日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

時代とともに変化する仕事

2012-11-13 12:08:25 | マーケティング
先月から、マーケティングについて「復習中」だ。
自宅にある、ドラッカーやコトラー、レビットなどの著書はもちろん、日本におけるマーケティング論の第一人者とも言われる、慶応大学商学部名誉教授の村田昭治先生の本なども引っ張り出して読んでいる最中だ。

その中で「マーケティングの目的」を改めて考えている。
ドラッカーはその著書の中で「マーケティングの目的は、販売をなくすコト」だと書いている。
日本では一時期「マーケティングの目的は、営業をなくすコト」と、訳された(?)時代がある為か、営業職の方達の中には「マーケティング不要」という方もいらっしゃる様だ。
確かに、ドラッカーがこの言葉を著書に書いてから半世紀以上が過ぎている。
その間に、販売や営業という仕事が無くなったのか?と言えば、今でも「販売」はあるし、「営業」という仕事は、企業にとって収益を上げるために、必要な企業活動だ。

では、ドラッカーの言った「マーケティングの目的は、販売をなくすコト」とは、どんな意味なのだろう?と、考えてみると「販売」や「営業」という仕事そのものが、大きく変化をしている、というコトに気がついたのだ。
高度成長期から長い間「商品・製品」という「物質を売る」コトが行われてきたのだと思う。
その頃は「製品や商品の性能が良い」とか「価格が安い」という点があれば、「マーケティングの4つのP]とは関係無く、売れたはずだ。

しかし、物が豊富にある時代がやってくると、似たような製品や商品が巷に溢れる様になった。
そこで重要視されたのが「差別化」というコトになるのだが、つくる側の自己満足的な変化程度では、物は売れない。
そして、生活者に一番近い「売り場=小売」主導で生まれてきたのが、「PB商品」というコトになると思う。
PB商品となると、川下が川上にモノを言って商品やサービスが生活者に提供され、今までのような「販売や営業」の発想では太刀打ちできなくなる。

言い換えれば、高度成長期のような「販売や営業」では、売れない時代になっている、と言うコトだと思う。
であれば、今の販売や営業の仕事とは?と考えると、「マーケティングの4P」で言うのであれば「プロモーション」というコトなのではないだろうか?
「プロモーション=広告宣伝」という、役割を営業や販売を担当する人が持っている、と考えると、ドラッカーの言う「マーケティングは販売をなくすコト」というになるのでは?

違う言い方をすれば、かつてのような、接待などを通じて懇意な関係をつくり「そこを何とか…」と頭を下げる営業や、製品や商品の性能が良いから売れる、と言うメーカー側の思い込みの販売をなくすコトが「マーケティング」であり、生活者に情報を伝える一つのあり方としての「販売」や「営業」は、今でも十分に必要な企業活動だと言えるのでは?

その様なコトを考えながら、村田先生の最終講義録となった「マーケティングゼミナール」を読み返していたら、レビットから教えて貰ったコトとして「営業とは何か?商品が手に入り、消費される場所で使われたとき、その商品が光り輝くこと、それで営業の完成です」というコトを述べられている。
営業は「(商品を)納品をする道筋を付けるコト」では無いんですね。
納品した商品が、生活者の手に届き、生活者が喜ぶ姿を想像するコトが、営業というコトだとすると、時代が仕事の目的を変化させたのではなく、本来在るべき姿に戻しただけなのかも知れない。


ZOZOTOWNの送料無料化よりも

2012-11-12 18:48:38 | ビジネス
ZOZOTOWNの送料が、購入金額に関係無く無料となった。
そして、同業者さんたちは「送料無料」に対して懸念を示している、と言う。
確かに、通販で商品を購入すると、ある一定額以上購入しないと、送料が無料にはならない。
もちろん、キャンペーンとして、送料無料という時はあるがカタログ通販の頃から、基本的には変わっていない。

ZOZOTOWNの送料無料化で、他社が懸念するのは「必要な物を最低限購入」という利用者が増える、と言うコトなのかな?と、思ってみたりしている。
その「必要最低限購入」によって送料負担が増えるだけでは無く、送料無料金額設定による「今は必要無いけど・・・買っておいても良いかな?」と言う「ついで買い」が減ってしまう、と言う懸念があるのかも知れない。

ただ利用する側として、そんなコトよりも忘れていることはありませんか?と言うコトがある。
それはZOZOTOWNのような「ブランド扱い中心」の通販に見られる傾向なのだが、購入対象者の設定が狭い、と言う気がしているのだ。
確かに、ファッションなどに対して興味関心が高いのは、10代~20代、30代前半だと思う。
しかし、この世代よりもファッションに対して興味関心が高い世代がある。
それは今の50代前後~60代だ。
60代の人達は、10代の頃「アイビーファッション」に目覚め、大学生の頃は「フラワーチルドレン」と呼ばれた世代。
その下の世代は、20代の頃「DC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランド」で街を闊歩下世代でもあり、バブル経済の最大の恩恵を預かり海外旅行で海外の有名ブランド品を買い漁った(というと、言葉が悪いのだが)世代でもある。

そんな人達の多くが、子育てが終わり経済的にもゆとりを持ち始めているにも関わらず、その世代向けのファッションの提案がほとんど無い、と言うのが現状ではないだろうか?
と同時に、女性の中には自分が若かった頃のままのファッションでいると言う、やや残念な傾向の方もいらっしゃるのも事実なのだ。
最近女性週刊誌で取り上げられていた「変われない女たち」と、言われる女性たちだ。
世間で「美魔女」などと、もてはやされる女性たちを見ながら「でも、どこかイタイよね。無理して若作りしてるって感じ」と、冷静に見ている若い人たちの存在を気にしている、現実的な女性達も多いと思う。

ファッションを楽しむのは、若い世代の特権では無いはずだ。
むしろ、素材など十二分に知っている世代だからこそ、通り一遍のネット通販の見せ方では、満足できないと言う人のほうが多いだろう。
そういう人に向け、何故積極的にならないのだろう?
ZOZOTOWNの送料無料で戦々恐々するのであれば、ZOZOTOWNを対象としない層を考え、アプローチをすべきだと思うのだが・・・。

日本が世界に発信すべきコトとは?

2012-11-11 07:44:59 | ビジネス
昨夜のYahooのトピックスに掲載されていた写真は、「クープ・ジョルジュ・バティスト(CGB)サーヴィス世界コンクール東京大会」で優勝を果たした、宮崎辰さんの写真だった。
この優勝で、宮崎さんは「世界一の給仕」という称号を得たコトになる。
「給仕」というと、日本では食事を運ぶ人くらいにしか思っていない人が多いと思う。
実は、私もその一人だった。
どうやら海外、特にフランスなどでは「食事を楽しませる演出家」として、その地位も高いようだ。
そんな日本では馴染みの無い分野での、優勝というのはとても大変な苦労があったのではないだろうか?
何より、周囲の理解を得るコトが難しかったのでは?と想像する。

そして最近話題になっている本がある。
「新幹線 お掃除の天使たち」と言う本だ。
既に読まれた方も多いと思う。
東北新幹線を中心に、JR東日本管内の新幹線の清掃を担当している「テッセイ」の清掃スタッフ達の見事なまでのチームワークと質の高い仕事ぶりを書いた本として、注目されている。
この「お掃除の天使たち」が提供しているのは、「清掃という作業」ではない。
「質の高いホスピタリティー」を提供しているのである。

残念ながら、私は「お掃除の天使たち」の活躍ぶりを目にしたことが無い。
と言うのも、JR東日本管内の新幹線を利用していないからだ。
でも、JR東海の新幹線のお掃除スタッフも、帰省の度に利用する近鉄のお掃除スタッフも、決して負けてはいないと思う。
そのテキパキとした仕事ぶりは、おそらく支払われている給与以上の質の高さなのでは?と、思うコトがしばしばあるからだ。

食事を提供する宮崎さんの後に、お掃除の天使たちと言うのは、ギャップのある話だが共通している点がある。
それは「質の高いホスピタリティーの提供」という点だ。
世界中には星がいくつも付く高級ホテルが、沢山ある。
その中で、星は付かなくとも世界中の要人から賞賛される宿泊施設が、日本にはある。
「老舗旅館」だ。
京都の「俵屋・炭屋・柊屋」などは、その中心的存在だと思うが、地方にもその様な旅館はあるはずだ。

この「質の高いホスピタリティー」と言うコトを考えたとき、日本の多くの企業が「文化」として持っているモノでは?と言う気がしている。
製造業にしても、「痒いところに手が届く」程の気遣いを「機能」として搭載している。
余りにも「多機能過ぎて、ガラパゴス化している」という気がしないわけでも無いが、「あったら良いな!」をカタチにするコトに関しては、日本の得意なコトだと思う。
何より、日本人の働く文化の中にある「給与だけでは無く『働きがい』というプライド」を大切にする、と言うコトがお掃除の天使たちにも、今回世界一の給仕となった宮崎さんにも共通しているのでは?
それが「質の高いホスピタリティー」へと繋がっていると感じるのだ。

そしてこの「質の高いホスピタリティー」という、社会文化というか企業文化こそ、「クールジャパン」の源の一つと言う気がしている。

電子書籍、買うばかりが利用法では無い?!

2012-11-09 10:46:50 | アラカルト
8日の毎日新聞に、「神奈川県立図書館が閲覧・貸し出しを廃しする」と言う内容の記事があった。
この見出しを読んだ時、「県民サービスの低下に繋がるのでは?」と思ったのだが、どうやらそうでもなさそうだ。
と言うのも、記事をよく読むと大学などと協力をして「情報ネットワーク」を使い、わざわざ県立図書館に出向くこと無く、読みたい本、特に専門書を読むコトができる様にする、構想があるからだ。

この「情報ネットワーク」の構築、と言うアイディア、電子書籍に利用することはできないだろうか?
もちろん、無料というわけにはいかないと思うが、年間利用料を設定し、登録をすれば自由にアクセスをし、電子書籍で読むコトができる、そんなシステムだ。
この様なシステムであれば、図書館に出向くコトができない人達も、気軽に利用できるだろうし、見つけにくい専門書なども見つけやすくなるかも知れない。

何より、今年は「電子書籍元年」という勢いで、電子書籍のツールが発売されているし、発売予定がある。
タブレット型の携帯通信機器も、一般的になってきた。
もしかしたら「電子書籍」が一番便利だと感じるのは、文庫本などで発刊されている書籍では無く、重たく持ち運びが大変な専門書かもしれない。
そんな専門書を、タブレット型のツールに入れて移動時間などを使って読むコトができれば、便利だと感じる人は案外多いのでは?

「図書館で本を読む」と言うよりも、「図書館=無料学習室」とか「無料貸本屋」という感覚で、利用している人が多いと思う。
しばらく前、大阪の橋下さんが「中之島図書館の廃止」というコトを言ったが、確かに「無料学習室」とか「無料貸本屋」であれば、緊縮財政のなか運営の見直しを考えるのは仕方のないコトかも知れない。
「中之島図書館」については、橋下さんをはじめ大阪の皆さんで考えるコトだとは思うが、国会図書館の様に、書籍のデータベース化、電子閲覧を進めるコトで、「図書館」がもっと違う場所になるかも知れない。

書籍のデータベース化や電子閲覧を進めるコトができれば、上述した通り図書館で本を借りることが難しい人にとっては、朗報だろう。
これからは、その様な使い方が当たり前になっていくかも知れない。
その意味で、神奈川県立図書館の閲覧廃止、と言うのは大きな一歩と言えそうだ。

個人情報とマスコミ

2012-11-08 16:37:18 | 徒然
昨日、「尼崎連続殺害事件(?)」の首謀者と思われる女性の写真が公開された。
公開された写真を見て、今まで一部マスコミが報じてきた、間違われた女性と印象が違い過ぎて、ビックリすると同時に、いろいろなコトを考えてしまった。

それが以下のような点。
1.間違われた女性の写真の出所
2.何故容疑者の写真公開がされなくなったのか
3.間違われた女性への損害賠償

1.写真の出所は、同じ写真が使われていているので、おそらく写真提供をした人は、限られた人物だったのでは?と、想像する。
写真提供をした人に悪気が無かったのかも、気になるトコロだが、何故、個人的な写真が簡単に出てしまうのだろうか?
昨今の「個人情報保護」の意識の高まりで、学校などでは連絡網などが作れない、と言う状況になっていると聞く。
それほど、神経質な取扱となっているはずの個人情報の一つである、写真がいとも簡単に公表してしまう。
「凶悪犯罪者だから、写真くらい出しても良い」という考えなのかも知れないし、警察発表がされない為に、業を煮やした結果なのかも知れない。
なら、何故公式発表では無い写真を、容疑者の弁護人を通して確認をしなかったのだろう?
間違われた女性と、容疑者女性との接点は無いようなので、周辺取材をしていた記者さんたちは、その写真をどこで・どうやって手に入れたのか?
取材そのもののあり方が問わる、問題のように思う。

2.一部マスコミが暴走した(?)理由の一つが、容疑者の写真公開がされなかった、と言うコトにあると言われている。
言われてみれば、確かに最近容疑者の写真公開は減ってきている様に思う。
逃走犯の場合は、顔写真を公開して広く情報を集めると言うコトになっているが、ここ20年くらいの間で、犯人逮捕の時には顔を隠すようになり、その後写真公開される様になってきた。
それが、ここ2,3年写真公開もされなくなってきた。
背景にあるのは、犯人と言えども人権がある、と言うコトだろうか?
それとも、被害者家族への配慮だろうか?
いずれにしても、キチンと説明をしなくては興味本位で「犯人が見たい!」と言う欲求を高めるばかりなのでは?
なぜなら、以前公開されていた情報が公開されなくなった、と言うのはある種の不信感と興味をそそるからだ。

3.間違われた女性への賠償、と言うのは相当な金額になるのでは?
最初は一社だけの報道だったのが、次々と複数のマスコミが同じ写真を使い犯人扱いをしたのだから、当然と言えば当然だろう。
マスコミは「お詫び」だけで、済むかも知れないが、マスコミがよく使う「人権」というコトを考えれば、間違われた女性の人権侵害は相当な被害となっているはずだ。
その責任としての賠償は、考えているのだろうか?

確かに、間違われた女性の写真は、とても優しげな表情だった。
マスコミ的には、「温和で優しい女性が、実は凶悪犯だった」というストーリーのほうが、話題性もあり、面白かったのかも知れない。
でも、マスコミの使命は「公正な情報を的確に提供する」というコトだと思う。
「お詫び」で済む問題なのだろうか?
事件そのものの奇っ怪さとは別に、マスコミの取材のあり方の問題を浮き彫りにさせた事件という気がする。




そろそろ高度成長期的発想を変えてみては?

2012-11-07 13:39:51 | ビジネス
新聞を読んでいたら「物が売れず、不景気感が強まる」という趣旨の記事があった。
おそらく昨日新聞で発表された、「4年ぶりに、景気後退感」の関連記事なのだと思う。
この記事を読んで「物=物質が売れない」=不景気なのだろうか?と、一瞬考えてしまった。
確かに、シャープやパナソニックなどの家電メーカーは来年3月決算見通しについて、大幅な赤字予測を発表した。
「チャイナリスク」をまともに被ってしまった感のある、自動車メーカーの一部も景気の良い話は聞かない。
そう考えると「不景気」という気がする。

ところで、数年前から主婦層を中心に流行しているコトがある。
「断捨離」だ。
家の中にある、不要な物を捨てて「スッキリした生活をしましょう!」という趣旨のコト。
単なる「整理整頓」では無い点が、ポイントだ。
「要らない物は迷わずに捨て、物に執着することから離れる」と言う考え方が流行しているのだから、「物が売れない」と言うのは当然なのでは?

発想を変えて「物質では無く、サービスにお金を使う」という、消費の方法もある。
「製造業の力が衰える=日本の経済力が落ちる」と考えると、シャープやパナソニックの経営不振は、大きな痛手であるコトは確かだ。
しかし、パナソニックなどの工場で働いている人達は、国内よりも海外のほうが多いのでは。
シャープの場合は、亀山工場を代表とする「国産」が多いが、今の家電製品で「純国産」という製品は、ほとんど無いのでは?
「純国産ではない」ということは、国内で雇用されている人も想像しているほど多くは無い、と言う可能性もある。
もちろん、東日本大震災で明らかになった様な「精密機器の心臓部だけは純国産」というコトはあるとは思う。
違う見方をすれば、海外競争力のある製造部分については、産業としてより拡充を図りながら、高度成長期のような景気観を変えると言うコトのほうが、大事なのでは?

産業革命で大きく産業構造が変わった様に、今までの産業が経済の中心であると言う考えが、永遠に続く訳では無い。
高度成長期のような、経済成長が望めない時代だからこそ、違う発想で景気や消費の見方を考える必要があると思う。

たのしいドライブとはならない、日本の道路?

2012-11-06 20:53:56 | アラカルト
日経新聞のWEBサイトを見ていたら、気になるコラムがあった。
「なぜクルマを運転する機会が減ったのだろう」というタイトルのコラムだ。
コラムを書いていらっしゃるのは、レーシングドライバーの中嶋一貴さん。
私のように、クルマはおろか運転免許すら持っていない人がクルマについて書いたコラムでは無く、運転のプロ中のプロが書いているコラムなだけに、とても興味深い。

そのコラムを読んで思ったコトは、「日本のクルマと道路、都市計画の関係」というコト。
海外の様に「クルマのある生活」を前提に、戦後のまちづくりがされた都市というのは、どれくらいあるのだろうか?
高速道路のように「自動車専用道路」は別だが、徒歩で移動するコトを前提とした生活道路にクルマが侵入してきたのでは?
その一例として上げられるのが、通学路を抜け道として利用した上での事故だろう。
そして、信号機の多さなども指摘をされているが、脇道が多い生活道路であれば、必然に信号機が多くなり、一方通行も増えてしまうのも仕方無いと思う。

そう考えると、気持ちの良い運転というのは、道路と生活との関係にあるのかも知れない。
「クルマ社会」といわれ久しい日本ではあるが、「運転がしやすい社会」では無い。
住宅地をみても、自宅駐車スペースは確保されていても、幹線道路から自宅までの道路は狭い、と言う場合が多いのではないだろうか?
もちろん、地方に行けばその様な光景では無いと思う。
「クルマ社会を考えたまちつくり」と言うよりも、「クルマがないと生活ができない公共交通機関の不足」というコトになると思う。

コラムにあった、深夜人通りの無い場所で赤信号の為に、停車するコトはナンセンスだ、と言う点は何とも言えない。
ただ、交通量の少ないトコロであれば夜間点滅信号機でも、問題は無いのかも知れない。
もっと柔軟な交通ルールが必要、と言うコトも一理あると思う。
新しい都市計画では、クルマ社会を意識した内容が必要だろう。
一番理想的なのは、欧米のような「クルマで生活をする」というコトを前提とした、郊外の住宅地と集約的な商業地区+行政地区というまちづくりだとは思っている
思うのだが、クルマを運転しない側としては「もっと謙虚に運転をして欲しい」と、思うコトがしばしばある。
既にできあがってしまったまちの中では、「歩行者の生活道路に侵入している」と言う意識を持って欲しいのだ。
歩行者との良い関係が、案外「楽しい運転」に結び付くのが、日本の道路事情かも知れない。

情報発信力が求められる、医療

2012-11-05 19:20:23 | アラカルト
今日は、術後の経過検診に病院へ行ってきた。
術後3年目というコトもあり、病院へ行く回数は減ってきている。
むしろ、最近病院に出かける目的は「市民公開講座」の受講となってきている。
当然だが、出かける病院も自分が手術を受けた病院ではない、コトのほうが多い。
そして、出かけた病院のロビーなどで様々な「市民公開講座」の案内をチェックする、というのも習慣の様になってきている。
出かける病院によって、その案内の内容も病気の種類も違う。
私が手術を受けた病院は、いわゆる「総合病院」なので、医師会を中心とした様々な病気の「市民公開講座」の案内がされている。
大学病院となると、大学主催の「市民公開講座」となり、講演をされる先生も臨床の傍ら大学で学生指導をされている先生が中心。
がん専門病院の場合は、がん治療の最新情報を聞くコトができる。

そんな「市民公開講座」をチェックしながら、フッと思ったコトがある。
それは「市民公開講座」に出席をする人達の多くは、その病気の患者さんや患者家族が中心で、病気とは関係の無い人達はほとんど出席していないのでは?と、思ったのだ。
もちろん、患者向けの講座もあるのだが、多くは「病気予防」のための講座だ。
その理由の一つとして考えられるのは、「市民公開講座」などを通して、「病気予防」の意識を高めて貰うこと。
もう一つは、がんなどの検診率を上げるコトが、早期発見・早期治療に繋がり、それが結果として「医療費を下げる」と期待できるからだ。
しかし、その期待と裏腹な結果となっているのは「医療事業における情報発信力が高くない」というコトなのではないだろうか?

今日、私が見たのは「糖尿病」についての、市民公開講座のポスターだった。
ご存じの通り「糖尿病」という病気は、罹患者数も多く「生活習慣病」の代表格だろう。
だからこそ、病院に来院する患者さんではなく、生活習慣病に不安を持ちながらも普通に生活をしている人に参加をして貰いたいはずだ。
実際、ポスターを見ても糖尿病患者さんを対象とした講座内容では無かった。
とすると、ポスターを貼る場所は病院内では無く、地下鉄の駅構内などではないだろうか?
募集定員も320名と少ないので殺到されても困る、という事情があると思う。
だが、先着順定員締め切りにすれば問題は少ないだろうし、反響が高ければ年に数回行えば良い話だろう。

これまで、医療関係の情報というのはメディアが中心だった。
中には、昨日エントリした様に「患者に都合の良い情報のみ」で、「リスクや危険性」を発信するコトが余りない、というのも事実だろう。
一部健康雑誌に見られる、臨床結果が明らかになっていない「健康食品・サプリメント」の記事が健康被害を出している、というコトもある。
であれば、医療側も積極的で効果的な情報発信をする必要があると思う。
むしろ、今という時代だからこそ積極的に情報を発信する必要があるのでは?

そんなコトを考えながら、「糖尿病・市民公開講座」の告知ポスターを眺めていた。

メディアの力と問題点

2012-11-04 18:00:50 | 徒然
昨日、「乳がんセミナー」へ出かけた。
この病気を得てから、都合があえば乳がんに限らずがん全般のセミナーへ出かける様にしている。
その理由は、がん患者にとって一番大切なコトは「情報収集と知識」だからだ。
講演される先生は、臨床の第一線で活躍をされている先生ばかり。
当然、最新で的確な情報と知識が得られるので、できれば「がんとは関係無い」時から、参加されるコトをお勧めしたい。
個人的には、ビジネス上の情報と知識を得るコトと似ている気がしている。

昨日の講演を聴いて、チョッとビックリしたコトがある。
それは「メディアが生活者にとって都合の良い情報だけを、流しやすい」というコトだ。
「乳がん治療」の第一選択となるのは、現時点では手術になっている。
最近話題となっている女優の樹木希林さんが行った「陽子線治療」という治療法もあるが、あくまでも遠隔転移をし、効果的治療法が無いと考えられる患者さんが対象となっており、保険適用外(=自費)の治療。

そんな中、一部メディアが「手術をしなくても治る」と言う治療法を、大々的に報じて困っている、というお話をセミナーでされたのだった。
講師をされた先生は、具体的な治療法名などを言わなかったのだが、ある程度乳がん治療についての知識のある患者さんであれば、想像が付く治療法だと思う。
乳がん患者さんにとって「手術をしない=乳房のカタチが変わらない」というのは、大きなメリットだ。
ここ10年で手術法も随分増え、乳房再建方法もより安全できれいな術法が行われる様になってきた。
とは言っても、「自分のオリジナルの乳房を失う」という喪失感は、免れない。
だからこそ、「手術をしない治療」に飛びつく患者さんの気持ちは、十分過ぎる程判るのだ。
しかし、この治療法は再発転移がしやすく、わかり難いと言うデメリットと危険性が高く、実際、相当進行した状態で、他の乳腺外科に飛び込んでくる患者さんが最近増えているという。

講師の先生は、大々的に報じたメディアが、NHKとなればより問題は大きいと思い、発言をされたのだと思うのだが、不思議なのは、厚生労働省などが認めている標準治療では無く、患者へのデメリットと危険性が高い治療法を何故、公共性の高いメディアが報じるのだろう。

落とさなくても良い命を落とす患者さんが出てきてしまう、そんなデメリットや危険性の説明なしに、患者にとって都合の良い情報だけを報道するのは、メディアのあり方として、問題は無いのだろうか?



障害者雇用という「ダイバーシティー」

2012-11-02 17:45:18 | ビジネス
所用があり、久しぶりに繁華街へ出かけた。
その途中、スターバックスの前でコーヒーの試飲を勧める女性の姿を見かけた。
この秋一番の寒い日となった今日、温かなコーヒーに手を伸ばす通行人は多く見られた。
コーヒーを勧める女性は、スターバックスの制服を着ているのだがチョッと雰囲気が違う。
ダウン症の女性の様だ。
ご存じの方も多いと思うが、ダウン症という障害を持っている方は、その特徴的な容姿で直ぐにわかる。
そのため、私のような通行人でも判るのだが、この様な障害を持った人が一般企業で仕事をする、というのはなかなか難しい状況にあるのが日本の社会でもある。

ここ数年、ビジネスのグローバル化に伴い盛んに言われた「ダイバーシティー」という言葉。
「多様性」を指す言葉だが、「多様性=外国籍の人材活用」と捉えている企業が多い様に感じている。
「多様性」というのだから、外国籍の人を雇用するだけが「ダイバーシティー」では無いはずだ。
むしろ、様々なキャリアを持った高齢者や一時期仕事を離れていた人、そして障害を持っている人などが、その人らしさを発揮しながら仕事ができるコトのほうが「ダイバーシティー」という考えに近いのではないだろうか?

障害者雇用は、実に手間暇掛かる雇用形態だと思う。
「収益」という視点だけで考えれば、決して効率の良い人材では無いと思う。
でも、障害者だけではなく既存の企業文化以外からの入ってきた人たちが与える、影響は大きいと思う。
それまで気づかなかった視点を、教えてくれる存在でもあるはずだ。
何より、生活者の志向や考えが多様化している。
その生活者は、コレまで企業の中心となって働いてきた人材だけでは、対応仕切れなくなってきているはずなのだ。

「ダイバーシティー」で大切なコトは、「多様性のある人材を、活用する為のマネジメント」なのでは?
「マネジメント=管理」と考えると、とても難しく大変なコトになってしまう。
「管理」ばかりに気を取られていると、管理する為の管理となってしまうのではないだろうか?
「管理をする」という視点で考えれば、今までと同じ働き方のほうが管理をしやすい。
そのため「ダイバーシティー」という、耳障りの良い言葉を実行しているわかりやすさを「外国籍の人の雇用」と捉えている企業が多いのではないだろうか。
「グローバル化」の第一歩は、多様な経験と価値観を持っている人材が集まるコトなのでは?
そんなコトを、スターバックスで働くダウン症の女性の姿を見て感じたのだった。