お寺さんぽ Ver.03

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半兵衛、官兵衛孝高と出会う「竹中半兵衛重治」4

2006年08月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秀吉の出世を影から大いに助けたといわれる異色の戦国武将、軍師「竹中半兵衛重治」についてです。

秀吉配下としてその才を発揮し、活躍する竹中重治。
北陸への出陣で命令違反をし、織田信長の怒りを買って謹慎処分となった秀吉ですが、重治はすぐさま復帰できるだろうと計算していたのでした。(たぶん)


軍師 竹中半兵衛

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※顔UPの本を見つけました。こんな感じの方だったようです。


さて、そんな重治の読み通り、本願寺を支援していた中国の雄「毛利輝元」征伐を考えた信長は秀吉の謹慎を解き、彼に中国地方攻略の総大将として出陣を命じます。
ここで秀吉・重治の両名はもう一人の才覚者「黒田官兵衛孝高(くろだ・かんべえ・よしたか)」と出会うのです。

筑前藩(福岡藩)の祖、黒田孝高は当時は播磨の小豪族「小寺政職(こでらまさもと)」の家老でして、進撃を続ける織田家に臣従を申し出るべく来訪していたのでした。

「そちらには筑前(※秀吉のこと。筑前守という官職による)をやるから、万事相談してほしい」

信長と面会し、巧みな話術と詳細な分析で見事に気に入られた孝高は、おそらくそんなことを言われて、秀吉を訪ねたであろうと思われます。
この黒田孝高と重治は同じ知恵者同士でウマがあったのか、お互いの悩みまで相談できるような間柄だったようです。
…こんな話が残っています。

あるとき、孝高は秀吉からの感状(※手柄に対する感謝状ですね。実質コレあげる、みたいなことも書いてあったりします)を取り出し、重治に見せて愚痴をこぼしました。
要は「手柄を立てたときの褒美がこんなにたまっているのに、いつになっても貰えない」
という不満なんですね。
黙って聞いていた重治は「ちょっと拝見」とばかりに受け取ると、突然それを破り、火にくべてしまうのです。

感状ってのは、単なる「ありがとう」なものでなく、秀吉が出世した際には抜群に効果を発揮する出世手形のようなものなんです。
重治の行動に孝高が飛び上がって驚いたのは、当然のことでした。
…が、慌てる彼に対して重治は一言。

これがあればこそ不満がでる

同じ知恵者である孝高は重治の意を汲み、その後は愚痴をこぼさないようになったそうです。

恨みってのは後世まで脈々と残るモノですが、感謝ってのは案外時と共に薄れてしまうのです。
後々になって、”あの時にこんだけ助けてやった”と騒がれるのは、権力者にとって非常に目障りなものでしょう。
また、それは下手をすると逆に家を潰す要因にもなりえるのです。
重治はそれを指摘しているんですね。

そんな、うつろいやすい人の感情について指摘しているんですが、こんなところにもどこか全てを達観したような、やや神経質ともとれる彼の性格が出ています。
竹中重治としての功績・手柄がほとんど残っていないのも、孝高に諭したように、自ら故意に消去したと考えられるのです。


[関連記事]
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)(3)


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