はんどろやノート

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犬吠埼灯台とチャレンジャー号

2009年11月06日 | はなし
 犬吠埼灯台は関東の最東端千葉県銚子市にある灯台です。 1874年11月初点灯。
 犬吠埼灯台を描いて、それだけでは物足らないので何か船を描こうと思い、それでチャレンジャー号を描いてみました。


 「チャレンジャー号」と聞くと、あのフロリダの空に砕けて散ったNASAのスペースシャトルを思い浮かべる人が多いだろう。でも、それではない。
 このイギリスのチャレンジャー号が日本にやってきたのは1875年4月のことで、今から134年前のことになる。(つまり犬吠埼灯台が点灯した半年後だ。) この船は、「世界の深海の生物相を調べよう!」という壮大な計画の途中、日本に立ち寄ったのである。
 先の9月、しょこたん中川翔子がしんかい6500に乗って海にもぐったらしい。僕はそのTV番組を見損ねてしまって残念に思っているが、この深海探査船チャレンジャー号は、そのしんかい6500のルーツともいえる船なのである。


 さてチャレンジャー号の色々なことは後にまわして、まず、犬吠埼灯台の話をしよう。


  いやなんです
  あなたのいってしまふのが――


 これは高村光太郎智恵子抄』のいちばん最初にある詩「人に」のその冒頭の部分である。「あなた」というのはもちろん智恵子のことで、後に光太郎と結婚し、さらには精神をくずしていく…。 そんな妻智恵子のことを詩に綴ったものを集めた本が『智恵子抄』である。
 上の「人に」の詩を書いたのは明治四十五年(1912年)七月、その場所というのが、この犬吠埼灯台のある場所なのである。この夏、二人はそこでデートをしたらしい。
 「いやなんです」というのは、この時、実家のほうから智恵子に見合いの話が来ていて、それを光太郎が気にして、「どうか見合いを断ってほしい」とお願いしているのである。なんともカッコわるい、しかし、ストレートでわかりやすい詩である。

 高村光雲の息子高村光太郎がアメリカ、ヨーロッパを旅した(アルバイトもしたようだ)のは1906年から1909年。 光太郎の芸術の友である萩原守衛(碌山)が死んだのが1910年。 そして1912年に長沼智恵子と出会う。長沼智恵子という人も芸術家で、日本女子大卒業後も実家(福島県)に帰らず画の勉強をしていたらしい。この当時28歳だった。
 この犬吠埼での二人のデートは、“写生旅行”だったようだ。


 犬吠埼に僕は行ったことがありませんが、灯台のある岬は“石切の鼻”と呼ばれ、付近には“幌掛岩”という奇怪な岩があるようです。 僕の描いたこの絵の向こう側は砂浜になっています。
 そしてこの灯台は、135年の風雪に耐えてここに立っています。
 犬吠埼灯台の施工者はリチャード・ヘンリー・ブラントン。 スコットランド(イギリス)からやって来ました。文献では彼のことはしばしば「日本の灯台の父」と紹介されています。


 11月1日は灯台記念日なのだそうです。
 それは日本ではじめて(洋式の)灯台の工事が着工された日が11月1日だったから。 日本の最初の洋式灯台は、東京湾の入り口の横須賀にある観音崎灯台で、1869年2月初点灯。 施行したのはフランス人F.L.ヴェルニー。 ただし観音崎灯台は今は3代目となっています。

 アメリカの黒船来航によって、江戸幕府は強引に「開国」をすることになり、その時に交わした条約の中に、いくつかの場所に「灯台」を造るという約束があったのです。それで江戸幕府は、洋式の灯台を建築する技術者を派遣してもらうよう、フランスとイギリスにお願いしました。フランスからやって来たのがF.L.ヴェルニーでした。
 それで、イギリスへの灯台技師派遣の話はスコットランドの「スティーブンソン兄弟社」のところに行きました。 そう、あの伝説の灯台技師ロバート・スティーブンソンの息子たちデヴィッドトマスの会社です。(このトマス・スティーブンソンの息子が作家ロバート・ルイス・スティーブンソンで、『宝島』の作者。) トマスは、日本から灯台技師を送ってほしいという願いがくると、「それならこの男がいい」といって派遣したのがスコットランド人R・H・ブラントンというわけです。
 そういうことで、ヴェルニーとブラントン、「日本の灯台の父」は、二人います。
 彼らは明治時代に日本にやってきたいわゆる「お雇い外国人」ということになりますが、それらの外国人の中でも多かったのがスコットランド人だったようです。スコットランドは技術の輸出国だったんですね。(そういえば蒸気機関の発展はスコットランドで起こりましたね。)
 
 

 さてそれでは、チャレンジャー号の話。
 
 この深海探査船の大計画の団長としてやってきたのがやはりこれもスコットランド人のチャールズ・W・トムソン。エディンバラ大学教授。エディンバラ大学がこの学問調査の中心地となったのでした。


 「海の底の生物相はいったいどうなっているのだろうか」

 それが彼らの知りたいことだった。 地中海、北海、大西洋の海を調べた彼らは深まる謎をさらに調べるために、いっそ世界中の海の深海調査をしたらどうかと考えたのである。そして、実行した。さすが19世紀の世界の海を制覇していたイギリスだからこその発想と実行力であった。

 世界の深海を調査する――その使命を担って、1872年12月イギリス・ポーツマス港を出港したチャレンジャー号は、大西洋、カリブ海を調べ、アフリカ南端ケープタウンを廻り、インド洋、南極海へ行く。 そこからオーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア近郊の海を調査、そして次の目的地が日本であった。
 この船には軍事的な目的はまったくなかったから、日本でも歓待を受けた。1875年4月11日、東京湾入りしたチャレンジャー号は、横浜でしばし休日を過ごし、その後、相模湾、瀬戸内海、そして最後に房総半島沖を調査した。
 調査団メンバー達は日本が大変に気に入り、「ここにもう一度来たいと思わない人はいないだろう」と書いている。彼等は人力車の人夫に驚いた。どれだけ走ってもまったく疲れた様子をみせず、声をかければいつでもサワヤカに返事が返ってくるのである。
 日本での最後の調査、房総半島沖でも彼らはたくさんの収穫(生物標本)を得ることになったが、その中でももっともインパクトのあるものが、巨大ヒドロポリプの発見であった。これは2メートルを越す巨大な生物で、このように海の底はワンダーにあふれた世界だったのだ。

 そして1875年6月16日、チャレンジャー号はハワイに向けて出発したのであった。



 深海探査船チャレンジャー号がイギリスに戻りついたのは1876年5月。じつに3年半の航海であった。
 出発時、調査団、士官、一般水兵総勢243人――帰ってきた時には144人になっていた。その内6人が航海中に病気や事故で死亡、26人が不健康となって下船、そして61名の水兵が逃亡した。逃亡した水兵の多くは、南アフリカでのダイヤモンドラッシュ、オーストラリアでの金鉱ラッシュに飛びついた男達であった。


 チャレンジャー号の深海調査団のメンバーには、団長のトムソン(博物学者)の他に3名の博物学者と1名の化学者がいた。そのうちの一人は、航海中に太平洋で病気になり命を落とした。
 彼らが持ち帰った標本を記録しまとめる仕事が残っていたが、それは膨大なもので、彼らだけでは無理だった。イギリスだけでは人手が足らず他国の学者の協力も仰ぐこととなり、エディンバラ大学は海洋学の国際センターのようになった。その『チャレンジャー・レポート』が完成するまでにはなんと19年かかった。
 C・W・トムソンは、しかし、その途中で亡くなった。1882年、52歳であった。

 チャレンジャー号のメンバーの一人に博物学者ヘンリー・ノティッジ・モーズリーがいる。彼はこの海洋探検を『チャレンジャー号上の一博物学者の記録』として記し好評を得た。モーズリーがこの探検調査に参加したのは28歳の時、しかしこのモーズリーも1891年、47歳の若さで亡くなった。あとに三人の幼い子を残して。
 そのうちの一番下の子どもは、まだ3歳だったが、やがて成長して物理学者となる。オックスフォード大学を出て、さらにアーネスト・ラザフォードのもとで学び、科学史における重要な発見をする。
 それを、「モーズリーの法則」という。




 ふーッ。 書きつかれたよ…。 (なにしてんだ、オレ?)