2009年9月23日(水)、夜中の0:20発ソウル行きのフライトも満席の状態である。真夜中にかかわらず水平飛行に移ると食事が出てくる。こちらもじっとしていた訳ではないので何となく空腹感はある。結局出されたものはすべて平らげたが、少しでも寝るために食後のコーヒーだけは遠慮した。
しかし結局寝付かれず早朝4:00にソウルに到着。これから新潟行の乗り継ぎは夕方まで待たなくてはならない。ホテルで仮眠することもできたが、せっかくだからと水原(スーウオン)にある世界遺産の華城行宮を見に行くことになった。
空港から早朝1番の水原行のシャトルバスが5:30に出ることがわかったため、それに乗っていくことにした。今回はまるで韓国観光ツアーになってしまった。
華城行宮は朝鮮行宮建築の歴史的建造物を復元したものである。やはり中国、朝鮮、日本の宮廷や寺院建築は、それぞれ異なった特徴を有しつつも、根源的には同じ文化の土台の上にあることを改めて感じた。
昨日の寒さから一転して今日は真夏の暑さである。朝早くから行動したのは正解だった。10過ぎのバスで空港に戻り、空港の中にあるサウナに入って少し仮眠をとる。18:00発の新潟行きに搭乗したがこれも満席である。さすがシルバーウイークの効果である。
20:00予定通り新潟空港に到着。実際の2倍ほどの長さに感じた1泊5日の旅も無事終わった。
〈山の上から水原の市街地を見渡す。中心部が古い街並みで建築物の高さ制限がかかっているようだ。〉
〈華城行宮の華麗な建築様式を復元した宮廷を見学〉
2009年9月22日(火)[2]、夕方、あらかじめアポイントを取ってあったモンゴル日本大使館の城所大使を訪問。たまたま中山理事長と面識があったため、今回の目的を説明して協力もお願いした。その後ウランバートル市内のレストランに大使から夕食に招待され、日本食をごちそうになった。幸い城所大使は酒が飲めないということで、アルコール攻めに合うことなく私は助かった。事前にその情報を得ていたので、日本からのお土産は羊羹や和菓子などの甘いものを用意して行った。ほかの職員のために日本酒「越の寒梅」の4合瓶2本も持って行った。今回の秘書役を務めてくれた若い書記官(夕食時に日本酒好きであることがわかった)の嬉しそうな顔が印象的であった。
今夜の夜中の便でソウルに戻らなくてはならないので8時ころには失礼してホテルに戻った。すると我々より1日遅れてウランバートルに到着した同じ協会のメンバーが来ていて、お別れ会をやるから来てくれという。彼らはウランバートル市内の道路排水に関する技術協力で来ていた。
そこでウォッカを一杯飲まされて彼らと別れ、10:00にホテルを後にして空港に向かった。
〈日本大使館で城所大使と面談。今後の計画を説明してバックアップを依頼する。〉
〈たまたま同じホテルに宿泊している別のプロジェクトのメンバーたちと〉
92009年月22日(火)[1]、朝目覚めるとまだ窓の外には雪が残っていた。定刻8:00にウランバートル駅に到着。11時間の夜行列車は、これまでの疲れもあり思ったよりよく眠れた。とりあえずホテルでシャワーを浴びて市内見物に出かける。一応真冬用のダウンジャケットを持ってきたが手袋を忘れてきた。外の気温は明らかにマイナスだ。手がかじかんでくる。新潟の真冬より寒い。
市内を一望できる丘に登った時が風も強く最も寒かった。しかし、ウランバートル市全体が見渡せる素晴らしいビューポイントである。周りを山に囲まれた盆地であることがよくわかる。
〈朝8時ウランバートル駅に定刻に到着〉
〈モンゴルの国会議事堂。中央にシンギスハーンが鎮座する。〉
〈市内を一望できる丘、階段を登るのが結構きつい。〉
2009年9月21日(月)[5]、担当者から大急ぎで現地を案内してもらい、環境センターに必要な気象情報等の収集をお願いした。知事と夕食を取りながら今後のことを話し合い、その夜の夜行列車で再びウランバートルに戻った。
一応現地視察と受け入れ側の知事との話し合いは予定通り実行できたので、今回の所期の目的は達成できた。
しかし、楽しみにしていたサインシャンドにある不思議な力を持つエネルギースポットへ行くことはできなかった。
夜行列車の隣のキャビンに乗り込んできた日本人グループは、それが目的でこのサインシャンドまで来たという。今や世界的にその知名度は高くなっているらしい。企画が通って実施になればまた来ることになる。その時の楽しみにとっておくことにしよう。
〈サインシャンドを21:00に出発するウランバートル行きの夜行列車に乗り込む〉
〈列車は旧ソ連製の古い車両だが中国の列車よりトイレも清潔で快適である。モンゴルで初めて横になって眠れる夜だった。〉
2009年9月21日(月)[4]、まず最初にサインシャンドの町全体を見下ろすことができる丘の上に案内された。砂漠の中のオアシスという感じはしない。緑がほとんどない砂漠に埋もれそうな町という感じだ。
この地域は風も強いらしく飛砂も大きな問題となっている。日本の黄砂は中国の黄土高原からだけでなく、このゴビ砂漠からのものもかなり含まれるのではないかと思われる。その意味でもゴビ砂漠の緑化は両国の利害が一致するプロジェクトになるはずである。すでに日本からもいくつかのパーティが入っているようだが、東西1,900㎞、南北850㎞の広大な砂漠の中で成果を出すには気の遠くなるほどの時間と経費がかかる。ポイントを定めた展開が必要だ。
郊外には、緑化試験地が造成されて植栽試験が始まっていた。よく見ると、一昨年まで我々が中国黒竜江省のチチハル周辺でJICAの技術協力として行ってきた生態林造成事業の時の樹種とほとんど同じであった。考えて見れば緯度もほぼ同じで、チチハルは内モンゴル自治区を挟んでゴビ砂漠の東端とはそれほど離れてはいない。何とか計画書は書けそうだ。
〈砂漠に埋もれそうなサインシャンドの町〉
〈すでに県によって砂漠緑化のための試験地が設定されている〉
2009年9月21日(月)[3]、車はどうやら県庁舎に着いたようだった。来ているはずの通訳はいない。役人らしき人が出てきて庁舎に案内される。知事室のようだった。デスクでは知事らしき人が忙しく電話の受け答えをしている。時々英語で話しかけてきてはまた電話をしたり部下に指示したりしている。しばらくしてもう一人の恰幅の良い人物が現れて隣の部屋に案内してくれた。流暢な日本語を話している。その人が知事であった。先ほどの忙しがっていた人物はどうやら秘書課長らしい。それにしても英語がうまく早口でよく聞き取れない。
一方知事は日本の大使館に5年間勤務したことがあるため日本語がうまい。
通訳は相変わらず現れなかったが話し合いは日本語で問題なかった。知事の話では、通訳は我々がこんなに早く到着するとは思っていなかったので市内の観光に出かけているのだという。結局会議が終わる頃通訳のエンクバイヤルさんがやってきた。彼女はモンゴル出身で現在新潟市にある(財)環日本海経済研究所で経済学博士と工学修士を持つ研究主任であった。知事とも旧知の中で中山理事長とも親しいため、理事長が帰省を兼ねて通訳をお願いしていた。
知事から庁舎脇のレストランで昼食をごちそうになり、さっそく現場に案内してもらうことになった。
〈流暢な日本語を話すガンホヤック知事と今後の進め方について会談する〉
〈県庁舎前広場には道路の中心起点となるマークが舗装にデザインされていた。〉