中井広恵さんの『鏡花水月』(2004年発行)。
この本はしかし中井さんの書いたものではなく、中井さんへのインタビューと、それから対談が載っています。
こういう本というのは、だいたい1回読めばいいので、大概は買わないで図書館ですますところですが、なぜか僕はこれを買ってしまっているんですね。(理由は思い出せません。)
今、あらためて読んだのですが、いろいろと面白い。
小学5年生の時に、中井広恵さんは北海道稚内から東京まで出てきて「小学生名人戦」に参加した。当時のこの大会は地区予選などなく、参加したい人は東京に行くしかない。そこに300人くらいの小学生が集まった。
300人もいれば、運営も大変です。組み合わせ抽選などなく、適当に各自が相手を見つけて指して、結果を報告する。2敗すると失格、2勝するとトーナメントへといシステムだったという。
中井さんが「これは弱そう」と最初に選んだ子供が、やってみると強くて中井さんは負けてしまった。これが広島カープの野球帽をかぶった“恐怖の赤帽子”羽生善治だったのです。
そこからでも中井広恵はがんばってベスト8に進む。それを見ていた見知らぬおじさんが一局指そうと言ってきた。言われるままに指したが、それが佐瀬勇次だった。
やがて佐瀬勇次は北海道の家にやってきて、弟子にならないかという。両親は驚いて小学生の女の子を手離すことに難色を示すが、東京へ住めるのかと心ときめいた広恵は、両親を説得する。そうしてついに佐瀬の内弟子となり東京で生活。
いや、東京ではなかった。佐瀬の家は千葉駅からバスで30分かかるような田舎だった。そこはちょっとがっかりしたが、内弟子生活は快適だった。
元々家でも自分のことは自分でやる(洗濯や食事も)ように厳しく父にしつけられていた広恵は、東京での生活はまったく苦にならなかった。学校から帰ると広恵はすぐに必ず宿題をすます。これは父に叩き込まれたしつけで、父はこういうことに異常なほどにきびしかった。だから広恵はそれが習慣となっていた。
ところがある日、師匠の佐瀬がそれを注意した。「おまえは何をやっているんだ。学校の勉強をする暇があったら、将棋の勉強をしなさい。」
佐瀬の弟子になる直前に、もう一度中井は「小学生名人戦」に出場している。これは父に言われて、弟子入りするためにハクをつけるというような意味だったらしい。
大会が始まる前、時間があったので練習にと佐瀬が対戦させた相手が広島からやってきた村山聖少年。中井が勝った。このことは『聖の青春』に描かれている。村山の父の印象につよく刻まれていたようだ。広島では聖の練習になる相手を探すのに苦労しているというのに、東京にはこんな女の子までが将棋を指して、しかもうちの子を負かす、と。
大会本番が始まって、内容の悪い将棋もいっぱいあったが、なぜか運がよく、中井広恵は勝ち進んだ。ベスト4に残り、テレビスタジオでの対局となった。そこで準決勝の相手(佐藤康光か畠山成幸かどちらか)にも勝って、決勝へ。
ところが決勝は、逆に勝てると思った将棋を、ミスして落としてしまった。ということで、準優勝。
中井広恵はそれがくやしくて、しばらくの間は機嫌がわるかった。だれに何を言われてもふてくされブスッとしていた。あの将棋は勝てた将棋だったのに…。
そのまま、中井広恵は佐瀬家ですぐに内弟子生活入り。佐瀬の家族や兄弟子たちに紹介されたが、そこでもまだ、決勝で負けた悔しさは消えない。相変わらず、ブスッとしたまま。
この時にその少女と初めて対面した兄弟子の植山悦行は「なんて愛嬌のない子供だろう」と思ったという。
中井は中井で、この植山の頭を見て、「なんだこの人は。この人ほんとに将棋指しなのか」と思ったという。植山悦行は当時、アフロヘアーだったのだ。
この二人、8年後、1989年に夫婦になる。
今日は、1987年1月から行われた「中井広恵-林葉直子」の女流名人戦五番勝負を鑑賞します。
前年、1986年に林葉から中井広恵が「女流名人」のタイトルを奪い、16歳の新女流名人が誕生しました。
しかし当時の記事などを調べると、マスコミの人気の華は依然林葉直子のほうにあり、中井さんは地味な扱いだったようです。
中井女流名人に、林葉さんが挑戦する五番勝負です。
中井広恵-林葉直子 1987年 女名人1
第1局。後手林葉直子の「向かい飛車」。向かい飛車には△2四歩の攻めがいつでもあるので、中井は6八玉を上がる前に4六歩としている。(こうすれば2四歩、同歩、同角が王手にならない。)
そして中井は、さらに3六歩としてから、次に6八玉。これが大失敗。
すかさず林葉は4五歩(図)の仕掛け。これが機敏だった、4五同歩なら、角交換して4六角(王手飛車!)がある。3六歩を突かなければ、この手はないのだ。
ここで林葉は5四銀と出たのだが、これが疑問だった。ここは4五桂でよかった。(4五同桂、4六銀、4四歩として、3九角をねらいとする。)
実戦は、5四銀、4四歩、6二銀、3五歩、6四角、5五歩、同銀、4八飛、4一飛、3四歩、2五桂、4五飛。
4四歩で後手は困った。林葉はせっかくの好機の仕掛けを無意味なものにした。
逆に先手が一気に有望になった。
このまま先手が押し切って、中井広恵女流名人がまず1勝。
林葉直子-中井広恵 女名人2
「7六歩、8四歩、5六歩」。
この出だしは、「先手中飛車」と「先手向かい飛車」の2つの可能性がある。
後手はこれに対して「8五歩、7七角、5四歩」が現代ではもっとも多い対応。5四歩としないと、先手が5五歩と突いて「先手5筋位取り中飛車」となる。後手がそれを許す場合も昔からよく指されているが、それをきらって5四歩と突くほうが多い。
ただし、その前に「8五歩、7七角」を入れておく。なぜそうするかといえば、そうしないで単に5四歩ならば、以下5八飛、6二銀、5五歩、同歩、同角、4二玉、7七角となったとき、先手は手順に角を7七に移動できている。これは「8五歩、7七角」の後に同じように進んだ場合に較べると先手が「1手得」になっている。それが損だと後手は考えるので、「8五歩、7七角、5四歩」となる。(ただしそれを気にせず単に5四歩でもわるくはない。)
以下、4二玉、6八銀、3四歩、4八玉、6二銀、5五歩、同歩、同飛。
林葉は5八飛。やはり「中飛車」だった。そして4八玉のあと、5五歩から歩交換。
林葉は角ではなく、飛車で5五の歩を取った。
この図の、5五飛、これを、同角とは後手は取れないだろう。
林葉の5五同飛は、これはつまり、歩交換のあと5九に飛車を引いてそれで「手得」を主張しようという意味。それですぐ先手が有利になるわけではないが、たしかに得は得だ。
中井は4四歩として、角交換を嫌った。そして「雁木」に組んだ。
林葉はいったん7八に上がった金を、6八→5八と寄せた。ふつうは7六をケアして6七に上がるところだが、林葉が工夫をした。しかしこれだと角の頭が不安だが…。
これを見て、やはり後手の中井広恵が動いた。7五歩、同歩、7二飛。
これに反応して林葉、6五歩(図)。
7五飛、6九飛、8六歩、7六歩。
中井の8六歩が鋭い手で、先手の林葉は困った。8六歩に、同歩は8八歩がある。
そこで林葉、7六歩。
中井の同飛に、6六飛。中井、7五飛とひとつ引く。
7六歩、7四飛、4五歩と進む。
中井のこの4五歩では、7三桂で後手が十分だった。4五歩で、棋勢苦しめな林葉にチャンスを与えてしまった。
林葉、6四歩。
6六角、同角、3三桂、6五銀、7三飛、9六角。
9六角。なんと“才能”を感じさせる一着だろう。
8五歩、7七桂、7一飛、8五歩、7三桂、8四歩、6五桂、6三歩成、7六飛、6五桂。
もう言葉はいらない。一直線のこの寄せの美しさを見よ。
9六飛、同歩、6三金、6一飛、5二銀、6三飛成、同銀、5三桂成。
5二銀右、2五桂、4四角、3三桂成、同角、同角成、同玉、2五桂、4四玉、6四銀。
2二角、6二角、6一歩、4三成桂、同玉、4四銀、3二玉、3三金、2一玉、2二金、同玉、3三銀成、2一玉、4四角成。
3一金打、2三成銀となって、ここで中井広恵、投了。
1勝1敗になった。
中井広恵-林葉直子 女名人3
第3戦。後手の林葉の「四間飛車」。 四間飛車でこのように3五歩として、4三銀の形のままで待つこの作戦はあまり見たことがないが、林葉直子は何局かこれを指している。どこから仕入れてきた作戦だろう?
林葉のこの3五歩型四間飛車は、3五歩の位をがっちり守らないのが特徴としてある。むしろこれをおとりにして、開戦に利用する考えだと思う。
先手の中井広恵は、5五歩と位を取り、4八飛と右四間に構えて、そこで戦端が開かれた。
ここから、4四飛、2三角成、4七歩、2八飛と進んだ。
この2八飛では、「1八飛が正着だった」というから将棋はむつかしい。ふつうは2八飛だと思う。(2六飛と活用できるかもしれないし。)
1八飛だと、後手からの2七銀がある。1八飛、2七銀、そこで飛車は取らせることにして、3三馬で勝負、というのが正解だったというのである。
実戦の進行は、2八飛に、5六歩、6八銀、3九角、3八飛、8四角成、3三馬、2七銀となった。
ここまで進んでみると、先ほどの「2八飛が失着で、1八飛が正解」という理由がわかる。結局、飛車は取られてしまうのだ。同じ取られるのなら、1八で取られた方が断然良い。
林葉直子、優勢。
中井も飛車を取って攻める。
林葉、落ち着いて7四歩。これは中井のねらう6三香の攻めに対応している。中井の攻めを封じれば、後手の勝ちとなる。
それでも攻めるしかない中井は、6三香。林葉は7一金とかわす。
2二竜、2一歩、4二竜、4三飛。
林葉の“受けつぶし”作戦。中井の攻めの主軸の「竜」を盤上から消してしまえばよい。
4三同竜、同金、3二飛、4二飛、3一飛成、4八歩成。
ついに後手待望の4八歩成が入った。
中井はそれでも食いついて攻めていったが、林葉には余裕があった。
林葉直子が勝利。
挑戦者林葉直子、女流名人奪回にあと1勝。
次の第4局は、両者にとっていろいろと“問題の一局”となった。
林葉直子-中井広恵 女名人4
「先手中飛車」と同じ出だしで、8八飛と飛車を振ると「先手向かい飛車」となる。
この図を<基本図>としよう。
ここで、後手の次の手は「3四歩」がふつうである。
3四歩とすると、2二角成、同銀、5三角という手があるが、それは後手も5七角と打って、お互いに馬をつくり合う展開となる。「力戦型」というやつだ。ただし、これは先手にとってあまり魅力的な展開とはいえないようで、これを選ぶ人は昔から少ない。
なぜなら、2六角成、8四角成となった後、先手の玉だけが後手の馬のにらみで囲いにくいからだ。
大山康晴-塚田正夫 1962年
ただし、ここで9六歩と突いて9七角成とする手段が見つかって、それで2000年頃から、こうなる将棋が少し流行った。これなら、玉が囲いにくいのは“お互いさま”だから。
さらに5八飛と中飛車にここで振り戻す(「やまびこ飛車」という)指し方も生まれた。
<基本図>に戻って、居飛車側で指してここで気をつけなかければならないのは、3四歩とせずに6二銀とする変化で、これが手堅いようにみえて、実は危険な形ということを知っておくべきだ。これは▲8六歩の振り飛車からの仕掛けを誘発する可能性が大なのだ。島朗著『島ノート』(2002年発行)には、それで先手有利と示されている。
手順は省くが、だから、<基本図>では角道を開ける3四歩のほうが安全なのである。
先手のこの陣形は「升田流向かい飛車」とも呼ばれている。1960年代に升田幸三がよくこれを指していたからである。
升田幸三-加藤一二三 1962年
升田幸三の「向かい飛車」は、8六歩を狙ったり、角交換をして6六銀型をつくって積極的に動くものだった。
「向かい飛車」には常にこの「8六歩からの攻め」があるので、居飛車側はこれを警戒して神経を使う。
1960年代の経験の蓄積から、居飛車側はこの「林葉-中井戦」のように、6二銀、6四歩型にして、それから4二玉とするのが一番無難だと知るようになった。その後、1970年代から1990年代まで、ずっとこの型が「先手向かい飛車」に対する居飛車の型の主流として用いられてきた。
すなわち、<基本図>から3四歩~6二銀~6四歩とする。これで次に4二玉と上がる。
ところが今の主流は違う。
千葉幸生-真田圭一 2013年
現代ではこのように、6二銀も上がらず、6四歩も突かずに、10手目に4二玉とするのがプロで主流となっている指し方である。つまり<基本図>から、3四歩、6八銀に、4二玉。
(このあたりの事情を書きたい気持ちもあるが、長くなるのでここでは省略する。気が向けば別記事で書くかもしれない。)
中井は7三桂と跳ねた。次は6五桂がある。そこで林葉は4六銀と指した。この4六銀は珍しい手。
5二金右、6六歩に、そこで中井広恵は、6五歩と仕掛けた。
5五歩、6六歩、6八飛、8六歩。
中井の仕掛けが成功したようだ。
林葉、苦戦。先の4六銀の林葉の工夫が、結果的には実らなかった。
5八角。一気に襲いかかった。
この角は取れないので、林葉は3九金。
7六角成、5七金、7七馬、6三歩、4四桂。
明らかに後手中井が優勢だったが、この4四桂はおかしかった。いったん、6三同銀でなんでもなかったのに、何か勘違いがあったか。(3四飛が王手になるのをうっかりした?)
3四飛、3三歩、6二歩成、5六桂、同金、3四歩、5二と、4八銀、同金、同竜、4九金、同竜、同銀、7八飛…
中井、変調。
今、林葉が8九飛成としたところ。もはやどちらが良いのかわからない形勢になっているが、とりあえず中井はここで5四金とすべきところだった。
ところが中井の次の手は6八飛成。何だろう、この手は!?
どうやら中井は△8八歩から林葉の竜を召し取ってしまうつもりらしい。しかし、それは…。
残り時間は先手林葉19分、後手中井10分。(始めの持ち時間は各3時間)
5三歩成、8八歩、6九歩、5九竜、7九竜、6七馬、4三と、同玉、5五桂…
これは林葉が優勢になった。あまりにも妙な中井広恵の乱れ方だった。
林葉直子の勝ち将棋。これを勝ち切れば、林葉が女流名人に1年で復帰である。
しかし林葉の残り時間もあと9分しかない。
もっと着実な勝ち方もあったと思われるが、林葉は一直線に勝ちに来た。これを詰めれば林葉直子の勝ち。
3三歩、4三桂成、2二玉。
さあ、どうやって詰めるのか。残り時間はもう、1分になった。
『将棋年鑑』の解説ではここで、〔▲2三竜△同玉▲4一角で合い駒が悪く、即詰みだった〕とある。なるほどと思い、僕はその詰み手順をしばらく考えてみた。しかし読み切れないので、ソフト「東大将棋6」にかけてみた。するとソフトもその詰みを見つけられない。もしかすると、〔詰みがある〕という『年鑑』の解説が間違っている可能性がある。
きっと、当時の「盤側」ではそういう結論になっていたのだろう。
林葉の読んでいた詰み筋は3三成桂から清算して、4五桂と打つものだった。確かにこれで詰んでいそうな感じはある。だが、これは詰まないのだ。
(「東大将棋6」は、3三成桂、同桂、同竜、同玉、5五角、4四歩、4五桂以下の詰みを発見した。しかしこれは相当大変な詰み筋で、読み切るのは至難。)
4四銀を、後手が同玉なら詰む。しかし5四玉と逃げられて、詰まない。
林葉は5五銀、6三玉、5四角から追ったが、中井の玉は捕まらなかった。
中井広恵の勝ち。
それにしても、妙な流れの将棋だった。中井も、林葉も、どちらもいったんは手の内に入った「勝ち」を逃してしまっている。
終盤は林葉が華麗に攻めていったので、検討陣もそれを信用してきっと詰みを読み切ったのだと決めつけていたのかもしれない。途中で詰まないことがはっきりしてきて、騒然となったようだ。
しかしこのギリギリの局面を選んでしまったことが林葉の失敗だったということになる。中井は命拾いした。
ともかく、これでお互い2勝2敗。五番勝負の決着は最終第5局へ。
中井広恵-林葉直子 女名人5
後手番林葉直子の「英ちゃん流中飛車」。
山口英夫草案のこの5三歩型の中飛車は1968年頃に升田幸三も愛用している。一つの特徴として、この林葉のように5四銀と出ることができるということがある。しかしこう出ると、中飛車としては飛車は機能しないから、その後で4二飛などという活用になる。それなら最初から四間飛車に振って、5四銀でいいじゃないか、と筆者の子供の時はそれが疑問だった。今なら、少しはわかる。当時、振り飛車にとって、居飛車の「位取り」が脅威だった。それに対する対策の一つが「穴熊」であり、別の一つがこの「英ちゃん流中飛車」だったのだ。具体的には、中飛車にかまえることで居飛車の「5筋位取り」をけん制している。たぶん、6筋や7筋の位取りもこれで(具体的にはわからないが)けん制できているのだと思う。
「5四銀」と出る形は升田幸三もよく指しているが、林葉直子も好きそうな作戦だ。僕も昔升田をまねてよくこれを指した。次に6五銀として、先手の7六歩を取りに行く。これを「玉頭銀」と言う。
まあしかし、簡単には歩は取れない。
こうなった。7三歩成ととりあえずはやりたいところで、そう指さずに9六歩。これが中井広恵の好着想。次に9七角とするつもり。
6、7筋での戦いになった。後手はまだ角が戦いに参加できていない。
攻め合う。林葉の6五銀打に、中井は4八銀。しっかり受けて先手優勢。
2八角成、6三歩、同銀上、6五金、同銀、6二飛。
6二飛。すごい決め手だ。
こうなってみると、最後まで林葉の3三角は働いていない。
7二金、同飛車行成、同銀、6五飛成、6一歩、7四歩、6二金、6四銀、3八馬、7三銀打、同桂、同歩成、同銀、同銀成、同金、7四桂、同金、8一金、7二玉、7三歩。
投了図
最後は、美しくフィニッシュ。
中井広恵、女流名人を防衛。
この時、中井広恵さんは17歳。でも、高校生ではない。
中井さんは中学を卒業して、高校へ行く道を選ばなかった。中井は「奨励会」にも所属しており、将棋一本の道を選んだのです。
中井広恵さんの師匠は米長邦雄の師匠でもある佐瀬勇次です。佐瀬さんは、「棋士は高校へは行くべきではない」という持論を頑固にもっていた人で、米長さんもそれで対立したと後に話しています。中井広恵もまた、佐瀬師匠とそのことで対立したことがあるようです。だけれども、中井さんはそれに説き伏せられて高校へ行かなかったということではなく、よく考えて自分でその道を最終的には選択したようです。高校生活を人並みに送りたいという夢はやはりあったようですが、この時期に将棋に打ち込む時間は大事だと。そう決断した。
僕は1987年のこの時期、将棋界にはまったく興味を持っていない時期でしたので、この頃の情報は知らなかったことが多いのですが、林葉さんが大学に行っていたことは今回の調べで初めて知りました。薬剤師になろうと考えていたんですってね。
中井と林葉は2学年違いですが、気持ちは通じあって仲が良かった。でも、将棋は「いちばん負けたくない相手」。林葉直子が先にタイトルを獲り、しかも「二冠」になり、マスコミにも注目され――という状況であっても、中井広恵にとっては林葉直子は、目標とか上に仰ぐ存在ではなく、横に並んで当然のライバルという感覚であったようです。というのは、中井と林葉は「もともとスタートラインは同じ」だからです。二人は、同じ頃に新人女流棋士として戦って、林葉直子が結果的に初タイトルを獲った1982年の女流王将戦のリーグ成績も中井と林葉は同星で、プレーオフの結果林葉が挑戦者になっている。だから“わずかの差”という感覚が最初からずっとあるわけで、だから中井にとって林葉は「横並らび」の存在でした。その林葉がタイトルを取っているのなら、自分も当然取るだろうと思っていたようです。
中井広恵が17歳で「女流名人」、林葉直子が19歳で「女流王将」という1987年の女流棋界です。(当時の女流タイトルはこの2つ。)
中井広恵が「奨励会」に入会した頃(1984年)に、林葉直子はそれを退会しています。
「奨励会」では中井は勝てない日々が続き、それが日常となって、普段は兄弟子たちに「ひろべえ」と呼ばれていましたが、あまりに負け続けてやがて「くろべえ」と呼ばれ始めたということです。
それでも中井さんは20歳の年齢制限まで「奨励会」に在籍し、最後は「1級」で終えています。
「女流名人」はこうして中井広恵が辛くも防衛。
そして翌年は新たな強敵を迎えることになります。清水市代です。
今回の記事は最初『林葉の振飛車part7』としていましたが、中身を考えると、中井広恵さんが主役になっているのでタイトルを変更しました。
『林葉の振飛車 part1』
『林葉の振飛車 part2』
『林葉の振飛車 part3』
『林葉の振飛車 part5』
『林葉の振飛車 part6』
『女流プロの「角換わりコンプレックス」1』 石橋幸緒流の3手目7七角、高田流3手目7八金
『女流プロの「角換わりコンプレックス」2』 千葉涼子流角換わりオープニング(2六歩~2五歩)
『女流プロの「角換わりコンプレックス」3』 早水千紗流7七桂(3三桂)型角換わり
『女流プロの「角換わりコンプレックス」4』 後手一手損角換わりの登場と相腰掛銀
『「ヒロエ」、現わる。』 詰将棋「ヒロエ詰め」
この本はしかし中井さんの書いたものではなく、中井さんへのインタビューと、それから対談が載っています。
こういう本というのは、だいたい1回読めばいいので、大概は買わないで図書館ですますところですが、なぜか僕はこれを買ってしまっているんですね。(理由は思い出せません。)
今、あらためて読んだのですが、いろいろと面白い。
小学5年生の時に、中井広恵さんは北海道稚内から東京まで出てきて「小学生名人戦」に参加した。当時のこの大会は地区予選などなく、参加したい人は東京に行くしかない。そこに300人くらいの小学生が集まった。
300人もいれば、運営も大変です。組み合わせ抽選などなく、適当に各自が相手を見つけて指して、結果を報告する。2敗すると失格、2勝するとトーナメントへといシステムだったという。
中井さんが「これは弱そう」と最初に選んだ子供が、やってみると強くて中井さんは負けてしまった。これが広島カープの野球帽をかぶった“恐怖の赤帽子”羽生善治だったのです。
そこからでも中井広恵はがんばってベスト8に進む。それを見ていた見知らぬおじさんが一局指そうと言ってきた。言われるままに指したが、それが佐瀬勇次だった。
やがて佐瀬勇次は北海道の家にやってきて、弟子にならないかという。両親は驚いて小学生の女の子を手離すことに難色を示すが、東京へ住めるのかと心ときめいた広恵は、両親を説得する。そうしてついに佐瀬の内弟子となり東京で生活。
いや、東京ではなかった。佐瀬の家は千葉駅からバスで30分かかるような田舎だった。そこはちょっとがっかりしたが、内弟子生活は快適だった。
元々家でも自分のことは自分でやる(洗濯や食事も)ように厳しく父にしつけられていた広恵は、東京での生活はまったく苦にならなかった。学校から帰ると広恵はすぐに必ず宿題をすます。これは父に叩き込まれたしつけで、父はこういうことに異常なほどにきびしかった。だから広恵はそれが習慣となっていた。
ところがある日、師匠の佐瀬がそれを注意した。「おまえは何をやっているんだ。学校の勉強をする暇があったら、将棋の勉強をしなさい。」
佐瀬の弟子になる直前に、もう一度中井は「小学生名人戦」に出場している。これは父に言われて、弟子入りするためにハクをつけるというような意味だったらしい。
大会が始まる前、時間があったので練習にと佐瀬が対戦させた相手が広島からやってきた村山聖少年。中井が勝った。このことは『聖の青春』に描かれている。村山の父の印象につよく刻まれていたようだ。広島では聖の練習になる相手を探すのに苦労しているというのに、東京にはこんな女の子までが将棋を指して、しかもうちの子を負かす、と。
大会本番が始まって、内容の悪い将棋もいっぱいあったが、なぜか運がよく、中井広恵は勝ち進んだ。ベスト4に残り、テレビスタジオでの対局となった。そこで準決勝の相手(佐藤康光か畠山成幸かどちらか)にも勝って、決勝へ。
ところが決勝は、逆に勝てると思った将棋を、ミスして落としてしまった。ということで、準優勝。
中井広恵はそれがくやしくて、しばらくの間は機嫌がわるかった。だれに何を言われてもふてくされブスッとしていた。あの将棋は勝てた将棋だったのに…。
そのまま、中井広恵は佐瀬家ですぐに内弟子生活入り。佐瀬の家族や兄弟子たちに紹介されたが、そこでもまだ、決勝で負けた悔しさは消えない。相変わらず、ブスッとしたまま。
この時にその少女と初めて対面した兄弟子の植山悦行は「なんて愛嬌のない子供だろう」と思ったという。
中井は中井で、この植山の頭を見て、「なんだこの人は。この人ほんとに将棋指しなのか」と思ったという。植山悦行は当時、アフロヘアーだったのだ。
この二人、8年後、1989年に夫婦になる。
今日は、1987年1月から行われた「中井広恵-林葉直子」の女流名人戦五番勝負を鑑賞します。
前年、1986年に林葉から中井広恵が「女流名人」のタイトルを奪い、16歳の新女流名人が誕生しました。
しかし当時の記事などを調べると、マスコミの人気の華は依然林葉直子のほうにあり、中井さんは地味な扱いだったようです。
中井女流名人に、林葉さんが挑戦する五番勝負です。
中井広恵-林葉直子 1987年 女名人1
第1局。後手林葉直子の「向かい飛車」。向かい飛車には△2四歩の攻めがいつでもあるので、中井は6八玉を上がる前に4六歩としている。(こうすれば2四歩、同歩、同角が王手にならない。)
そして中井は、さらに3六歩としてから、次に6八玉。これが大失敗。
すかさず林葉は4五歩(図)の仕掛け。これが機敏だった、4五同歩なら、角交換して4六角(王手飛車!)がある。3六歩を突かなければ、この手はないのだ。
ここで林葉は5四銀と出たのだが、これが疑問だった。ここは4五桂でよかった。(4五同桂、4六銀、4四歩として、3九角をねらいとする。)
実戦は、5四銀、4四歩、6二銀、3五歩、6四角、5五歩、同銀、4八飛、4一飛、3四歩、2五桂、4五飛。
4四歩で後手は困った。林葉はせっかくの好機の仕掛けを無意味なものにした。
逆に先手が一気に有望になった。
このまま先手が押し切って、中井広恵女流名人がまず1勝。
林葉直子-中井広恵 女名人2
「7六歩、8四歩、5六歩」。
この出だしは、「先手中飛車」と「先手向かい飛車」の2つの可能性がある。
後手はこれに対して「8五歩、7七角、5四歩」が現代ではもっとも多い対応。5四歩としないと、先手が5五歩と突いて「先手5筋位取り中飛車」となる。後手がそれを許す場合も昔からよく指されているが、それをきらって5四歩と突くほうが多い。
ただし、その前に「8五歩、7七角」を入れておく。なぜそうするかといえば、そうしないで単に5四歩ならば、以下5八飛、6二銀、5五歩、同歩、同角、4二玉、7七角となったとき、先手は手順に角を7七に移動できている。これは「8五歩、7七角」の後に同じように進んだ場合に較べると先手が「1手得」になっている。それが損だと後手は考えるので、「8五歩、7七角、5四歩」となる。(ただしそれを気にせず単に5四歩でもわるくはない。)
以下、4二玉、6八銀、3四歩、4八玉、6二銀、5五歩、同歩、同飛。
林葉は5八飛。やはり「中飛車」だった。そして4八玉のあと、5五歩から歩交換。
林葉は角ではなく、飛車で5五の歩を取った。
この図の、5五飛、これを、同角とは後手は取れないだろう。
林葉の5五同飛は、これはつまり、歩交換のあと5九に飛車を引いてそれで「手得」を主張しようという意味。それですぐ先手が有利になるわけではないが、たしかに得は得だ。
中井は4四歩として、角交換を嫌った。そして「雁木」に組んだ。
林葉はいったん7八に上がった金を、6八→5八と寄せた。ふつうは7六をケアして6七に上がるところだが、林葉が工夫をした。しかしこれだと角の頭が不安だが…。
これを見て、やはり後手の中井広恵が動いた。7五歩、同歩、7二飛。
これに反応して林葉、6五歩(図)。
7五飛、6九飛、8六歩、7六歩。
中井の8六歩が鋭い手で、先手の林葉は困った。8六歩に、同歩は8八歩がある。
そこで林葉、7六歩。
中井の同飛に、6六飛。中井、7五飛とひとつ引く。
7六歩、7四飛、4五歩と進む。
中井のこの4五歩では、7三桂で後手が十分だった。4五歩で、棋勢苦しめな林葉にチャンスを与えてしまった。
林葉、6四歩。
6六角、同角、3三桂、6五銀、7三飛、9六角。
9六角。なんと“才能”を感じさせる一着だろう。
8五歩、7七桂、7一飛、8五歩、7三桂、8四歩、6五桂、6三歩成、7六飛、6五桂。
もう言葉はいらない。一直線のこの寄せの美しさを見よ。
9六飛、同歩、6三金、6一飛、5二銀、6三飛成、同銀、5三桂成。
5二銀右、2五桂、4四角、3三桂成、同角、同角成、同玉、2五桂、4四玉、6四銀。
2二角、6二角、6一歩、4三成桂、同玉、4四銀、3二玉、3三金、2一玉、2二金、同玉、3三銀成、2一玉、4四角成。
3一金打、2三成銀となって、ここで中井広恵、投了。
1勝1敗になった。
中井広恵-林葉直子 女名人3
第3戦。後手の林葉の「四間飛車」。 四間飛車でこのように3五歩として、4三銀の形のままで待つこの作戦はあまり見たことがないが、林葉直子は何局かこれを指している。どこから仕入れてきた作戦だろう?
林葉のこの3五歩型四間飛車は、3五歩の位をがっちり守らないのが特徴としてある。むしろこれをおとりにして、開戦に利用する考えだと思う。
先手の中井広恵は、5五歩と位を取り、4八飛と右四間に構えて、そこで戦端が開かれた。
ここから、4四飛、2三角成、4七歩、2八飛と進んだ。
この2八飛では、「1八飛が正着だった」というから将棋はむつかしい。ふつうは2八飛だと思う。(2六飛と活用できるかもしれないし。)
1八飛だと、後手からの2七銀がある。1八飛、2七銀、そこで飛車は取らせることにして、3三馬で勝負、というのが正解だったというのである。
実戦の進行は、2八飛に、5六歩、6八銀、3九角、3八飛、8四角成、3三馬、2七銀となった。
ここまで進んでみると、先ほどの「2八飛が失着で、1八飛が正解」という理由がわかる。結局、飛車は取られてしまうのだ。同じ取られるのなら、1八で取られた方が断然良い。
林葉直子、優勢。
中井も飛車を取って攻める。
林葉、落ち着いて7四歩。これは中井のねらう6三香の攻めに対応している。中井の攻めを封じれば、後手の勝ちとなる。
それでも攻めるしかない中井は、6三香。林葉は7一金とかわす。
2二竜、2一歩、4二竜、4三飛。
林葉の“受けつぶし”作戦。中井の攻めの主軸の「竜」を盤上から消してしまえばよい。
4三同竜、同金、3二飛、4二飛、3一飛成、4八歩成。
ついに後手待望の4八歩成が入った。
中井はそれでも食いついて攻めていったが、林葉には余裕があった。
林葉直子が勝利。
挑戦者林葉直子、女流名人奪回にあと1勝。
次の第4局は、両者にとっていろいろと“問題の一局”となった。
林葉直子-中井広恵 女名人4
「先手中飛車」と同じ出だしで、8八飛と飛車を振ると「先手向かい飛車」となる。
この図を<基本図>としよう。
ここで、後手の次の手は「3四歩」がふつうである。
3四歩とすると、2二角成、同銀、5三角という手があるが、それは後手も5七角と打って、お互いに馬をつくり合う展開となる。「力戦型」というやつだ。ただし、これは先手にとってあまり魅力的な展開とはいえないようで、これを選ぶ人は昔から少ない。
なぜなら、2六角成、8四角成となった後、先手の玉だけが後手の馬のにらみで囲いにくいからだ。
大山康晴-塚田正夫 1962年
ただし、ここで9六歩と突いて9七角成とする手段が見つかって、それで2000年頃から、こうなる将棋が少し流行った。これなら、玉が囲いにくいのは“お互いさま”だから。
さらに5八飛と中飛車にここで振り戻す(「やまびこ飛車」という)指し方も生まれた。
<基本図>に戻って、居飛車側で指してここで気をつけなかければならないのは、3四歩とせずに6二銀とする変化で、これが手堅いようにみえて、実は危険な形ということを知っておくべきだ。これは▲8六歩の振り飛車からの仕掛けを誘発する可能性が大なのだ。島朗著『島ノート』(2002年発行)には、それで先手有利と示されている。
手順は省くが、だから、<基本図>では角道を開ける3四歩のほうが安全なのである。
先手のこの陣形は「升田流向かい飛車」とも呼ばれている。1960年代に升田幸三がよくこれを指していたからである。
升田幸三-加藤一二三 1962年
升田幸三の「向かい飛車」は、8六歩を狙ったり、角交換をして6六銀型をつくって積極的に動くものだった。
「向かい飛車」には常にこの「8六歩からの攻め」があるので、居飛車側はこれを警戒して神経を使う。
1960年代の経験の蓄積から、居飛車側はこの「林葉-中井戦」のように、6二銀、6四歩型にして、それから4二玉とするのが一番無難だと知るようになった。その後、1970年代から1990年代まで、ずっとこの型が「先手向かい飛車」に対する居飛車の型の主流として用いられてきた。
すなわち、<基本図>から3四歩~6二銀~6四歩とする。これで次に4二玉と上がる。
ところが今の主流は違う。
千葉幸生-真田圭一 2013年
現代ではこのように、6二銀も上がらず、6四歩も突かずに、10手目に4二玉とするのがプロで主流となっている指し方である。つまり<基本図>から、3四歩、6八銀に、4二玉。
(このあたりの事情を書きたい気持ちもあるが、長くなるのでここでは省略する。気が向けば別記事で書くかもしれない。)
中井は7三桂と跳ねた。次は6五桂がある。そこで林葉は4六銀と指した。この4六銀は珍しい手。
5二金右、6六歩に、そこで中井広恵は、6五歩と仕掛けた。
5五歩、6六歩、6八飛、8六歩。
中井の仕掛けが成功したようだ。
林葉、苦戦。先の4六銀の林葉の工夫が、結果的には実らなかった。
5八角。一気に襲いかかった。
この角は取れないので、林葉は3九金。
7六角成、5七金、7七馬、6三歩、4四桂。
明らかに後手中井が優勢だったが、この4四桂はおかしかった。いったん、6三同銀でなんでもなかったのに、何か勘違いがあったか。(3四飛が王手になるのをうっかりした?)
3四飛、3三歩、6二歩成、5六桂、同金、3四歩、5二と、4八銀、同金、同竜、4九金、同竜、同銀、7八飛…
中井、変調。
今、林葉が8九飛成としたところ。もはやどちらが良いのかわからない形勢になっているが、とりあえず中井はここで5四金とすべきところだった。
ところが中井の次の手は6八飛成。何だろう、この手は!?
どうやら中井は△8八歩から林葉の竜を召し取ってしまうつもりらしい。しかし、それは…。
残り時間は先手林葉19分、後手中井10分。(始めの持ち時間は各3時間)
5三歩成、8八歩、6九歩、5九竜、7九竜、6七馬、4三と、同玉、5五桂…
これは林葉が優勢になった。あまりにも妙な中井広恵の乱れ方だった。
林葉直子の勝ち将棋。これを勝ち切れば、林葉が女流名人に1年で復帰である。
しかし林葉の残り時間もあと9分しかない。
もっと着実な勝ち方もあったと思われるが、林葉は一直線に勝ちに来た。これを詰めれば林葉直子の勝ち。
3三歩、4三桂成、2二玉。
さあ、どうやって詰めるのか。残り時間はもう、1分になった。
『将棋年鑑』の解説ではここで、〔▲2三竜△同玉▲4一角で合い駒が悪く、即詰みだった〕とある。なるほどと思い、僕はその詰み手順をしばらく考えてみた。しかし読み切れないので、ソフト「東大将棋6」にかけてみた。するとソフトもその詰みを見つけられない。もしかすると、〔詰みがある〕という『年鑑』の解説が間違っている可能性がある。
きっと、当時の「盤側」ではそういう結論になっていたのだろう。
林葉の読んでいた詰み筋は3三成桂から清算して、4五桂と打つものだった。確かにこれで詰んでいそうな感じはある。だが、これは詰まないのだ。
(「東大将棋6」は、3三成桂、同桂、同竜、同玉、5五角、4四歩、4五桂以下の詰みを発見した。しかしこれは相当大変な詰み筋で、読み切るのは至難。)
4四銀を、後手が同玉なら詰む。しかし5四玉と逃げられて、詰まない。
林葉は5五銀、6三玉、5四角から追ったが、中井の玉は捕まらなかった。
中井広恵の勝ち。
それにしても、妙な流れの将棋だった。中井も、林葉も、どちらもいったんは手の内に入った「勝ち」を逃してしまっている。
終盤は林葉が華麗に攻めていったので、検討陣もそれを信用してきっと詰みを読み切ったのだと決めつけていたのかもしれない。途中で詰まないことがはっきりしてきて、騒然となったようだ。
しかしこのギリギリの局面を選んでしまったことが林葉の失敗だったということになる。中井は命拾いした。
ともかく、これでお互い2勝2敗。五番勝負の決着は最終第5局へ。
中井広恵-林葉直子 女名人5
後手番林葉直子の「英ちゃん流中飛車」。
山口英夫草案のこの5三歩型の中飛車は1968年頃に升田幸三も愛用している。一つの特徴として、この林葉のように5四銀と出ることができるということがある。しかしこう出ると、中飛車としては飛車は機能しないから、その後で4二飛などという活用になる。それなら最初から四間飛車に振って、5四銀でいいじゃないか、と筆者の子供の時はそれが疑問だった。今なら、少しはわかる。当時、振り飛車にとって、居飛車の「位取り」が脅威だった。それに対する対策の一つが「穴熊」であり、別の一つがこの「英ちゃん流中飛車」だったのだ。具体的には、中飛車にかまえることで居飛車の「5筋位取り」をけん制している。たぶん、6筋や7筋の位取りもこれで(具体的にはわからないが)けん制できているのだと思う。
「5四銀」と出る形は升田幸三もよく指しているが、林葉直子も好きそうな作戦だ。僕も昔升田をまねてよくこれを指した。次に6五銀として、先手の7六歩を取りに行く。これを「玉頭銀」と言う。
まあしかし、簡単には歩は取れない。
こうなった。7三歩成ととりあえずはやりたいところで、そう指さずに9六歩。これが中井広恵の好着想。次に9七角とするつもり。
6、7筋での戦いになった。後手はまだ角が戦いに参加できていない。
攻め合う。林葉の6五銀打に、中井は4八銀。しっかり受けて先手優勢。
2八角成、6三歩、同銀上、6五金、同銀、6二飛。
6二飛。すごい決め手だ。
こうなってみると、最後まで林葉の3三角は働いていない。
7二金、同飛車行成、同銀、6五飛成、6一歩、7四歩、6二金、6四銀、3八馬、7三銀打、同桂、同歩成、同銀、同銀成、同金、7四桂、同金、8一金、7二玉、7三歩。
投了図
最後は、美しくフィニッシュ。
中井広恵、女流名人を防衛。
この時、中井広恵さんは17歳。でも、高校生ではない。
中井さんは中学を卒業して、高校へ行く道を選ばなかった。中井は「奨励会」にも所属しており、将棋一本の道を選んだのです。
中井広恵さんの師匠は米長邦雄の師匠でもある佐瀬勇次です。佐瀬さんは、「棋士は高校へは行くべきではない」という持論を頑固にもっていた人で、米長さんもそれで対立したと後に話しています。中井広恵もまた、佐瀬師匠とそのことで対立したことがあるようです。だけれども、中井さんはそれに説き伏せられて高校へ行かなかったということではなく、よく考えて自分でその道を最終的には選択したようです。高校生活を人並みに送りたいという夢はやはりあったようですが、この時期に将棋に打ち込む時間は大事だと。そう決断した。
僕は1987年のこの時期、将棋界にはまったく興味を持っていない時期でしたので、この頃の情報は知らなかったことが多いのですが、林葉さんが大学に行っていたことは今回の調べで初めて知りました。薬剤師になろうと考えていたんですってね。
中井と林葉は2学年違いですが、気持ちは通じあって仲が良かった。でも、将棋は「いちばん負けたくない相手」。林葉直子が先にタイトルを獲り、しかも「二冠」になり、マスコミにも注目され――という状況であっても、中井広恵にとっては林葉直子は、目標とか上に仰ぐ存在ではなく、横に並んで当然のライバルという感覚であったようです。というのは、中井と林葉は「もともとスタートラインは同じ」だからです。二人は、同じ頃に新人女流棋士として戦って、林葉直子が結果的に初タイトルを獲った1982年の女流王将戦のリーグ成績も中井と林葉は同星で、プレーオフの結果林葉が挑戦者になっている。だから“わずかの差”という感覚が最初からずっとあるわけで、だから中井にとって林葉は「横並らび」の存在でした。その林葉がタイトルを取っているのなら、自分も当然取るだろうと思っていたようです。
中井広恵が17歳で「女流名人」、林葉直子が19歳で「女流王将」という1987年の女流棋界です。(当時の女流タイトルはこの2つ。)
中井広恵が「奨励会」に入会した頃(1984年)に、林葉直子はそれを退会しています。
「奨励会」では中井は勝てない日々が続き、それが日常となって、普段は兄弟子たちに「ひろべえ」と呼ばれていましたが、あまりに負け続けてやがて「くろべえ」と呼ばれ始めたということです。
それでも中井さんは20歳の年齢制限まで「奨励会」に在籍し、最後は「1級」で終えています。
「女流名人」はこうして中井広恵が辛くも防衛。
そして翌年は新たな強敵を迎えることになります。清水市代です。
今回の記事は最初『林葉の振飛車part7』としていましたが、中身を考えると、中井広恵さんが主役になっているのでタイトルを変更しました。
『林葉の振飛車 part1』
『林葉の振飛車 part2』
『林葉の振飛車 part3』
『林葉の振飛車 part5』
『林葉の振飛車 part6』
『女流プロの「角換わりコンプレックス」1』 石橋幸緒流の3手目7七角、高田流3手目7八金
『女流プロの「角換わりコンプレックス」2』 千葉涼子流角換わりオープニング(2六歩~2五歩)
『女流プロの「角換わりコンプレックス」3』 早水千紗流7七桂(3三桂)型角換わり
『女流プロの「角換わりコンプレックス」4』 後手一手損角換わりの登場と相腰掛銀
『「ヒロエ」、現わる。』 詰将棋「ヒロエ詰め」
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