ヒカラビ一家の花日記

山の上に住む花農家から 魚沼発のあれこれを

歴史に問う、、、松の尾を燃やして賽ノ神

2023年01月16日 | むかしばなし

今年の賽ノ神は伝統の通り15日の小正月でした。

近年は子供も参加できるようにこの時期の日曜日でした。

この村には子供もいなくなって外孫だけの参加。あいにくの雨だが喜んでもらえた。

この村の鎮守様は松尾神社。

山の上の村はだいたい円の中なので集落の一番奥まった北端の山裾にある。

実は松尾神社って中越地方だけ検索しただけでこれほどあるのだ。

古い言い伝えを遡ると、、、、かなり想像だが。

縄文時代に相当大きな村だったこの村もいったんは人間が絶えていると思われる。

山間窪田遺跡Ⅱ -      ヒカラビ一家の花日記 (goo.ne.jp)

下の村 増沢 はその昔平家の一門井上家が栄えた村。

大勢の家臣や若い衆(農作業員)がいたと思われる。

そばには我が先祖である森山家もいた、ただ僧侶だったと聞いている。定かではないが、、、、

森山家、屋号は八郎右衛門。その子彦左衛門が山の上に分家に出た、屋号は

井上家からも六平ぇが分家が出た。屋号はかみ

井上家の家臣だった武藤徳右衛門も山の上に出た。屋号は

うえ、した、かみ が山の上の村の先祖御三家だ。

それぞれが分家を出して家数は増えていった。

そのころ村に旅の僧侶が流れ着いた、名は喜左衛門。

村人は喜左衛門を大事に扱い田も家も与えている。そのことは前にも書いた。

2015年6月1日のブログ記事一覧-     ヒカラビ一家の花日記 (goo.ne.jp)

家が7軒に増えたので鎮守様が欲しくなって長平ぇ喜左衛門が京都に行って松尾神社の分院をもらってきた。

松尾大社はお酒の神様、なのでこの村は飲んべぇが多いのだそうな、、、、、

その京都の松尾大社は戦後松尾大社になったのでその前は松尾神社だった。

実際、京都にはすごい数の松尾神社がある。

拡大してみるともっとすごい数だ。

そればかりか名古屋でも、山際に松尾神社が点在する。

さらには山梨県甲府周辺でも、、、

いったいどれほどの酒飲み集落があるのだろうか?

 

ただ、今回、新たな発見があった。

本殿の看板?には、、、、消えていて読めないのだがなんと、、、松芋神社と書いてるではないか!!!

松芋神社と書いてまつおじんじゃと読むお社がある。

旧松代町、「渋海川沿いの松芋山頂にある県の文化財、明応6年(1497年)に建立され、県内最古の茅葺き屋根木造建築物として知られています。」と紹介されている。

特にこの水系には松尾神社が多い。しかも環状集落が多い。

有名なかやぶき民家集落、荻ノ島も松尾神社を祀っている。

うちの集落も環状集落と言えなくもない。

山地のポツンとした平は中央が窪んだ地形が多いのかも?

すると環状に家が建てられる?

荻ノ島の歴史を見ると周辺との争いは食物の奪い合い。

田を真ん中の配して家々でそれを守る防御。

食糧が命がけなほど貴重な時代の歴史、、、芋を松に結んで崇めたのかも?

 

各集落はそれぞれの神社を祀っている。

白山様、天神様、石動様、、、根小屋の桜又では股倉神社だ。

またぐらにご利益があるのだろうか?

それにしても、松尾神社が松芋神社だったことはショックだ。

また一から調べ直したい。

まさかこいつが祀られてるわけではないだろうけど。

 

この記事はおおむね想像ですw、、、

 

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真冬の牡丹

2023年01月05日 | むかしばなし

真冬ですが我が家はなんと牡丹が満開だ。

島根県から送られてきた正月咲きの牡丹。

真空パックの牡丹切り花を見た時も驚いたが正月咲きには度肝を抜かれた。

鉢植えのまま冷蔵処理した抑制栽培だ。

 

日本一の牡丹の産地、島根県大根島。

実は昔からかかわりのある間柄だ。

昭和45年、芍薬やスズラン、ナルコなど宿根草のネマトーダ対策として日本で2番目となる温湯消毒施設が当産地にできた。

そして、今も稼働している。

日本最初の施設は牡丹の産地である大根島だ。

昭和30年代から40年代、ボタンの継ぎ台である日本シャクヤク(和芍薬)の株を生産して納めていた歴史がある。

台木となる和芍は実生から育てて根がスーッと真っすぐに伸びたものに限られていた。

実生なのでいろんな品種ができてしまう。その中からの選抜品種も数多く世に出たものだ。

芍薬と牡丹は同じキンポウゲ科、花はよく似ている。英語ではどちらもピオニーだ。

芍薬は草本の宿根草だが牡丹は木だ。

なのに牡丹の苗は芍薬に接ぎ木するのだそうだ。

なので天敵は同じネマトーダだ。

そんな関係で温湯消毒施設ができたのだ、きっと視察に行ったのだろうな。

新しく出来た島根の親戚、新潟自慢のル・レクチェをお歳暮に送ったら牡丹が送られてきた。

きっと高かったろうなぁ、、、

 

昨日までの湿り気たっぷりのボタン雪と変わって今日からは粉雪。

作業場の屋根に続いたので早速のけました。

家の屋根も2回目の雪下ろし。

今日からさつま芋のネット販売開始したら思った数倍の注文量。

さすがに年越したので焼くと蜜がボタンボタンと垂れるほど。これは紅はるかです。

Qちゃん、今日は抜糸でした。

ボタンのようなマロ眉が特徴の黒柴、毛が生えてきて眉復活。

元気出てきました。

 

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大西一三さんを偲んで

2018年08月30日 | むかしばなし

23度の朝、ようやく夜温が下がって眠れる夜になった。

大阪から帰った夜は熱帯夜、疲れが取れなかった。

大阪での2日間も強烈な暑さで喪服はたっぷり汗を吸った。

訃報を聞いて 「 俺に行かせてくれ」 と出しゃばって葬儀に参列させてもらった。

出迎えてくれた会長さんに腕を引かれて最前列の席に座らせてもらった。

棺の中には全然やつれてもいない、元気な時のままの大西さんが眠っていた。

昔話を、、、、、

30歳を過ぎてすぐに共選販売の役員を仰せつかって市場に出張することが多くなった。

そのころの大阪市場へは長岡で乗り換えて北陸線回りの寝台特急で行くことが常だった。(今は飛行機)

ガタゴトと眠れないまま早朝に大阪駅に着くと、歩いて大阪第一花きへ向かう。

ガード下の狭い市場では道路からすぐの部屋がセリ場で、縦に長い市場では奥から次々に荷が流れてきてすべてがセリで売られていた。

セリ台で大きな声を出していたのは、ちょっと怖そうな坂口さんだったと思う。

我々を出迎えてくれたのが大西一三専務(当時)さん。

「 共選なんやからサンプル1個で売られるように揃えてもらわないかん 」 と言われるような時代だった。

来訪市場さんとゴルフをするようになったのもそのころで、最初におつきあいさせてもらったのも大西さんと梅田生花のずっと前に亡くなられた藤原さんだった。

19歳の冬に大阪で働いた経験があったので関西人には慣れていたものの、1日中ずっと楽しげにしゃべり続けるお二方を見て 「 こういう大人にならなきゃいけないな 」 と思ったものである。

その後も来ていただくたびにゴルフ。こちらから六甲山へゴルフに行ったこともあった。

49歳で組合長を仰せつかった。

セリ前挨拶では 「 堀之内は古い産地ですが、お届けする花は新鮮です 」 と弁じた。

大西社長(当時)から 「 森山さん、話うもうなったやないけ 」 と褒められたのを覚えている。

いつだったか、東京大田市場でばったり会った際も 「 や―森山さん久しぶりやー」 とハグされた。

60周年にお越しいただいた際には代表市場挨拶をしていただいた。

「 行政が応援してくれる産地は強い 」 産地の立ち位置の大切さを話してくれた。

記念コンペでは久しぶりにご一緒させてもらった。

3年前、秋に新潟で行われるプライベートな業界懇談会とゴルフコンペで再開。

「 や―森山さん久しぶりやー」 とまたハグされた。

コンペでは優勝。どこであっても陽気でにこやか。笑顔の思い出しかない方でした。

大西さんの父親は花の行商をされていたとか、、、また一人花業界のファイターがお亡くなりになりました。

ご冥福をお祈りいたします。大西さんありがとう。

葬儀にはアクセスの良い天王寺に宿を取った。

昔、、、、天王寺の駅に降りて東洋生花市場へ行った。

出迎えてくれたのは久常さん。

「 今度新しい市場が出来るんや 」 と連れて行ってくれたのが泉大津に建設中の西日本花きだった。

「 ここは埋め立て地でなんも無いけど、抜群にアクセスの良いとこや 」 と話してくれた。

その後久常さんとは長い長い長い長い付き合いになった。

退職した今でも時々電話をくれる。

今年70周年では久々の再開。元気だった。

長い長い市場の方々とのおつきあい。販売担当の肩書だった方が何人も社長さんになっておられる。

今回には北海道から九州まで多くの日に焼けた生産者の方が会場に入りきらないほど弔問に訪れ、前の席に通されて焼香の順番も親族の次に生産者、次が花屋さん、関係者。

どこまで行っても産地を大事に扱ってくれた故人の意向が偲ばれる葬儀でした。

留守中はかなりの出荷量でした。

今年の猛暑の中このカサブランカはまだ草丈取れてますが遅くまで濃い遮光だったので柔らかい。

次からは短いのが多くなります。

そんな植物の自然と必死に戦う生産者のことを少しでも先につないで分かってもらうためには生産者も市場担当者もお互いに足を運ぶことが大切。

そんなことを大西一三さんに教わったように思います。

 

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神を見た記憶

2015年12月20日 | むかしばなし

火の鳥が、、、裏山に向かって降りていく、、、、、

この上もない晴天だ、、、、

若干戸惑った5ベッド目が終わりかけて順調な生育の6ベッド目が始まった。

同じに管理しているはずなのに雪の降った日のものはなぜか色を出さずに徒長してしまって失敗作となってしまった。

光はいらないはずじゃなかっただろうか、、、、

日照が回復したとたんに見事な発色。この違いは何が決めるのか?、、、神か。

夕方、赤く染まる権現堂。

魚沼三山、、、、、魚沼の山々にも神が、、、、

ワイドショーの音だけ聞きながら作業している。

年末なので、、今年亡くなった方々の話題、、、、で、気になった人たち、、、、

水木しげるさん。ゲゲゲの鬼太郎の前進の墓場の鬼太郎から見た記憶がある。

岡本おさみさん。神とあがめる吉田拓郎の曲の多くの作詩を手掛けた、、、、

もうずいぶん前、20代のころにたしかに神を見た記憶がある。

ニューポートジャズフェスティバルin斑尾。真夏の飯山に向かった。

その日はちょうど十日町から飯山だったか長野までだったかの60キロウォーキングの日で、泣きながら歩く若者たちの脇を車で飛ばして斑尾に向かった。

たしかにあの日は神の演奏を聴いた。

腹の上にギブソンをのせてキーンと抜けるような音をいきなり響かせた。

背中にギターを回してマイクをつかんで威圧するような声で歌った。まさしく彼は神だった。

ステージ前に進み出て拝んだような記憶が残っている。そうか、B.B.キングも本当の神になったのか。

あのころはおいらの髪も、、、、

 

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ホワイトアウト

2010年02月06日 | むかしばなし

一日中、大っ吹き(おおっぷき) いわゆるホワイトアウト状態でした。
相変わらずJRは止まったきり、弱いですね。
通勤通学の人はどうするのかね?
公共交通としての責任はないんでしょうか。

奥方は塩沢まで車で行って、帰りは大和から山越えの後山経由で難なく帰ってきた。
最初から豪雪を想定した機械除雪の峠道は除雪体制も良く、交通量も少ない。
穴場ですね。

では、ホワイトアウトを堪能してください。

こういう日は降雪量はたいしたことなくて、時々陽もさすし、比較的楽なんですよ、ほんとは。

映画「ホワイトアウト」を撮影した大湯スキー場も今シーズンで閉鎖らしい。
身近なところがロケに使われたなんてことはあまり知られていないですね。

この冬借りてきた映画の中で一番面白かったのが、実は「私をスキーに連れてって」
スキーに夢中だったあの頃を思い出しますね~
あの頃のカワイコちゃん(古い言い方)はみんな髪が長くてマユが太くて、しかも肩パット。
うちの奥方も映画にあこがれてずいぶん志賀高原に通ったそうな。

知る人ぞ知るが、主役の彼女の替え玉で滑っているのは、実はここの農協職員の奥様なのですぞ。
知る人ぞ知る。
他にも「八甲田山」には、ロケ地シャトー塩沢スキー場で当時バイトをしていたうちの村のKとHも映っているのだ。
知る人ぞ知る。

ではサービスに、ホワイトアウト出演、松嶋菜々子 18歳 お宝映像を
http://www.youtube.com/watch?v=qdTWHTPCMos&feature=related

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敬愛するトムワトソンへ

2009年07月31日 | むかしばなし
藍ちゃん、優勝おめでとう。
小林裕美も4年かかった。やっぱりアメリカで勝つのは難しいんだね。

この前の全英オープン最終日。
気になっていたらしく夜中眼が覚めた。
テレビをつけるとちょうど17番の2ndを打ち終えたところで、わずかにこぼれたボールはファーストカットからわずかにラフにかかったところ。
一番ザックリがガツンかと言うミスの出やすい場面だった。

さすがにベテラン、シニアらしく、一番ミスの少ないパターを選んで寄せた。
-3.単独トップ。TVを観ていたほとんどの人は59歳のトムが達成しようとしている偉大な記録更新の応援をしていたと思う。

プレーオフは2ホール見たところでテレビを消した。
気持ちはきっとトムと同じで 「残念、かなわなかった」 と言う気持ちを 「がんばった、やるだけやれた」 と言う満足感で包み込んで納めた。

ゴルフを始めた頃、好きなスイングのゴルファーは、日本では湯原信光。
外人ではトム、ワトソンだった。
つまりフィニッシュのカチンと決まるスウィングが好きだったのだ。

憧れのトムワトソン。  実は1回会ってサインをもらっている。
2002年、カリフォルニア。 ニューポートビーチでの東芝シニアクラシック。
たまたまスポンサーパスが借りれて練習日のプロアマを見に行った。

家宝のように残るプログラムには4人のゴルファーのサインがある。

姿勢の崩れないフィニッシュ。カチッと決まるスウィングは彼の性格とまったく同じだ。

シニア入りしたばかりのトムカイト
とても陽気なおしゃべりおじさんだった。

独特なパッティングスタイルのヒューバートグリーン

そして、アメリカツアーではちょっとヒールっぽい役どころに見える青木功。

プロアマの日はサービス満点で、写真を撮ってもOK。
サインをねだってもOK。
スポンサーテントのお菓子やサンドイッチも食べ放題と、PGAツアーの懐の大きさを感じました。

子供たちがこんなに小さかった頃で、あの青木功に頭をなでられたことなどまったく覚えていないのだ。
もったいない。勝たせたかった。
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キューケンホフ公園

2009年04月26日 | むかしばなし
今日も冷たい雨、そのうえに嵐。

一億、総ブロガーのような時代。
中でも犬ブログは日本ブログ村のランキングに参加しているだけで23000あまりもある。

オランダで黒柴を飼っている人のブログにキュウケンホフ公園の模様が紹介されている。
懐かしいのでちょっと紹介。
写真は2002年にオランダに行ったときの模様。

キューケンホフ公園は3~5月だけ開園している花の公園で、ユリのパレードは特に見ごたえがある。
育種家の新品種展示や種苗会社のコンテストが開かれて、ここで大賞を受賞することは名誉以上の得が得られるのである。
前回行ったのははリアルト、シイラ、ジャスティナなどが紹介された頃だった。

展示温室は花でいっぱいだが、周りはうっそうとした森だ。
ヨーロッパは森の文化。
森の美しさは格別だ。
5月には街路樹も森もマロニエやライラックの花が満開になる。

もう8年も行っていないが、又行きたい、とはいえ2012年のフロリアードにはぜひ行きたいと思っているのでそれまで我慢と言うことかな。

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アメリカのゴルフ場 2

2009年02月28日 | むかしばなし
ゴルフはアメリカではとてもカジュアルな存在だ。
ジーンズにTシャツスタイルは珍しくない。
1930年ごろの大恐慌以前は日本のバブル期と同じように高級な紳士のお遊びだったそうだが、その後はプロスポーツとしての発展とともに、普通のスポーツ、誰でもやる遊びとして発展した。
午後になると近くの高校のゴルフ部がそろいのシャツで大挙してやって来る。

写真のゴルフ場は川沿いだが、裏はすぐ牧場だ。
普通に共存している。

リーズナブルなコースのクラブハウスはいたって質素だが、プロショップはどこもしっかりしている。
コースに行って一人だと告げると、たいていすぐにどこかの組に入れてくれる。
4人で来ている組は意外と少ない。平日は一人や二人で来る人が一緒に回ることすごく多い。
スタート時に料金を払って終わったら勝手に帰るのがこちらのシステム。
途中でやめて仕事に行く人も多い。
昼食は売店でサンドイッチなどを買って食いながらプレイすることがほとんど。
昼食時間は設定されていない。

言葉は?  作法として話す言葉さえ覚えていけば、相手が何を言っているかは解らないにしても、ゴルフ用語はほとんど英語なのでなんとなく会話ができてしまう。
アメリカは移民の国だ。英語の話せない人なんて山ほどいるので寛容なのだ。

ドライビングレンジ (打ちっぱなし) にもよく行った。
日本の巨大な鳥かごのような練習場ではなく、ネットのないところや、両側から打つ500ヤードもある広いところもある。
芝の上から打たせてくれるところも魅力だ。


通ったコースにピンのプロショップがあったので、思い切ってアイアンセットを買った。
どこからともなく山ほど在庫を持ってきて丁寧に手の長さを測ってフィッティングしてくれた。
クラブプロの制度もしっかりしていているらしく、このコースはではレッスンも毎日やっていろ。
クラブ選びはプロっぽい人がやたら丁寧にアドバイスしてくれたが、何を言ってるかはさっぱり解らなかった。
当時のレートは125円くらいだったと思うが約1000ドルだった。
アメリカで買おうと決めてきていたのだが、日本で買う約半値で歴史に残る名器PINアイ2を手に入れたのである。

早速買ったばかりのアイアンでコースに出たところ、なんといきなり49で回れたのである。
それまでは大体ハーフ55~65だったものが。
ゴルフを始めて約8ヶ月くらいのことだ。

その年はそこまで。
次の冬は、ゴルフ武者修行にまたアメリカへ行くのである。
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アメリカのゴルフ場

2009年02月23日 | むかしばなし
遼君、残念ながら予選落ちでしたね。
でも、アメリカデビューがリビエラなので大体予想通りでした。
リビエラCCってメジャーもやった難コースだ。
ここの試合、前の呼び名ははロスアンぜルスオープン、日産オープン。
日本のツアーがシーズン前なので日本選手も沢山スポンサー推薦で毎年参加する。
金子が3位になったり、伊沢がプレイオフまで残ったりとおなじみの試合だ。
しかしラフはポロに使う芝、つまり馬が走り回っても大丈夫なほど茎の強い芝を使用している。
グリーンはポアナが混ざっているそうなのでややこしいわけだ。
ポアナってのは「すずめのかたびら」のことで、つまり芝が株なわけだ。
ちなみに、十日町CC信濃8番はポアナが繁殖してベント芝と半混ぜ。
しかもくだりに順芽と来ている。とてもややこしいのだ。

こんなグリーンは経験と開き直りが要求される。
遼君も苦しんだろうな。(父と比較してはいけないが)

サンタモニカ海岸からすぐの高級住宅地にあるこのコース、バブル期には日本の大物政治家が陰のオーナーとうわさされた。
たしか金とか○とかが付く名前だったと思うが、、、
とにかく大変な高級メンバーコースだ。

最後にアメリカでゴルフをしたのはもう7年も前だ。
ペリカンヒル、パブリックだがとてもリッチなコースだ。
アメリカに赴任したサラリーマンが日本に帰るときに「最後はペリカンでプレイして帰ろう」と言うくらいの憧れのコースらしい。
アメリカでは高級になればなるほど自然の地形を生かした、いわば群馬のコースみたいなトリッキーなコースが多い。
奥方が打っているP3は、ティーの前からずっとバンカーで左はガケとブッシュだ。

アメリカの住宅開発はコミュニティー単位で行われる。
大きな用地の中央に学校や銀行などを配置し周辺に住宅を建ててコミュニティー(集落みたいなもの)として開発し分譲する。
公園やゴルフ場も作り、コース沿いの家は高いそうだ。
海沿いでコース沿いの高級住宅地はミリオン単位だそうな。
ペリカンヒルも海辺に出てみたり住宅の中を縫ってみたりといろいろのコース取りをしている。
複雑に配置したほどコース沿いの家は沢山建てられるわけだ。

一般の平地の住宅地の中のコースは日が暮れると散歩の人も入ってくる。
老人たちは日本のお年寄りが温泉に通うような感覚で昼間ゴルフをしている。

ゴルフを始めたのは平成元年の初夏、その年の冬、アメリカに住む姉夫婦のところに遊びに行った。

義兄にクラブを貸してもらい「バック9プレイ」に連れて行ってもらった。
いわゆる早朝プレイだが、普通にスタートしたゴルファーがハーフを回り終える間、先着順で10~18番を格安でやらせてくれるのだ。

夜明けと共にスタートしたらすぐに2人が入ってきた。
こちらではサラリーマンが軽くプレイしてから出勤する。
見知らぬ人同士が合流するなんてことは普通のことなのだ。

次の日からは、一人で外人 ( こちらが外人 ) に混ざってゴルフ特訓をすることになるのだ。  つづく。


来週、遼くんはアリゾナでの試合。
砂漠の中に緑のじゅうたんを敷いたようなコースになるが、こちらは傾斜のトリックがあるはず。
はたして活躍やいかに?
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naniwaFEX 2008 EPISODE

2008年07月06日 | むかしばなし
大阪、地下鉄鶴見緑地線、鶴見緑地駅。
この駅を利用するのは実に18年ぶりである。



1982年のオランダ花博「フロリアード」が日本に花業界に与えた影響は大きかったと思う。
「日本でもこんな花博を」との機運が盛り上がったことは想像に難くない。

1990年、大阪「国際、花と緑の博覧会」

当時はまだ水田の残る新興住宅地「鶴見」に大規模な緑地公園を造成し、博覧会場は作られた。
地下鉄が会場まで掘られ、当時は鶴見緑地駅が終点だった。

開催期間中の6月20日から1月の間「堀の内のゆり」が会場の展示に使われた。
装飾を担当したのは「サトウ花店」さん
naniwaFEX会場でもお会いしましたが、18年の歳月は長く、昔話はできませんでした。

わが産地からもバスを仕立てて見学に行ったものでした。

会場の奥のほうにオーガスタの12番をコピーしたパー3が1ホールだけあって「ホールイン1チャレンジ」をしていた。
ゴルフを始めたばかりのころだったので挑戦したかったのだが、前もって申し込んで抽選に当たらないとできない。
歯がゆい思いで見ていたものでした。

「竜神雷神」と言う立って乗るコースターがあって、遊園地としても人気でした。


そのころ堀の内では、花博にちなんで青年花卉研究会主催による「フラワーフェスティバル」が開催された。
かつて無い大掛かりな装飾はオランダのフロリアードの影響を受けたもので当時大きな話題になった。

バブル景気絶頂期の花博。
花博景気もあいまって花消費は活気に満ちていた時期でした。
             
9月になり、会場で品評会がありました。
「何かしらの賞に入れば立派なものさ」と言われ「紅の舞」を出品した。

種球に使った大球を使用したとっても立派なものを出品した。

「銀賞」
通知を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。

夜8時代の汽車で長岡へ。 北陸回りの夜行に乗りました。
寝台は満席で、席も無く、通路に新聞紙を敷いて座ったまま眠れずに大阪へ。
早朝の鶴見緑地駅に降りた。

開門前の行列に並び「咲くや此の花館へ」
他にも堀之内からもたくさんの出品があり、もちろん「金賞」受賞もありました。

その日は他のパビリオンをほとんど観ずに自分の「銀賞、紅の舞」の周りを行ったり来たりして過したように記憶している。

午後になって新幹線に乗った。東京回り。

夜遅くに家に着いた。
古い日記を見ると「26時間の旅」と題した紀行文があった。

記念の銀メダルをもらったのだが見当たらない。
メダルよりも一人で旅した記憶のほうが光っているのです。
http://blog.goo.ne.jp/horinouchi-lily/e/08fa5a9a851bbee31d99a4ff31130ad7

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