「南後志の環境を考える会」なるものを立ち上げて、周辺地域の環境問題を改めて考えようとしているのですが、思えばこのような会を初めて立ち上げたのは、はるか昔、50年ほど前の高校生の時であった。
昭和45年、千葉県立千葉高校に入学して、山岳部に入りました。そして、高校に入ったというよりも山岳部に入ったという三年間を過ごしたのですが、 山岳部は文化系部活とも位置づけられていて、文化祭にも出展教室がひとつ割り当てられていたのです。 時は、学園紛争が盛んになる時期でした。千葉成田空港開発に地元農民の土地が強制収用されることに激しい闘争が勃発し、それは三里塚闘争と呼ばれました。 私の記憶ではこれを大きなひとつの契機として、佐藤栄作首相時代の日米安全保障条約への反対闘争、大学の機構改革を求めた学園紛争へと若者達の革命ごっこが広がってゆきました。そんな激動の時代でした。
高校なのに、闘争参加で学校にこれず、留年した4年目三年生が山岳部にはいました。そして、私が入学した年の山岳部の文化祭展示は、三里塚闘争がテーマだったのです。 テント張って闘争に参加していた先輩がいたのです。私はその活動には参加しませんでしたが・・、公害訴訟が起こり、周辺環境も光化学スモッグ問題が直接ふりかかっているような社会状況で、学生運動とは別に、一方で盛り上がり始めていた自然保護運動にはのめり込みました。
ちょうど、尾瀬ヶ原に大規模林道ができるという計画がありその反対運動が起こっていました。 私は、「千葉県高校生自然保護の会」というのを立ち上げて、房総半島の野生猿の調査に同行したり、東京湾の汚染問題の勉強会などをはじめました。そして、尾瀬問題では、地元群馬の高校生や東京の高校生ともつながり、「関東高校生自然保護の会連合」なるものも仲間と立ち上げました。 大人だけでなく、学生たちにも広がり、尾瀬の反対運動は大きなうねりとなりました。
そのころ、公害問題も種々起こり大きな社会問題化しており、厚生省から公害問題対策や自然公園行政を切り離した環境庁が設置されました。初代長官の大石武一がリーダーシップを発揮して、尾瀬の道路開発は中止となりました。
あれから50年・・・、「南後志の環境を考える会」なるものを立ち上げています。 これは、もう、自分のDNAに内在している性(さが)だなあ・・・。