はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

カギムシと「モーズリーの法則」

2009年11月08日 | はなし
 カギムシ、という。
 この生物は日本ではお目にかかれない。ミミズに足がはえたような妙な生物らしい。南半球にいるらしい。
 この生物はどうやら「生きた化石」であるらしい。進化のカギを握り、太古の姿のままでその姿を保存してきた。 (だから日本名が「カギムシ」なのか…それはどうだろう? 興味のある方は自分で調べてください。)

 カギムシの参考ブログ → http://umafan.blog72.fc2.com/blog-entry-740.html
              http://ameblo.jp/oldworld/entry-10005755849.html

 上の絵は、深海探査船チャレンジャー号の調査に参加したヘンリー・ノティッジ・モーズリーがケープタウン(南アフリカ)で見つけ研究したもので、ケープカギムシ(和名)である。この時のものは体長8cmだった。

 このH・N・モーズリー(モーズレーと表記されることもある)ももちろん日本にやってきたことになるが(1875年)、彼らは神戸港に船を停泊した時、人力車に乗って京都まで行っている。 そしてこのモーズリーは京都で仲間とわかれ、単独で陸路東海道を旅している。あとで横浜で合流してチャレンジャー号に乗ることになるのだが、その東海道の旅路でモーズリーがおおいに感心したのが、同行した「田中」という名の書生だった。気の利くさっぱりした男で、夕方旅館に着くと、その日にあった体験などを俳句に読んでさらさらと帳面に筆記するのだった。モーズリーの目にはそれがとてもかっこよく映ったのだった。



 さて、すでに前回記事に書いたことの繰り返しになるが、このH・N・モーズリーはイギリスに帰ってこのチャレンジャー号体験を『チャレンジャー号上の一博物学者の記録』として本にした。そして1891年帰らぬ人となる。
 その時に3歳だった息子が、後に物理学者となり、「モーズリーの法則」を発見し、科学史に大きな貢献をすることになる。 名前は、ヘンリー・グウィン・ジェフリーズ・モーズリーである。


 20世紀の初頭――。 アルゴンやネオンなど希ガスの発見。 キュリー夫人のポロニウム、ラジウムの発見。「新元素」が次々と現われ、メンデレーエフの周期律表の大部分が埋まってきた。 そうなると、残りの空白を埋める「新元素」を発見したいと化学者たちが考えるのは当然の成り行きといえた。
 しかし、だれかが「新元素を発見しました!」と言っても、それが正しいのかどうか、それを判定するのがまた難しい。フクザツに混じり合っている物質の中から「それ」だけを分離し、性質を調べ、重量を測る――しかし、そのような新元素は元々微量にしかないものだから(それで発見に苦労しているのだから!)、スペクトルを調べるほどの量もとりだせないのだった。
 なにか他にそれが何の元素であるか調べる便利な方法がないものか――。

 あったのである。
 それが「モーズリーの法則」である。


 物質にエネルギーをあたえると「励起状態」というものになる。これは「反応しやすい状態」のことだが、その時にその物質の「電子」が軌道を移動しやすい状態になる。その「電子」がの軌道から軌道に移動するとき、その物質に特有の周波数の「X線」が発生することがわかってきた。それを「特性X線」というのだが、モーズリーはそれを研究した。そして直感と粘り強い研究の成果が「モーズリーの法則」という関係式となって表れたのだった。


 この「モーズリーの法則」によって、「特性X線」の波長さえ調べればその物質の原子番号が判る、ようになったのだ!


 つまり物質が発する‘特性X線’の波長は、「私の原子番号は○○です」と自己申告してくれているようなものだった。 (もっとも、私たちが今使っている「原子番号」というものは当時の化学の世界にはなく、これより50年後に正式に採用されたらしい。)
 「モーズリーの法則」は、混乱していた物理・化学の世界を整理するのに多大な貢献となった。これを使えばその物質が何であるかを確認するための様々な分析作業がすべて省けるのである。
 H・G・J・モーズリーがこの法則を発見したのは1913年、弱冠26歳の時である。 これはノーベル賞級の発見であったが、ノーベル賞委員会もそれは認めつつ、しかしまだ発表されたばかりであったし、それに若いモーズリーにはまだ未来がある。モーズリーほどの優秀な物理学者ならさらに重要な発見をする可能性もある。そう、いつだってノーベル賞は授与できるのだし、と思っていたようだ。
 ――ところが、そうではなかった。 翌年、モーズリーは死んでしまう。

 モーズリー自身は、自分の発見した法則を使えば、まだ発見されていない「新元素」が発見できると意欲を燃やしていた。  いまだ未発見の元素は(これもモーズリーの法則のおかげではっきりしてきたのだが)、原子番号43、61、72、75が残っていた。


 1914年、第一次世界大戦が始まる。 彼は陸軍に志願する。
 そして27歳H・G・J・モーズリーは戦場に散った。 トルコ・ガリポリの戦い――彼の加わったイギリスの部隊は全滅だった。
 ノーベル賞委員会は彼にノーベル賞を与えておかなかったことを悔やんだという。(この賞は死者に贈ることはできないのだ。)


 モーズリーの戦死の報を聞き、彼の物理学の師であったアーネスト・ラザフォードは、大声を出して泣いたという。
 3歳の時に父を亡くしたH・G・J・モーズリーと、A・ラザフォードの関係は仲の良い父子のような関係だったかもしれない。戦争が始まったその瞬間、ラザフォードとモーズリーはイギリス科学振興協会の会議のため海のむこうオーストラリアにいたのだった。
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