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「お茶の水橋」周辺

2014年06月28日 | はなし

 JR御茶ノ水駅の東口。

 こっちから出ると、目の前に「お茶の水橋」がある。右に行けば「お茶の水橋」、左に行けば神田○○町という感じ。 御茶ノ水も含めこのあたり一帯は江戸時代から「駿河台(するがだい)」とも呼ばれている。



 御茶ノ水駅東口を出ると、なぜか楽器専門店が並んでいる。 たとえば、バイオリン専門店。



 そして、これはウクレレ専門店。




 「お茶の水橋」から西を望む。もちろん川は神田川。



 電車の行く先は「JR水道橋駅」である。



 広重『名所江戸百景』の「48景 水道橋駿河台」。 
 これは5月の端午の節句の風景。 そしてあの橋は「水道橋」である。
 (「安藤広重」という呼び方は間違いなのだそうだ。苗字を付けて呼ぶなら、「歌川広重」が正しいらしい。)
 「端午の節句」は、今では5月5日だが、江戸時代はどうだったのだろう?
 どうやら、旧暦の5月の最初の午(うま)の日だったようだ。とすると、現在の6月初め頃ということか。

 なぜ「水道橋」なのか。
 この絵の手前に「水道」がこの神田川を渡っていて(現代なら金属製の水道管だが、当時は水の渡る木製の“懸樋”)、そのそばに架かる橋だから。「神田上水」は、井の頭池(現在の三鷹市)を水源とする人工の川で、これは神田方面へ上水を供給する水道として造られた。その「水道」が、神田川とクロスしていた場所がここである。
 このあたり、詳しく正確に記述すると面倒なことになる。「神田川」も、時代によって名前も位置もエリアも何度も変化しているから。
 井の頭池を水源とする「神田上水」が、「関口」(文京区)で二手に分かれ、左が「上水道」となり、右が“余水”として「神田川」となる。その左手に進んだ「水道」が、「水道橋」の地点でクロスして江戸城方面の武家屋敷に流れていく、という構成である。(現代はその旧「神田上水」も、「神田川」と呼ばれている。)
 遠く井の頭からわざわざ「水道」を引っ張ったというのは、やはり「湧き水」でないと飲み水としては使えない、ということなのでしょうか。井の頭池すげー、と言わざるを得ない。



 「お茶の水橋」を渡ると、左手にビワの木があった。ビワの実は、6月の梅雨の今の時期が“食べごろ”だが、誰にも食べられることなく過ぎてゆくのだろう。 東京にはこのようにビワの木がよく見られる。
 どうやら神田川の北側のこの下の方のどこかで、昔むかし、良い「湧き水」が発見されて、それが「御茶ノ水」の名の由来になったようですな。場所は特定されていないようです。徳川第二代将軍秀忠の時代ですから、江戸時代の初期の話。



 振り返って駅と橋を見ると、こんな感じ。



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