-26 11:01:15 | Weblog

2009年9月22日(火)[2]、夕方、あらかじめアポイントを取ってあったモンゴル日本大使館の城所大使を訪問。たまたま中山理事長と面識があったため、今回の目的を説明して協力もお願いした。その後ウランバートル市内のレストランに大使から夕食に招待され、日本食をごちそうになった。幸い城所大使は酒が飲めないということで、アルコール攻めに合うことなく私は助かった。事前にその情報を得ていたので、日本からのお土産は羊羹や和菓子などの甘いものを用意して行った。ほかの職員のために日本酒「越の寒梅」の4合瓶2本も持って行った。今回の秘書役を務めてくれた若い書記官(夕食時に日本酒好きであることがわかった)の嬉しそうな顔が印象的であった。
 今夜の夜中の便でソウルに戻らなくてはならないので8時ころには失礼してホテルに戻った。すると我々より1日遅れてウランバートルに到着した同じ協会のメンバーが来ていて、お別れ会をやるから来てくれという。彼らはウランバートル市内の道路排水に関する技術協力で来ていた。
 そこでウォッカを一杯飲まされて彼らと別れ、10:00にホテルを後にして空港に向かった。


〈日本大使館で城所大使と面談。今後の計画を説明してバックアップを依頼する。〉


〈たまたま同じホテルに宿泊している別のプロジェクトのメンバーたちと〉

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ウランバートルに到着

2009-09-26 10:23:36 | Weblog

92009年月22日(火)[1]、朝目覚めるとまだ窓の外には雪が残っていた。定刻8:00にウランバートル駅に到着。11時間の夜行列車は、これまでの疲れもあり思ったよりよく眠れた。とりあえずホテルでシャワーを浴びて市内見物に出かける。一応真冬用のダウンジャケットを持ってきたが手袋を忘れてきた。外の気温は明らかにマイナスだ。手がかじかんでくる。新潟の真冬より寒い。
 市内を一望できる丘に登った時が風も強く最も寒かった。しかし、ウランバートル市全体が見渡せる素晴らしいビューポイントである。周りを山に囲まれた盆地であることがよくわかる。

〈朝8時ウランバートル駅に定刻に到着〉

〈モンゴルの国会議事堂。中央にシンギスハーンが鎮座する。〉

〈市内を一望できる丘、階段を登るのが結構きつい。〉

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再びウランバートルへ夜行列車でトンボ帰り

2009-09-26 09:28:23 | Weblog

2009年9月21日(月)[5]、担当者から大急ぎで現地を案内してもらい、環境センターに必要な気象情報等の収集をお願いした。知事と夕食を取りながら今後のことを話し合い、その夜の夜行列車で再びウランバートルに戻った。
 一応現地視察と受け入れ側の知事との話し合いは予定通り実行できたので、今回の所期の目的は達成できた。
 しかし、楽しみにしていたサインシャンドにある不思議な力を持つエネルギースポットへ行くことはできなかった。
 夜行列車の隣のキャビンに乗り込んできた日本人グループは、それが目的でこのサインシャンドまで来たという。今や世界的にその知名度は高くなっているらしい。企画が通って実施になればまた来ることになる。その時の楽しみにとっておくことにしよう。


〈サインシャンドを21:00に出発するウランバートル行きの夜行列車に乗り込む〉


〈列車は旧ソ連製の古い車両だが中国の列車よりトイレも清潔で快適である。モンゴルで初めて横になって眠れる夜だった。〉

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すでに試験地が設けられ、砂漠緑化のプロジェクトは動き始めている

2009-09-26 08:57:54 | Weblog

2009年9月21日(月)[4]、まず最初にサインシャンドの町全体を見下ろすことができる丘の上に案内された。砂漠の中のオアシスという感じはしない。緑がほとんどない砂漠に埋もれそうな町という感じだ。
 この地域は風も強いらしく飛砂も大きな問題となっている。日本の黄砂は中国の黄土高原からだけでなく、このゴビ砂漠からのものもかなり含まれるのではないかと思われる。その意味でもゴビ砂漠の緑化は両国の利害が一致するプロジェクトになるはずである。すでに日本からもいくつかのパーティが入っているようだが、東西1,900㎞、南北850㎞の広大な砂漠の中で成果を出すには気の遠くなるほどの時間と経費がかかる。ポイントを定めた展開が必要だ。
 郊外には、緑化試験地が造成されて植栽試験が始まっていた。よく見ると、一昨年まで我々が中国黒竜江省のチチハル周辺でJICAの技術協力として行ってきた生態林造成事業の時の樹種とほとんど同じであった。考えて見れば緯度もほぼ同じで、チチハルは内モンゴル自治区を挟んでゴビ砂漠の東端とはそれほど離れてはいない。何とか計画書は書けそうだ。



〈砂漠に埋もれそうなサインシャンドの町〉


〈すでに県によって砂漠緑化のための試験地が設定されている〉

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東ゴビのガンホヤック県知事と意見交換

2009-09-26 08:10:22 | Weblog

2009年9月21日(月)[3]、車はどうやら県庁舎に着いたようだった。来ているはずの通訳はいない。役人らしき人が出てきて庁舎に案内される。知事室のようだった。デスクでは知事らしき人が忙しく電話の受け答えをしている。時々英語で話しかけてきてはまた電話をしたり部下に指示したりしている。しばらくしてもう一人の恰幅の良い人物が現れて隣の部屋に案内してくれた。流暢な日本語を話している。その人が知事であった。先ほどの忙しがっていた人物はどうやら秘書課長らしい。それにしても英語がうまく早口でよく聞き取れない。
 一方知事は日本の大使館に5年間勤務したことがあるため日本語がうまい。
 通訳は相変わらず現れなかったが話し合いは日本語で問題なかった。知事の話では、通訳は我々がこんなに早く到着するとは思っていなかったので市内の観光に出かけているのだという。結局会議が終わる頃通訳のエンクバイヤルさんがやってきた。彼女はモンゴル出身で現在新潟市にある(財)環日本海経済研究所で経済学博士と工学修士を持つ研究主任であった。知事とも旧知の中で中山理事長とも親しいため、理事長が帰省を兼ねて通訳をお願いしていた。
 知事から庁舎脇のレストランで昼食をごちそうになり、さっそく現場に案内してもらうことになった。


〈流暢な日本語を話すガンホヤック知事と今後の進め方について会談する〉


〈県庁舎前広場には道路の中心起点となるマークが舗装にデザインされていた。〉

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砂漠の中を突っ走る

2009-09-25 20:21:48 | Weblog

2009年9月21日(月)[2]、ランドクルーザーの運転手は迷うことなく砂漠の中を猛スピードで走っていく。何も目印のない砂漠の中にいくつかの轍の跡がついている。どれが目的地へ向かう車の轍なのかがどうしてわかるのか不思議だ。通訳がついていないので英語の通じない運転手との会話は身振り手振りだけである。いろいろ聞きたいことがあったのだが会話は不可能だった。
 やがて砂漠の中に人家が見え始めてきた。目的地サインシャンドである。時刻は11時過ぎであった。夜行列車は朝の8:30に到着予定だった。行程の遅れは何と3時間に短縮されていた。ただし我々は眠ることはできなかったが…。


 
  

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真夜中の2時にウランバートル到着、5時にゴビ砂漠へ出発

2009-09-25 20:14:16 | Weblog

2009年9月21日(月)[1]、昨日のフライトでもチェックインの時間が過ぎても出発できるかどうかの結論が出ず、結局2時間待たされてようやく出発となった。ウランバートル空港には真夜中の2時に到着。乗り遅れた夜行列車を車で追いかけることになった。ホテルで荷物を解いて準備をし、寝る間もなく早朝5時に先方の旅行社が急遽用意してくれたランドクルーザーでホテルを出発した。
 うとうとしながら車に揺られ、ふと目が覚めて薄明かりに映し出された窓の外を見ると、何とモンゴルの草原は所々白い雪で覆われているではないか! 昨日の欠航は猛吹雪のためだったことを後で聞かされた。
 間もなく東の空が群青色に染まり、何もない広大な草原に朝日が昇ってきた。これはさすがに感動の一瞬であった。
 夜行列車で11時間を要するウランバートルと東ゴビのサインシャンド間460㎞の草原と砂漠を何と6時間で走り切り、半日分の遅れを取り戻してくれた。途中で停車したのは1回のトイレタイムの他は、馬とヤギとラクダが車の前を横切った時だけだった。


 




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思わぬ人と出会う

2009-09-24 19:07:15 | Weblog

2009年9月20日(日)[2]、夕方、仁川のホテルに航空会社のバスが迎えにきた。空港に向かうバスの中で前の席に座った人たちの会話が耳に入ってきた。どうやら早稲田大学の探検部OB会のメンバーのようだ。その一人が「1967年10月8日」という本を書いたという話が聞こえてきた。その本は〈チェ・ゲバラ死の残照〉という副題がついており、ゲバラがボリビアで殺された時から後のことが丹念な取材によって書かれたノンフィクションである。
 革命家ゲバラは唯一私の尊敬できる人物と言っていい。ゲバラに関する本は何冊も買って今でも時々読み返している。その中の1冊が「1967年10月18日」である。つまりゲバラが殺された日である。
 空港の出発ロビーで、「失礼ですが…」と言ってその人に話しかけてみた。本は読んでいたものの著者については全く覚えていなかった。その人は恵谷 治(えや おさむ)という戦場ジャーナリスト、写真家、探検家であった。しばらくゲバラの生きざまについての話で盛り上がった。彼らは探検部のOB会でモンゴルの山に登りに行くところで、彼がリーダーのようだった。
 ウランバートル行きが欠航したおかげで思わぬ人に出会うことができた。何が起こるかわからないのが旅で、非日常性を実感できる醍醐味もここにある。
 さて明日から一体どうなるのだろうか?1日の遅れは何とかするとの連絡は入ったが、向こうの予定がどう変更になったのか全くわからない。まさに期待と不安が入り混じったモンゴルへの出発である。


〈2000年5月に毎日新聞社から発行された1967年10月8日〉

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開き直って2009仁川世界都市フェアを見に行く

2009-09-24 12:54:52 | Weblog
9月20日(日)[1]、じたばたしても始まらないので、出発時間までを利用して、ちょうど宿泊したホテルの近くで開催中の「2009仁川世界都市フェア」というのを見に行くことにした。
 ここにはいくつかの日本の都市のブースもあったが、広大な敷地の割に興味をそそられるパビリオンはあまりなく全体的のテーマ性にも乏しく、国際博としてはイマイチの感がした。予定より早くホテルに戻り夕方航空会社のバスが迎えに来るまで、明日からのハードスケジュールに備えて部屋で休息をとることにした。

〈2009仁川世界都市フェアの正面ゲート、開門と同時の入場者は外国人の方が多いようだ。〉

〈会場内で一番いいと思ったトロイの木馬〉

〈会場周囲のビルはほとんどが建設中の再開発地区である。〉
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ウランバートル行きが欠航となり韓国仁川(インチョン)空港で足止め

2009-09-23 22:03:20 | Weblog

2009年9月19日(土)、最初からかなりハードなスケジュールだったモンゴル、ゴビ砂漠の緑化技術協力への事前調査は、目的地到着前から思わぬトラブルが発生してしまった。
 新潟空港を9:30に出発し韓国のインチョン空港でウランバートル行きに乗り継ぐ予定であった。乗り継ぎの待ち時間が長いため、一旦空港をチェックアウトしてソウル市内のチョンゲチョンの河川改修というか復元された様子を見に行った。その後空港に戻って再びチェックインしたところ、ウランバートル行きは向こうの悪天候のため欠航だというアナウンスである。今回はNPO新潟対外科学技術協会の中山理事長(モンゴルの新潟名誉領事でもある)と私、他に当社から1名が参加している。
 明日の出発までの宿泊等の手配は航空会社で行ってくれたものの、1日遅れるとソウル―ウランバートル便は毎日飛んでいないため、帰国する新潟空港へのトランジットができなくなる。連休中の5日間の日程が3日も伸びてしまうことになる。それでは仕事のスケジュールが狂ってしまう。
 急きょ受け入れ先の担当者と連絡をとって、何とか1日予定を短縮しても可能な方法を考えてもらうことにした。
 明日天候が回復してフライトができたとしても先が思いやられるモンゴル行きとなった。


〈ソウル市の中心部を流れるチョンゲチョン、以前は埋め立てられて上に高架橋が建設されていた。それを撤去しての都市河川の復元事例である。〉


〈水辺が市民の憩いの場となっているほか、海外からの視察者も多い。〉

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平標山の植物(2)

2009-09-14 21:33:54 | Weblog

2009年9月13日(日)[3]、尾根沿いの登山道にはミヤマガマズミやナナカマド、オオカメノキ、ミヤマシグレなどの赤い実が秋を感じさせる。
 帰り道は平標山の家を経由して平元新道を元橋へ下ったが、ほとんどが木の階段となっており非常に疲れた。ここまでしなくてもと思いつつ、見晴らしの利かないブナ林の中をひたすら足元だけを見ながら下る。あまり勧められないルートである。

〈ナナカマド〉

〈ミヤマガマズミ〉

〈ミヤマシグレ〉

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平漂山の植物(1)

2009-09-14 21:00:08 | Weblog

2009年9月13日(日)[2]、駐車場を出発してブナ林の中の登山道を登り始める。しばらくブナ林の急登が続き、柏崎の原発から東京へと送られるどでかい送電線の鉄塔が立つ尾根に出る。
 そこから再びブナ林に入るが、やがて標高が上がるにつれて低木林に変わっていく。その辺りからさらに標高の高いササ草原に至るまでの間、マツムシソウやハクサンフウロ、ウメバチソウなどの花が咲き、ナナカマドやオオカメノキ、ミヤマシグレなどの赤い実が美しかった。

〈林床に映えるマツムシソウの花〉

〈登山道の脇に咲くハクサンフウロの花〉

〈尾根の斜面にはウメバチソウの群落が多い〉

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谷川連連峰の西端、平標山(たいらっぴょうやま)

2009-09-13 21:13:23 | Weblog

2009年9月13日(日)[1]、関東と越後の間に聳える脊梁山脈が谷川連峰である。谷川岳1977mから万太郎山1955m、仙ノ倉山2026.2mを経て平漂山1983.7mまでがその中心である。この縦走も人気があるコースだが、体力も時間もない最近ではもっぱら日帰り登山である。先月登った谷川岳に続いて今日はその西端の平漂山に向かった。
 新潟を出発する時には時々ひどいどしゃ降りだったが、予想通り長岡を過ぎる頃からは晴れ間も出てきた。湯沢ICで降りて国道17号を三国峠方向に左折、久しぶりに三俣を通り苗場スキー場方向に向かう。スキー場の少し手前の元橋というところが登山口である。8時半に駐車場に着いた時には、マイクロバス2台と乗用車が十数台停まっていた。ほとんどが関東地方のナンバーであった。準備を終えて8:50に出発。山頂に11:30に到着という予定であった。途中で花の写真などを撮りながら登ったせいもあるが11:30を過ぎてもまだ山頂は遠い。駐車場から同じ時間に登り始めたグループはとっくに山頂から下ってきてだいぶ前にすれ違った。山頂に向かう尾根は背丈の低いササ草原のため風当たりが強く、今日は寒くて手がかじかむほどだ。12時近くなって空腹のため足に力が入らなくなってきた。山頂でお昼の予定だったが、そこも寒くて食べる場所もないだろうからと、ナナカマドの株の風下のチシマザサを倒して2人分のスペースをつくり、女房と持ってきたおにぎりをほおばった。じっとしていると寒いので食べ終わるとすぐに歩き始めたが、山頂には予定より1時間ほど遅れて到着した。山頂の直前ですれ違った人は「仙ノ倉まで行ってきましたよ」という。この人も駐車場を同時に出発した人だった。世の中には仙人のように飛ぶように歩く人がいる。山頂からは苗場山方向の眺望は利いたが、仙ノ倉、谷川方向はガスの中だった。

〈山頂近くのなだらかな尾根、風をよける場所がなく寒い〉

〈山頂は時折ガスが立ち込めて視界が悪くなる。風が強くて寒いのでほとんどの人はすぐ引き返す。〉

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