今日の新聞の一面は、パナソニックの通期決算の赤字だった。
そして今日、シャープの通期決算について報道されている。
いずれも「巨額な赤字」という言葉が合う様な、赤字決算になりそうだ。
おそらく、ソニーも金額は違っても相当な赤字決算になる可能性があると思う。
高度成長期の頃から、日本の経済を牽引してきたのは自動車産業と家電だった。
家電の場合「三種の神器」と呼ばれるモノが、時代とともに変わり、それが一般家庭の「必需品」になっていった。
おそらく一般家庭で、過去に「三種の神器」と言われた家電製品の無い家庭はほとんど無いと思う。
もちろん白黒テレビ→カラーテレビという具合に、既に無くなってしまった製品を含めてのことだ。
言い換えれば、日本の家庭には「家電が飽和状態」なのだと思う。
随分前、研修や仕事の打ち合わせで松下電工という名前だった時代のパナソニックに、行ったことがある。
私が行った先は、いわゆる「白物家電」の事業部で当時の担当者から聞いた言葉に「家電は家事を楽(ラク)にし、楽しくするコト」というモノがあった。
白物家電の登場は、主婦を家事労働から随分解放してくれた。
重労働だった洗濯などは、今ではスイッチ一つで乾燥までしてくれる。
掃除機にしても、ロボット掃除機の登場で「掃除機をかける」という労働から、解放してくれた。
しかし、行き着くところまで行き着いた感があるのも、今の家電の姿という気もするのだ。
今赤字決算の中心の話題となっているテレビにしても、「テレビ受像機」としての基本的な部分は、既にやり尽くしてしまっていると思う。
確かに、2,3年前話題になった「3Dテレビ」というモノもあったが、普通の家庭では欲しいと思えない機能だったようで、話題にはなったが商品としてヒットはしなかった。
それが、地デジ化によるテレビの買い換え需要が一気にやってきたことで、買い換え需要後の市場が見えなくなってしまっていたのかもしれない。
もう一つあるとすれば、「パソコン」の普及かも知れない。
今や「地デジが見られるパソコン」は、当たり前の機能になってきている。
「テレビ」でなくても、「テレビ番組を見る」というコトはできるのだ。
そしてその傾向は、益々強まると思う。
実際、家電量販店に行くと「iPad(などの「携帯タブレット通信機器」)でテレビが見られるチューナー」などが、数多く売られている。
とすれば「テレビ」という「テレビ受像機」の、あり方そのもののについて発想を変える時代にきている、というコトなのでは?
そして今日、シャープの通期決算について報道されている。
いずれも「巨額な赤字」という言葉が合う様な、赤字決算になりそうだ。
おそらく、ソニーも金額は違っても相当な赤字決算になる可能性があると思う。
高度成長期の頃から、日本の経済を牽引してきたのは自動車産業と家電だった。
家電の場合「三種の神器」と呼ばれるモノが、時代とともに変わり、それが一般家庭の「必需品」になっていった。
おそらく一般家庭で、過去に「三種の神器」と言われた家電製品の無い家庭はほとんど無いと思う。
もちろん白黒テレビ→カラーテレビという具合に、既に無くなってしまった製品を含めてのことだ。
言い換えれば、日本の家庭には「家電が飽和状態」なのだと思う。
随分前、研修や仕事の打ち合わせで松下電工という名前だった時代のパナソニックに、行ったことがある。
私が行った先は、いわゆる「白物家電」の事業部で当時の担当者から聞いた言葉に「家電は家事を楽(ラク)にし、楽しくするコト」というモノがあった。
白物家電の登場は、主婦を家事労働から随分解放してくれた。
重労働だった洗濯などは、今ではスイッチ一つで乾燥までしてくれる。
掃除機にしても、ロボット掃除機の登場で「掃除機をかける」という労働から、解放してくれた。
しかし、行き着くところまで行き着いた感があるのも、今の家電の姿という気もするのだ。
今赤字決算の中心の話題となっているテレビにしても、「テレビ受像機」としての基本的な部分は、既にやり尽くしてしまっていると思う。
確かに、2,3年前話題になった「3Dテレビ」というモノもあったが、普通の家庭では欲しいと思えない機能だったようで、話題にはなったが商品としてヒットはしなかった。
それが、地デジ化によるテレビの買い換え需要が一気にやってきたことで、買い換え需要後の市場が見えなくなってしまっていたのかもしれない。
もう一つあるとすれば、「パソコン」の普及かも知れない。
今や「地デジが見られるパソコン」は、当たり前の機能になってきている。
「テレビ」でなくても、「テレビ番組を見る」というコトはできるのだ。
そしてその傾向は、益々強まると思う。
実際、家電量販店に行くと「iPad(などの「携帯タブレット通信機器」)でテレビが見られるチューナー」などが、数多く売られている。
とすれば「テレビ」という「テレビ受像機」の、あり方そのもののについて発想を変える時代にきている、というコトなのでは?