はんどろやノート

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御茶ノ水「聖橋」周辺

2014年06月19日 | はなし
 JR御茶ノ水駅の「聖橋」から東(秋葉原方面)を望む景色。
 右手がJR御茶ノ水駅のホーム。川はもちろん神田川。斜めに渡っている電車は地下鉄丸の内線。
 奥に見える鉄橋はJRですが、そのむこうにかすかに見えるのが「昌平橋」ではないかと思う。
 左手に緑が繁っていますが、あそこらへんのさらに左に「湯島聖堂」があります。

 この写真を撮った日は小雨が降っていました。




 これが広重の『名所江戸百景』47景「昌平橋聖堂神田川」。
 「聖堂」というのは湯島聖堂のことで、 あの坂の向こうにそれがあったということ。
 手前の橋が「昌平橋」で、この絵は昌平橋から(上の写真とは逆に)西を望んだ景色になります。

 偶然ですが、この絵も、“雨”の景色ですね。


 このあたりは一帯が“台地”(神田山)だったんですよ。そこをザクッと掘削して「神田川」を作ったのです。つまり人工の川なんです。
 最初につくった「神田上水」が住宅の多いところを通っていたので、どうも増水すると洪水になって危険ということで、この川をつくったようです。この神田山を削って、その“土”は、品川などの埋め立て地に運ばれたんですね。




 江戸時代は、「昌平橋」があって、御茶ノ水の「御茶ノ水橋」と「聖橋」はありませんでした。
 この古地図は、上方向が南で、皇居(江戸城)のある方向です。川の左が秋葉原方面、右が水道橋方面となります。

  「昌平橋」は元々は相生(あいおい)橋と呼ばれていたが、湯島聖堂(朱子学を学ぶところ)の聖人孔子の生まれ故郷の「昌平」にちなんで「昌平橋」と呼ばれるようになった――とのこと。

 御茶ノ水がなぜ御茶ノ水というかというと――、ええと、忘れました。興味があったらこちらで調べてみてください。 
              →神田川のページ






 JR御茶ノ水駅のホームから見た「聖橋」。 なかなか味があります。
 この橋がつくられたのは1927年(昭和2年)。 設計は山田守という人だそうです。
 なぜ「聖橋」と名前が付いたかというと――



 この橋の北に「湯島聖堂」があって、南には「ニコライ堂」があるからです。2つの「聖堂」をつなぐ橋。

 なお、「湯島天神」はまた別にあって、「神田明神」のもう少し北のほうに離れて位置している。(「湯島天神」には菅原道真が祭られている。)




 あれが「ニコライ堂」。 この呼び名は愛称で、正式には「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」。
 ロシア正教の聖堂で、「ハリストス」とはキリストのこと。キリスト教が東(イスタンブール・ギリシャ正教)と西(ローマ・カトリック)に分かれて、ギリシャからロシアに渡ったのが「ロシア正教」。
 
 「ニコライ堂」と呼ばれているのは、1861年に日本に来た伝道師ニコライ(イワン・カサートキン)による。ニコライが日本を赴任の地として選んだのは、青年の時、図書館で、ゴローニン(海軍軍人・探検家)の著書の『日本幽囚記』の中に描かれていたある日本人に会ってみたくなったからということである。江戸末期の船問屋の天才船長だった高田屋嘉兵衛のことである。どういうところで嘉兵衛を天才とするのかといえば、大阪から関門海峡をまわって函館(松前)に荷を運ぶということを仕事としていたが、生涯、一度の事故も起こしていないということです。
 日本に来て、ニコライさんは高田屋嘉兵衛を探したが、嘉兵衛はすでに死んでいて会うことはできなかった。

 ある本に書いてあったが、ニコライは「聖歌」にたいへんに力を入れていて、このニコライ堂の聖歌隊の合唱はとても人気があったとのことです。ラジオも蓄音機もない時代ですから。遠くから聴きに来る人もいたとか。


 僕は一度、この「ニコライ堂」の中を拝観してみようとは、前から思っていますけれど、まだ、行っていません。





 さて、サッカーW杯「コロンビア-コートジボワール戦」を観よう。

 そしていよいよ「日本-ギリシャ戦」ですね!
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