先週末の3連休、ネットで話題になったのは元SMAPの稲垣さん、草彅さん、香取さんの3人が出演したAbemaTV「72時間ホンネテレビ」だっただろう。
AbemaTV:稲垣・草彅・香取3人でインターネットはじめます 72時間『ホンネテレビ』
AbemaTV:見逃し配信(「72時間ホンネテレビ」
「ネット上で話題になった」と書いたのには、理由がある。
AbemaTVと関係のある朝日新聞系のHuffpostでは、盛んに情報がアップされていたが、いわゆる紙面重視となる朝日新聞をはじめとする全国紙では、ほとんど話題にも上らず、一部スポーツ紙が報じた程度だったからだ。
今でも、新聞のような紙媒体とインターネット媒体の関係はあまり良好ではないのか?という、印象を生活者に与えてしまったのでは?という気がするほどの、扱い方をしていたからだ。
72時間という長丁場であったため、一部しか視聴することができなかったが、PCの画面から感じられたコトは、テレビ放送の黎明期のような「製作者側のワクワク感」だった。
私が子供の頃見ていたテレビ番組には、今のような放送技術は無かったが、製作者の意気込みや自由さのようなものがあったように思う。
その頃の「自由さ」や「番組をつくる」つくり手の思いなどが、ダイレクトに伝わってきたような気がしたのだ。
フィナーレの72曲ライブなどでは、3人が音程を外したり声がかすれたりという場面があったが、それらが逆に臨場感を生んでいたようにも感じた。
それが50年以上前には無かったインターネットという、新しい情報ネットワークの中でも双方向性の強いSNSというツールを活用したことで、視聴者側があたかも番組に参加しているような感覚を生み出すことにも成功したのではないだろうか?
そう考えると、今の地上波で見るテレビ番組の多くは、何かに恐れているのでは?という、印象を持ってしまった。
「恐れている何か?」を厳密に言えるわけではないが、上述したような歌の場面で音程を外すようなコトは、歌番組であればあってはいけないコトだろう。
言葉遣いや表現方法一つにしても、細心の注意を払っても「炎上」をしてしまう可能性があり、無難な表現や言葉遣いになっているのかもしれない。
先日問題になった、フジテレビのホモセクシャルを思い起こされるネーミングを使ったコントなどは、その一例かもしれない。
あの場面は確かに、「今という時代感が抜けていた」とは思うのだが、もっと違った表現であれば違ったかもしれない。
ただ、番組を製作する側が「視聴率」という呪縛と「炎上」を必要以上に恐れ、萎縮し、本来のクリエイティブということを忘れてしまっているのでは?という気がしたのだ。
今回の「72時間ホンネテレビ」で「番組をつくる」という製作者側の楽しさ・自由さは十二分に伝わったのは、「インターネット」という限られた視聴者を対象にしている、という安心感があったからだろうか?個人的には、違うと感じている。
出演した3人が自由に羽ばたいていくスタート(それはとりもなおさず、彼らのサイト「新しい地図」のコンセプトとも重なる)を一緒になって創るという、喜びや楽しさが製作者側にもあったのではないだろうか?
もちろん、優秀なスタッフが終結したであろうことは、想像することはできる。
それがSNSというツールによって、視聴者が後押しをした・・・という印象を持っている。
番組の最後にSNSでの数字が報告されたが、単にこの数字だけを見てしまうと、数字を生み出した理由や背景を見失ってしまう。
今回のSNSツールとして取り上げられなかった、LINEなどで拡散した情報もあることも考えれば、番組本来の魅力をきちんと分析する必要がある、と理解できると思う。