1964年
次回のALWAYS・夕陽丘3丁目の時代は1964年、昭和39年だそうだ。当時私は10歳でしたから、当時のできごとを記憶に残している人はもう50歳を越えています。古い話になったもんだ。
この年の最大のできごとは東京オリンピック。陸上100mのヘイズ、マラソンの円谷やアベベ、水泳のショランダー、柔道のへ―シング・・昭和キッズにとっては忘れられない英雄達です。6つ年下の弟は覚えていないかもしれないな。時代は高度成長時代へと突っ走っていた。東海道新幹線の開業を焼け野原の終戦からわずか19年で敷設した復興は驚異的なことだった。すべての日本人が貧乏で「明日」を夢見て生きていた時代だった。
科学技術の進歩を生活の中でリアルに体験して来たことは、今考えると幸せなことだった。
テレビのなかった家だったので、白黒のTVを見にばあちゃんちへ15分歩いて通い、大ファンだった横綱朝潮、プロレスの力道山を観戦したものだったが、この年の突然にカラーテレビ(天然カラーと称した)がやって来た。ひょっこりひょうたん島を見た時の衝撃は忘れられない。そして、氷でない電気冷蔵庫の登場、巨大なガス湯沸かし器、電話、自動洗濯機、電気掃除機(今は電気つけないよね)と文明の利器が我が家にやって来た。自家用車に至っては大学生になってからだった。親父は50を越えて免許を取りに行ったのだなあ。初めての車は中古のホンダのN360といったかなあ。
その後も、ポケベルから携帯電話、就職した貿易会社では手打ちのタイプライターやテレックスもしっていますし、それがFAXやワープロの登場で仕事の効率が一気に上昇しました。画面1行のワープロから徐々に画面が大きくなり編集ができるようになって来ました。パソコンが個人所有の時代になったのはここわずか10年の話だもんな。今やipadやスマホ・・そろそろついてゆけなくなりつつある。
1964年、日本の高度成長時代のまさしく幕開けの年だった。 あの時代の昭和は良かった。確かに、人間臭いコミュニティが普通にたくさん存在し、その中に囲まれていた。人と人がもっと近くにいて生身で付き合っていた。
しかし、あの時代に戻ることはできない。単なるノスタルジアでしかない。
でもね、思うんです。あの泥臭いコミュニティ性は「大切なモノ」だったと。
あの時代とは異なるけれど、やはり人と人が関わりあう新しいコミュニティはたくさん必要だと。 Mixi、Facebookやツィッターなどのソーシャルネットワーク、仮想空間ゲームが流行るのは人々が人とのつながりを求めている結果としての新たなコミュニティなのかもしれない。また、TVを埋め尽くしているバラエティ番組も見ている者に疑似的コミュニティに参加している気にさせているのかもしれないな。
であっても、生身の人と人が出会い、触れ合える場づくりは、今や意識的にコーディネイトして創り出す時代にあるとつくづく思います。
これは、ちょっと上のお兄ちゃん、お姉ちゃんの団塊の世代にはできないだろうな・・・、と思う。 革命ごっこの大学紛争で社会を混乱させたため、国の管理教育を結果推し進めたことになり、その後は都市集中をしながら、一転して、日本社会の高度成長のけん引役で日本をここまで発展させてきた、功罪混濁世代だからなあ・・(失礼)
あの時代のコミュニティ、世代交流の素敵さを知っている弟分の50代として、今できるコミュニティづくりは続けてゆきたい。
1964年をノスタルジックな年寄りの想いでだけにしてはいけない。
次回のALWAYS・夕陽丘3丁目の時代は1964年、昭和39年だそうだ。当時私は10歳でしたから、当時のできごとを記憶に残している人はもう50歳を越えています。古い話になったもんだ。
この年の最大のできごとは東京オリンピック。陸上100mのヘイズ、マラソンの円谷やアベベ、水泳のショランダー、柔道のへ―シング・・昭和キッズにとっては忘れられない英雄達です。6つ年下の弟は覚えていないかもしれないな。時代は高度成長時代へと突っ走っていた。東海道新幹線の開業を焼け野原の終戦からわずか19年で敷設した復興は驚異的なことだった。すべての日本人が貧乏で「明日」を夢見て生きていた時代だった。
科学技術の進歩を生活の中でリアルに体験して来たことは、今考えると幸せなことだった。
テレビのなかった家だったので、白黒のTVを見にばあちゃんちへ15分歩いて通い、大ファンだった横綱朝潮、プロレスの力道山を観戦したものだったが、この年の突然にカラーテレビ(天然カラーと称した)がやって来た。ひょっこりひょうたん島を見た時の衝撃は忘れられない。そして、氷でない電気冷蔵庫の登場、巨大なガス湯沸かし器、電話、自動洗濯機、電気掃除機(今は電気つけないよね)と文明の利器が我が家にやって来た。自家用車に至っては大学生になってからだった。親父は50を越えて免許を取りに行ったのだなあ。初めての車は中古のホンダのN360といったかなあ。
その後も、ポケベルから携帯電話、就職した貿易会社では手打ちのタイプライターやテレックスもしっていますし、それがFAXやワープロの登場で仕事の効率が一気に上昇しました。画面1行のワープロから徐々に画面が大きくなり編集ができるようになって来ました。パソコンが個人所有の時代になったのはここわずか10年の話だもんな。今やipadやスマホ・・そろそろついてゆけなくなりつつある。
1964年、日本の高度成長時代のまさしく幕開けの年だった。 あの時代の昭和は良かった。確かに、人間臭いコミュニティが普通にたくさん存在し、その中に囲まれていた。人と人がもっと近くにいて生身で付き合っていた。
しかし、あの時代に戻ることはできない。単なるノスタルジアでしかない。
でもね、思うんです。あの泥臭いコミュニティ性は「大切なモノ」だったと。
あの時代とは異なるけれど、やはり人と人が関わりあう新しいコミュニティはたくさん必要だと。 Mixi、Facebookやツィッターなどのソーシャルネットワーク、仮想空間ゲームが流行るのは人々が人とのつながりを求めている結果としての新たなコミュニティなのかもしれない。また、TVを埋め尽くしているバラエティ番組も見ている者に疑似的コミュニティに参加している気にさせているのかもしれないな。
であっても、生身の人と人が出会い、触れ合える場づくりは、今や意識的にコーディネイトして創り出す時代にあるとつくづく思います。
これは、ちょっと上のお兄ちゃん、お姉ちゃんの団塊の世代にはできないだろうな・・・、と思う。 革命ごっこの大学紛争で社会を混乱させたため、国の管理教育を結果推し進めたことになり、その後は都市集中をしながら、一転して、日本社会の高度成長のけん引役で日本をここまで発展させてきた、功罪混濁世代だからなあ・・(失礼)
あの時代のコミュニティ、世代交流の素敵さを知っている弟分の50代として、今できるコミュニティづくりは続けてゆきたい。
1964年をノスタルジックな年寄りの想いでだけにしてはいけない。