はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

「ちょっと風呂入ってくる」の一局

2014年06月05日 | しょうぎ
 将棋ファンのみなさん、『将棋世界』最新7月号は“買い”ですよ。  面白い記事がたくさん載っています。  (写真のとなりの本は、僕が『将棋世界』と同時に勝った三浦弘行の矢倉の本。今回の記事との関連はとくにありません。)


特によかったのが池田将之さんの『関西本部棋士室24時』。

 今回のこの記事は、奨励会の青年三人の3段リーグでの3月の戦い中の、彼らのそれぞれの心の動きを取材している。「三人」というのは、このリーグをついに勝ち抜いて新プロ棋士となった宮本広志、星野良生の二人と、それから、今回年齢制限をむかえて退会することに決まった竹内貴浩さん。
 竹内さんは、すでに最終日より前に「退会」が決まっていて、最終日は消化試合だった。最終日はのびのび戦い、2連勝(奨励会の3段リーグは1日に2局を指す)でフニッシュ。その日、週刊将棋の記者にこう言ったそうだ。「振り飛車を指したのですが、どうも向いているようで、気付くのが遅すぎました。」なんとさわやかなコメントだろう。竹内さんは地元の名古屋で“指導棋士”をやるそうである。


 鈴木宏彦さん構成の『イメージと読みの大局観』も内容がよかったです。
 その中で、江戸時代の「伊藤看寿-四代大橋宗与」の将棋が取り上げられていました。
 この将棋は「魚釣りの一局」としてちょっと有名になっている将棋です。

 それで、僕はこの将棋を初めから全部並べてみたいと思いました。それをこれから鑑賞してみることとしましょう。

 まず、これがどうして「魚釣りの一局」と呼ばれているかと言えば、この対局を指している伊藤看寿のことを心配する兄の宗看が、看寿の指したある一手を見て、(これで大丈夫と安心して?)魚釣りに行った、という逸話があるからです。
 しかし、本当に兄の宗看が魚釣りに行ったかというと、その話を信じている人はほとんどいないでしょう。それはたぶん周囲の人がつくったジョークでしょう。
 現代では、サッカーなどをネットで交流しながら観戦している人たちが、ひいきのチームが点を入れた時に、「風呂入ってくる」というのがジョークになっていますが、それと同じことでしょう。本当に風呂に行く人はまずいない。 (ワールドカップ、始まりますね!)



 では、その魚釣りの一局、「伊藤看寿-四代大橋宗与戦」の棋譜を具体的に鑑賞します。 1745年11月17日の対局です。この11月17日というのが、江戸時代、「御城将棋」が毎年行われた日なのです。 将棋御三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)にとって、重大なイベントでした。
 1745年ですから、これは江戸時代中期の物語となります。
 この将棋は、看寿にとっても、宗与にとっても、「負けられない重要な勝負将棋」なのでした。


図1
8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △8四飛 ▲8八飛 △6二銀 ▲4八玉 △4二玉
▲7八銀 △3二玉 ▲9六歩 △1四歩 ▲9五歩 △6四歩 ▲1六歩 △6五歩
▲3八玉 △5二金右 ▲4八銀 △7四歩 ▲2八玉 △7三銀 ▲3八金
 今では見られない「右香落ち」の将棋です。

 上手の大橋宗与は、大橋分家の四代目当主で、この年37歳(数え)。
 六世名人だった三代目大橋宗与の息子。

 一方の伊藤看寿は詰将棋で有名なあの「看寿(かんじゅ)」です。この対局当時は27歳。そして兄はあの「伊藤宗看(そうかん)」です。伊藤家初代の「宗看」の名を継いで伊藤家の三代目となり(なので「三代宗看」と呼ばれる)、この時、七世名人でした。その宗看は看寿よりひとまわり年上で40歳。才能豊かなこの弟看寿に、「名人」を継がせたいという期待をもっていました。(年齢はすべて数え年)

 つまりこの勝負は、伊藤宗看の次の「名人」をだれにするかという話がいつか持ち上がってきたときに、その判断材料となる一戦なのでした。 「伊藤家」vs「大橋分家」です。
 年齢的には、宗与は宗看と近く、この二人はこれまでずっと戦ってきたのでした。 宗看は名人、宗与は八段です。



図2
△7五歩 ▲同歩 △6四銀 ▲9四歩 △7五銀 ▲9三歩成 △8六歩
 さてこのような駒組みとなりました。これを見て、あなたはどういう感想をお持ちになりますか。
 270年前の将棋ですが、古臭くない、どころか、最先端の将棋のような新鮮な香りさえ感じられませんか。

 この局面、どうして上手は(△3四歩と)角道を開けないのか。

 それはこういうことなのです。
 「右香落ち」という対局はこれより100年以上も前からあるのですが、ずっと「角交換」をしない将棋だった。
 ところが1716年に、「右香落ち」で先手から2二角成と角交換する将棋が現れ、それが徐々に流行りはじめたのがこの時代なのです。
 そして、それ(下手からの角交換作戦)を最初にやったのが、実はこの対戦の上手をもっている四代大橋宗与なのでした。 (その将棋はあとで簡単にですが紹介します。)
 それ以降、「どうやら角交換は下手が指しやすいようだ」ということで、だんだんと上手のほうが「角交換」を避けるようになり、それが「右香落ち」の主流になってきたのです。角交換をすれば、上手側には、9一、9二に角打ちのスキがあるのでどうも困ることが多いのです。

 そういうわけで、上手は角道を開けないで駒組みを進めるようになった。この対局の上手番の宗与さんも「角交換は下手が指しやすい」とたぶん思っているのです。


 この図から、上手が仕掛けました。 7五歩、同歩、6四銀。 「相掛かり」の将棋のような軽快な動きです。


図3
▲9四と △5四飛 ▲9八飛 △8七歩成 ▲同銀 △6六歩 ▲7八銀 △6七歩成
▲同銀 △7六歩 ▲8八角 △8七歩 ▲9七角 △7四飛 ▲9五と △7三桂
 角道を開けないまま上手は攻め、下手の角を目標とします。
 下手の看寿は、9筋からと金を作りました。そのと金を9四→9五と引きつけます。
 宗与が攻め、看寿がぎりぎり交わす――という展開。


図4
▲7八歩 △3四歩 ▲5六銀 △6六銀 ▲6四歩 △6二歩 ▲6八金 △5五銀
▲6七銀 △6四銀 ▲8五歩
 上手宗与は7三桂と桂馬を使う。下手看寿はここで7八歩。
 そしてそこで、宗与、△3四歩。 ついに角道を開けた。


図5
△7五銀 ▲6九歩
 8五歩は、次に8四とのねらい。 宗与の指し手は、7五銀。
 そこで看寿の指した次の手が、有名な“魚釣りの歩” 。


図6
△3三角 ▲8四と △同銀 ▲同歩 △9六歩 ▲8六角 △8八歩成
 「6九歩」。 これが兄宗看がこれを見て勝利を確信した、という“魚釣りの歩”。
 8四とと攻めたいところで、攻めないで6九歩、これで「よしよし、落ち着いているなあ、これなら大丈夫」、ということでしょうか。
 受けるべきところを、しっかり受けたわけですね。

 しかし実際のところは、これで先手良しなどと言える形勢ではないようです。「互角」というのが正しいところのようです。感覚的には、上手のほうを持ちたい人がむしろ多いのではないだろうか。

 上手宗与は3三角。これはどういうことでしょうか。下手の看寿が動かなければ、上手は玉の整備をするのでしょうか。だとすると、2二玉~3二銀、さらに銀冠にするみたいなことでしょうか。(現代なら穴熊も…)
 上手のほうにはそういう手がありますが、下手の看寿にはあまり有効な手はなさそうです。
 ということで、ここで8四とと、看寿は攻め合いを選びます。宗与も、「それを待っていたぜ」、みたいな感じでしょう。


図7
▲9六飛 △8七と ▲8三歩成 △8六と ▲同飛 △9九角成 ▲8四と △6四飛
▲7三と △2四香
 しかし8八歩成のこの場面を見ると、一目、下手が攻められてたいへんに見えますね。


図8
▲8二飛成 △3三馬 ▲5六銀 △8八歩 ▲9七桂 △8九歩成 ▲7四桂 △4九角
 こうなりました。
 駒割りは、下手の「角香」と、上手の「銀桂」との交換。上手が少し駒得。
 でも、下手は「と金」がある。あの「と金」がどれだけ働くか。

 雰囲気は、上手好調ですね。


図9
▲7五銀 △7四飛 ▲同銀 △3五桂 ▲3九玉
 下手の7五銀に、「読み筋通り」とばかりに、宗与は7四飛と桂馬を食いちぎって、それを3五に打つ。
 下手、どう受けたか。 3九玉。 飛車と歩しかない下手には適当な受けがないですね。


図10
△3八角成 ▲同玉 △2七桂成 ▲4九玉 △7九と ▲6七銀
 看寿は2七の地点を明け渡し、上手の攻めの焦りを誘う。 でも、受かっているのか。


図11
△7八と ▲同銀 △7七金 ▲8六龍
 上手は、下手玉を左右から囲んで、“挟撃体制”となっている。
 この場面が、『将棋世界』の『イメージと読みの大局観』で採り上げられた場面です。

 ここで上手がどう指すのがよいか、というのがテーマでした。

 加藤一二三九段、森内俊之竜王、豊島将之七段は、ここでは「2八成桂」として、次に2七香成を狙うのが厳しいという。加藤さんはその手できっぱり「上手良し」と判定。
 また、郷田真隆九段は、7七歩成、同歩、6九とでも、下手の受けがむつかしい。しかしその前に、「4二金寄り」と指したいという。鈴木大介八段も、やはり「4二金寄り」がよいという。永瀬拓哉六段は、自分なら「5一金寄」と指すだろうと。郷田、鈴木の判断は「上手良し」。

 総合すると、「ほぼ互角だが、下手大変では?」、あるいは「上手良し」というのが、現代のプロ棋士の感覚のようだ。
 森内竜王は、「2八成桂」に、5六歩でどうかといい、豊島八段は、「2八成桂」に、8四角としたいという。これらの意見も、下手が頑張るなら、というニュアンスです。

 (なお、ソフト「激指」の評価も、ここらへんはずっと「互角」である。候補手も多く、どれを指しても「互角」。)

 実戦は、7八とから、7七金。
 対して、看寿、8六竜。


図12
△7八金 ▲同金 △7七銀 ▲7六龍 △7八銀成 ▲同龍 △7七金
 この8六竜があるから、自分の勝ちだ、と看寿は読んでいたかもしれない。


図13
▲5八龍 △7八歩 ▲7二飛 △6六馬 ▲6二と △4二金寄 ▲8五角
 下手の「竜」を捕獲してしまえば、上手が勝つが――。


図14
△7五馬 ▲6三銀不成 △8五馬 ▲同桂 △7六角 ▲2五歩 △同香
▲2四歩 △同歩 ▲5六角 △6六歩 ▲3五銀
 下手看寿は「8五角」。
 結果を知った上でこの図を見ると、この「8五角」は駒音高く打たれたように思ってしまう。「勝ちました」と高らかに宣言するかのように。


図15
△5八角成 ▲同玉 △6七歩成 ▲5九玉 △6四飛 ▲5五角
 受けを読み切った看寿は、攻めに転じた。3五銀と打って、これは2三金、同玉、3四銀からの“詰めろ”。
 宗与は5八角成と飛車を取って、6四に打つ。 攻防の手だが、形つくりだろう。


図16
△3三金 ▲5二と △6二歩 ▲同飛成 △2三玉 ▲4一と △7九歩成
▲3四銀 △同飛 ▲同角 △同玉 ▲3五金
 5五角(図)以下、下手、寄せ切る。


投了図
まで144手で下手の勝ち


 宗与にとっては、惜しい内容の勝負でした。

 あそこ(図11)で、7八とと攻めたのが、どうやらよくなかったらしい。そこまでは、むしろ宗与ペースの将棋で、ずっと看寿の耐えしのぶ展開でした。 「何か」手があれば上手が勝ちでした。そしてその「何か」はたぶんあったのです。
 おそらく以前からそういうことがあの局面について言われていて、それで鈴木宏彦さんが『将棋世界』で今回採り上げてみたのだと思います。

 看寿が、絶体絶命の包囲網をイリュージョンで脱出したような、そういうイメージが正しいかもしれません。
 本譜のように上手が7八とからの攻めにくれば、「8六竜で勝てる」と読んでいた看寿に対し、四代宗与のほうは「8六竜の受けならなんとかなる」と甘くみていたのではないかと感じました。
 (決して、“魚釣りの歩”で下手勝ち、というような単純な将棋ではなかったですね。)


 このように、若いほうの看寿が勝ったので、次に両者が対戦するとすれば、「平手」または「左香落ち」となって、つまりは、「同格」にちかいところまで看寿の力が伸びてきたことの証明となったわけです。(この対局まではこの両者の手合いは「角落ち」でした。)
 この対局時、段位は、宗与が八段で、看寿が六段です。たぶんこの勝負に勝って、看寿は七段に推されることになったのでしょう。
 当時の最高段は八段です。「八段」は名人候補というような、そういう意味でもあるのです。

 伊藤家の「宗看の次の名人は看寿で」という野望が、着実に一歩進んだということです。



 (しかし、実際にはこの対局の15年後ですが、看寿のほうが先に死んでしまうことになり、伊藤家の望みは実現しませんでした。看寿が死に、次いで宗看が死んで、その数年後に四代宗与も死んで、結局その後しばらく「名人位の空位」が続くことになりました。)

 



四代大橋宗与-七代大橋宗桂(右香落ち) 1716年御城将棋

さて、これは上の対局で看寿と戦った四代大橋宗与(大橋分家)と、大橋本家の七代目大橋宗桂との一戦です。

 宗与は1709年生まれなので、この時は数えで8歳ということになるのですが――、そして、これ、やはり「御城将棋」なのです。
 この図のように、「右香落ち」の将棋で、歴史記録上最初に▲2二角成と、「角交換将棋」にしたのが、彼、四代大橋宗与です
 この将棋以前には、この▲2二角成の手では、ほとんど▲6六歩と指されていました。約100年の間。 下手のほうから角道を止めていました。
 それを、数え8歳の子供が▲2二角成の新手で、新定跡を切り開いたわけですね。「振り飛車は6六歩とするもの」という先入観をとっばらったのです。

 「角交換振り飛車」の始祖は四代大橋宗与だった、のです。


 なお、相手(上手)の七代宗桂は、大橋本家の七代目。  五代目の宗桂(四世名人、実は伊藤家の出身、初代宗看の息子)が1713年に亡くなり、急遽六代目となった大橋宗銀も翌1714年に20歳の若さで死んでしまい、その後に、大橋家養子となって七代目を継いだ人。 記録資料がなく、元の名も、出身もわかっていない。 そしてどうやら残っている棋譜は5つだけらしい。
 この対局時、七代宗桂は28歳くらいと推定される。



 そして、この将棋はこうなります。
 そう、「角交換四間飛車」です。
 「角交換四間飛車」を最初に指した男、それが四代大橋宗与(8歳)なのでした。


参考図3
 この将棋は、下手の宗与が勝利しました。
 大橋分家ではこの勝利に大いに湧いたことでしょう。 それはそうです。 8歳の少年が、大橋本家のトップに「香落ち」で勝利したのですから! (数えで8歳ということは、今で言うと小学1、2年生の子供ですよ!) 

 四代宗与こそ、分家の“希望”であったと思われます。

 



 ところで、この四代大橋宗与は、「初代大橋宗桂の血」を受け継ぐものでした。つまり偉大なる「初代名人、宗桂」の血です。
 男性方の血縁を正統とするならば、大橋本家はすでにその血統を絶やしていましたし、伊藤はもとから違います。
 大橋分家だけが、「初代名人=大橋宗桂」の血統を残している家でした。それが大橋分家の誇りだったでしょう。大橋分家こそ、名人を出すにふさわしい家だと。

 その大橋分家の三代目の宗与は、名人(六世)になりました。大橋分家からの初の名人の誕生でした。1723年~28年のことです。
 そして、その誇りある大橋分家の、期待を背負って生まれ、育ってられてきた男、それが四代大橋宗与です。1728年に父が亡くなり、20歳の息子が次の「宗与」として四代目を継ぎました。



 ですが、彼、四代宗与の進む道は険しかった。彼の行く前には、怪物のように将棋の強い伊藤家の息子たちが道を立ち塞いでいました。
 伊藤宗看、宗寿、看恕、看寿。 みながみな、とんでもない才能の兄弟でした。 (長男の印達は15歳で早世したが、彼もまた天才と呼ばれていた。三男宗寿は大橋本家の養子となり、大橋本家八代目を継いだ。いちばん地味だった看恕も七段まで昇った。)
 四代大橋宗与は、伊藤家の“怪物たち”と、たった一人で闘わなければならなかったのでした。(大橋本家はすでに伊藤家の血に乗っ取られた状態ですから。)

 まったく、マンガの主人公のような立ち位置じゃないですか!

 正義の血統をもつ大橋分家四代目が、外来種――宇宙からやってきたインベーダー伊藤一族――と戦う…(笑)。





 伊藤家(宗看、看寿)と大橋分家(宗与)の戦いは、「魚釣り」というようなのんきな感じとは真逆の、息苦しい、緊張感を持ったものだったと思います。その緊張感でとげとげした対局を、「魚釣り」というほのぼのした話で包みくるんで江戸時代の人々が無意識にバランスをとったと、そういうことかもしれません。

 あるいは、“勝者が歴史をつくる”で、伊藤家のだれか調子者が「あの将棋はあの底歩(魚釣りの歩)からヨユウだったなフフフフ」と吹聴し、それがそのまま信じられたということかも。





 大橋分家の「初代名人宗桂の血」も、この四代目の宗与で終焉となります。

 大橋分家からは、しかし、数十年後の江戸後期、大橋宗英(大橋分家六代目)が現れ九世名人になっています。また有名な大橋柳雪も、大橋分家で育った人物です。(大橋柳雪の関連記事→『31年前の羽生・森内戦 横歩取り4五角戦法』)




 墨田区にある本法寺。ここに伊藤家の墓があり、宗看、看寿兄弟らもここに眠っている。
 2年前この記事(『南禅寺の決戦6 名人位の返上』)中に本法寺について書いた時には「本所相生町の本法寺」と紹介したのですが、今は本所相生町はなくなって、「横川1丁目」になっているようですね。




 今回の記事は、僕にとっては、四代大橋宗与のキャラを発見したことが収穫でした。





[追記、訂正です]

 この記事を書いた翌日に、重要な間違いが判明しましたので報告します。

 記事中、歴史上「右香落ち」で最初に2二角成からの角交換をしたのが1716年の四代大橋宗与、としたのですが、これが間違いだったことがわかりました。 1つ、棋譜をみつけました。すでに1600年代に、2二角成の角交換を指している人がいたのでした。さて、それを指したのはだれでしょう? ここではもったいぶって、その答えを書かないでおきます。いつか別記事でそのことに触れるかもしれません。
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