1952年と1955年の朝日新聞の将棋欄のA級順位戦の観戦記を読もうと思い、図書館へ行きました。当時の将棋欄は夕刊に掲載されていました。
上の映画の広告は1952年のもの。
これら映画広告を見て、ついでに1954年の暮れの紙面も調べてみました。映画『ゴジラ』の広告を見てみたかったからです。
しかし、見つかりません。考えてみれば、すべての映画の広告が新聞に出されるわけではないのですが。
しかし、『原子怪獣現わる』という題名の映画広告があって、これが『ゴジラ』か!と、一瞬、思いました。
↓
が、これは違いました。これは大映の配給らしいですが、アメリカのハリウッド制作の映画です。日本の東宝の『ゴジラ』は1954年11月の初上映とのことなのですが、この『原子怪獣現わる』はその1か月後の上映になります。
そしてどうやら、この映画も、『ゴジラ』と発想がほとんど同じです。日本とアメリカとで、同時に同じような内容の怪獣映画が作られたことになるのですが、これは偶然でしょうか。偶然に同じ発想をしたとしても何の不思議もないですが、アメリカが、あるいは日本が、海の向こうからの伝え聞こえたアイデアを流用したということがあっても、これまた不思議ではありません。
(『さいざんす二刀流』ってどんなのか気になる~。漫画キャラ“イヤミ”の源流か?)
さて、前回記事の続き、1950年代に少し流行った“横歩取り8二飛戦法”のプロ棋士の棋譜を見ていきます。
今日の棋譜は次の2つ。
(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)
(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
先手が「3四飛」と‘横歩’を取ったところ。
そこで「8二飛」と引くのが、“横歩取り8二飛戦法”。
その「8二飛」に対しては、5八玉や、8七歩とする指し方もあり、その棋譜を前回は紹介しました。しかし一番人気の対応は、図の「8三歩」。
「8三歩、5二飛、2四歩」と進みました。
(「8三歩」を同飛と取るのは、2二角成、同銀、3二飛成で後手負け。)
「2四歩」が升田幸三の決断の一手。「これで決めてやる!」というような手です。
狙いは、次に3二飛成、同飛、2三金。
単純なねらいですが、うまくいくのでしょうか。
塚田さんは、3三角と指しました。これで先手3二飛成はなくなりました。次に2二銀とすれば、逆に升田の打った「2四歩」が負担になりそうです。升田、どうする?
升田幸三、「3三飛成」!
驚愕の一手ですね。「同桂」に――2三歩成、同金、2四歩を入れて――
「3四角」。
しかしこれで攻めが続くのでしょうかねえ。
僕は思いました。3二銀で、先手は次の攻めがないじゃないか、と。
3二銀には、きっと、2三歩成、同銀、同角成、同金、2四銀と攻めるのでしょうね。しかし攻めが細すぎる…。
塚田さんはしかし、3二銀とは指さず、「2七飛」でした。
2七飛に、升田さんは4三角成~5二飛と飛車を取って――
「2八飛」と飛車を合わせます。
以下、同飛成、同銀、4六歩、同歩、4七角、2三歩成、同銀、3一飛から攻め合いましたが――
投了図
52手、塚田正夫の勝ち。
升田の才能、カラ回りの一局、でした。
1か月前の「塚田正夫‐花村元司戦」では、後手の花村元司が“8二飛戦法”を仕掛けたのですが、それを「これは有力」と思ったようです。
今度は塚田正夫が後手番で“横歩取らせ8二飛戦法”を升田幸三を相手に仕掛けたのでした。そして、このとうり、結果は成功しました。(本局は戦法がどうこうより、升田さんの自爆っぽい内容ですが。)
前局の「塚田正夫‐花村元司戦」は、先手の塚田さんの攻めが炸裂しましたが、序盤の内容としては「先手指しにくい」という塚田さんの感触だったようです。
伊藤宗看‐大橋宗英 1788年
升田さんの「2四歩」は、失敗でしたが、あるいはこの対局の棋譜が頭の片隅にあったかもしれません。
この図の将棋は、対局日が11月17日なので、「御城将棋」の対局ですが、12歳年上の宗英が後手番で右の香車を落としています。今では「右香落ち」の将棋は全く指されることはないので、この将棋も“横歩取り”ではありますが、序盤の研究としてはまったく参考にはなりません。後手の「右香」がないので、「9六歩~9七角」で敵の飛車先を受けるような手が成立しています。この将棋は、先手伊藤宗看の勝ち。
この時は大橋宗英が32歳、伊藤宗看20歳。宗英は11年後に九世名人となり、さらにその10年後に宗看が十世名人になります。(谷川浩司―羽生善治のような年齢差です。)
ところで、“名人伊藤宗看”は、歴史上、3名存在しています。初代伊藤宗看(三世名人)、三代伊藤宗看(七世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)で、この三人はいずれも“強い名人”でした。詰将棋『将棋無双』で有名なのは、この真ん中の三代宗看。
で、この大橋宗英と対戦している“伊藤宗看”は、六代宗看。
この、初代、三代、六代、というのは、「宗看の○代目」ということではない。宗看はこの三人以外には存在しておらず、二代目宗看とか五代目宗看とかはいないようだ。「三代」とか「六代」というのは、伊藤家三代目当主、六代目当主、という意味であって、二代目は宗印(五世名人)だし、五代目もやはり宗印なのである。(ただし五代宗印は名人にはなっていない。)
さて、盤上の将棋の話に戻って、1952年の当時の観戦記を読みますと、この戦法の注目点は、「8二飛」にではなくて、その前の、「8六歩、同歩、同飛」とする指し方にあったようです。この指し方が新鮮で、「成立するかどうか」がテーマとなっていたようです。
すなわち、
初手から、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛
その局面で、「8六歩、同歩、同飛」とするのが、どうか、と。
当時はここでは「2三歩、3四飛」と進んでいたのです。(または先手は横歩を取らず飛車を引く。) この“2三歩を打たずに8六歩”がこの時期生まれた新しいテーマだったのです。
とはいえ、この手(8六歩、同歩、同飛)は江戸時代、それも18世紀の昔から指されています。
たとえばこの一局。
伊藤寿三‐徳川家治 1775年
「徳川家治」とは、江戸幕府第十代将軍徳川家治のことです。この人は聡明な人で、趣味も多く、将棋が大好きでしかも強かった。
この対局の時は38歳ということになります。相手の伊藤寿三は、詰将棋の神様とも称される伊藤看寿(かんじゅ)の息子です。
こんなふうに、18世紀に、徳川家治がすでに「8六歩」を指しているわけです。凄いですね、240年前ですよ。
この後も少し見てみましょう。
先手の寿三は「3四飛」と取ります。
対して十代将軍家治は、「8八角成、同銀、4五角」と指しました。
今で言う「4五角戦法」です。徳川家治はこの「4五角戦法」を先手後手両方をもって何局も指しています。「極めてやろう」と思っていたんですかね。
現代の眼で見ると、この図では先手が良しとされています。4五角、2四飛、2三歩、2八飛となって、後手は攻めが続かない、というのが現代の定跡。
村越為吉‐花田長太郎 1920年
現代の定跡は、横歩取りの「4五角戦法」を使うなら、8八角成から角交換した次に「2八歩」と打つことを示しています。
1920年に花田長太郎が、「2八歩」を指しています。「村越為吉‐花田長太郎戦」。花田長太郎23歳の時の将棋。(花田長太郎は関根金次郎十三世名人の弟子で、塚田正夫の師匠です。)
「2八歩、同銀」としておいて「4五角」と打つ。これならば、上で示した“2八飛”とする手が先手にはないので、後手もチャンスがでてくるというわけ。今でもこの手が最有力手として指されています。(ただし先手が正確に対応すれば後手が勝ちにくそう、というのが現在の評価。)
この「2八歩」が、もしかして花田さんの考えた新手なのかとも思いましたが、違いました。「2八歩」はもっと前からあるようです。大橋柳雪(おおはしりゅうせつ、1794 ― 1839)の定跡書に、すでに記されているようですね。
「村越‐花田戦」、この将棋は先手の村越為吉が勝利しています。花田長太郎の「4五角戦法」、不発の終わりました。
それでなのかどうなのか、これより以後、ずっと「4五角戦法」は指されることもなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」までも忘れ去られていたわけです。
(「4五角戦法」は70年代になってプロ公式戦に現れる。)
後日注: 後で判ったことですが、花田長太郎はこの対局前まで、なんと、22連勝の記録更新中だったようです。ここで村越に敗れて連勝ストップという話題の一局だったみたいです。
塚田正夫「後手が同形に8六飛と出るのは、従来の横歩取り先手よしを覆す新定跡になるかもしれない。」(1952年9月)
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)
後手松田茂役(まつだしげゆき、元々松田茂行だったが晩年に改名したらしい)が“横歩取らせ8二飛戦法”。 升田幸三、受けて立つ。
さて、先手は「8四飛」。
「あれっ? 9五角で、「王手飛車」じゃないか!!」
8八角成、同銀、9五角には、7七角、8四角、1一角成で、先手良し、なのでしょうか? いやいや、とても先手良しには見えない。
前回記事で紹介した「松浦卓造‐高島一岐代戦」でも同じように「8四飛」と指しているし、これはすると両対局者の“うっかり”などではない。いったいどういうことなんだ――!?
と、僕は悩みましたが、しばらく考えて自己解決。8八角成には、“同飛”で何事も起こらない。
こういうところが、素人の「序盤研究」の意義といえます。これが実戦でしたら、勘違いするか、時間を序盤で浪費してしまっているところです。
後手の「7四歩」はなかなか凡人には浮かばない手です。同飛と取らせて、7三金と活用する。「どうせ歩損しているんだ、1歩も2歩もいっしょだ」ということか。
松田茂役は「天才」とか、「名人候補」と呼ばれていました。この時、31歳。
升田、角を換えて、7七桂。
3三桂、4八銀に、松田はここで「8六歩」。
以下、6五桂に、6四金と出る。
この将棋を別室で研究していた者達は、「先手有利」と断定していた。先手の攻めを後手は受け切れない、と。
升田も、初めはそう思っていた。8二歩成、同銀、2二飛成、同金、5三銀、6五金、5二銀成以下、攻めきれる、と。
ところがよく読むと、5三銀に、3二飛とされた時に、6四銀成が、8七歩成で一手負けになると気づいた。ということで、升田は苦吟した。約2時間の長考の末、6六歩と指した。しかしここから形勢は後手に傾いていく。
局後の講評で、木村義雄十四世名人は、6六歩では、3五角で先手良しと見解を述べている。しかし升田は「5三角には、6二角があってまずい。」と言っており、つまり木村名人の言う3五角にも、やはり6二角がある。(木村名人はこの年の春の名人戦で大山康晴に敗れ、引退している。)
まあつまり、その前の、松田茂役の8六歩~6四金がすぐれていたのである。
(後日注; 3五角、6二角、同角成、同銀、6六歩としておけば、次に8二歩成があるので先手良し、としている解説も別にあった。)
6六歩、2三歩、2八飛、4四角、8四角、4一玉、7三桂成、と進む。
松田、5五歩。松田の「中飛車」が働いてきた。
飛車角をさばいて、後手好調。升田の飛車は働きのない駒になってしまっている。
5六歩に、5四飛と引いて、4六歩には、5五金と出る。5五金は角取りになっている。
7四歩、4六金、6五歩、7二歩。
松田7二歩。これで持駒を補充する。
8二歩成、7三桂、7一と、7四飛、7五銀、4四飛。
升田は銀を得たが、その銀を7五銀と「打たされ」た。
松田は戦力を4筋に。
投了図
松田茂役の勝ち。 松田さんの会心の指し回しでした。
この年度のA級順位戦は、升田幸三が4戦全勝で走っていましたが、ここで松田茂役が土をつけました。この年度は結局、升田、塚田、松田の三者が並び、プレーオフとなり、名人挑戦権は、升田幸三が獲得しました。
実はその名人挑戦権争いと名人戦の将棋は、本ブログですでにいくつか紹介済みです。
この年度は、A級に花村元司と小堀清一が初参加した年であり、前に紹介した“横歩取り小堀流4二玉”が流行した年なのです。
つまり、トップ棋士達が、横歩取りの新らしい二つの風、“小堀流4二玉”と“8二飛戦法”を指し始めたのが、この1952年度なのでした。
小堀流4二玉戦法の記事
『横歩を取らない男、羽生善治 3』
『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生』
『小堀流、名人戦に登場!』
『「将棋の虫」と呼ばれた男』
『その後の“小堀流”と、それから村山聖伝説』
では、この“横歩取り8二飛戦法”を流行らせたのは誰なのか。
この対局の観戦記に、升田幸三がこう言ったと記されています。
「3四飛と横歩を取り、8二飛と引かれた局面は、最近塚田君と二局、○○君と一局経験している。私の感じでは先手指せると思ったのでまた横歩を取った。」
この「○○君」というのが、この“8二飛戦法”の創始者なのです。
誰なのかは、次回記事で明らかにします。
1955年のソ連の水爆実験の記事
Wikipediaで調べましたら、ハリウッド制作映画『原子怪獣現わる』の項目がありました。米国では、日本の『ゴジラ』初公開よりも1年前に公開されており、ということは、「日本で発想→アメリカがパクッた」という可能性は消えました。逆は、しかし残っています。
日本の東宝が『ゴジラ』を構想するきっかけは1954年3月のビキニ環礁の水爆実験ということなのですが、アメリカはそれよりも前に「核実験によって復活した恐竜」という設定の映画を作っているわけです。
もともとこの『原子怪獣現わる』のストーリーの原作はレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』ですが、恐竜が「核実験によって復活する」という設定は、映画で付け加えられた設定のようです。
「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた』
『創始者はだれなのか “8二飛戦法”』
『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した』
『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン』
『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛』
上の映画の広告は1952年のもの。
これら映画広告を見て、ついでに1954年の暮れの紙面も調べてみました。映画『ゴジラ』の広告を見てみたかったからです。
しかし、見つかりません。考えてみれば、すべての映画の広告が新聞に出されるわけではないのですが。
しかし、『原子怪獣現わる』という題名の映画広告があって、これが『ゴジラ』か!と、一瞬、思いました。
↓
が、これは違いました。これは大映の配給らしいですが、アメリカのハリウッド制作の映画です。日本の東宝の『ゴジラ』は1954年11月の初上映とのことなのですが、この『原子怪獣現わる』はその1か月後の上映になります。
そしてどうやら、この映画も、『ゴジラ』と発想がほとんど同じです。日本とアメリカとで、同時に同じような内容の怪獣映画が作られたことになるのですが、これは偶然でしょうか。偶然に同じ発想をしたとしても何の不思議もないですが、アメリカが、あるいは日本が、海の向こうからの伝え聞こえたアイデアを流用したということがあっても、これまた不思議ではありません。
(『さいざんす二刀流』ってどんなのか気になる~。漫画キャラ“イヤミ”の源流か?)
さて、前回記事の続き、1950年代に少し流行った“横歩取り8二飛戦法”のプロ棋士の棋譜を見ていきます。
今日の棋譜は次の2つ。
(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)
(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
先手が「3四飛」と‘横歩’を取ったところ。
そこで「8二飛」と引くのが、“横歩取り8二飛戦法”。
その「8二飛」に対しては、5八玉や、8七歩とする指し方もあり、その棋譜を前回は紹介しました。しかし一番人気の対応は、図の「8三歩」。
「8三歩、5二飛、2四歩」と進みました。
(「8三歩」を同飛と取るのは、2二角成、同銀、3二飛成で後手負け。)
「2四歩」が升田幸三の決断の一手。「これで決めてやる!」というような手です。
狙いは、次に3二飛成、同飛、2三金。
単純なねらいですが、うまくいくのでしょうか。
塚田さんは、3三角と指しました。これで先手3二飛成はなくなりました。次に2二銀とすれば、逆に升田の打った「2四歩」が負担になりそうです。升田、どうする?
升田幸三、「3三飛成」!
驚愕の一手ですね。「同桂」に――2三歩成、同金、2四歩を入れて――
「3四角」。
しかしこれで攻めが続くのでしょうかねえ。
僕は思いました。3二銀で、先手は次の攻めがないじゃないか、と。
3二銀には、きっと、2三歩成、同銀、同角成、同金、2四銀と攻めるのでしょうね。しかし攻めが細すぎる…。
塚田さんはしかし、3二銀とは指さず、「2七飛」でした。
2七飛に、升田さんは4三角成~5二飛と飛車を取って――
「2八飛」と飛車を合わせます。
以下、同飛成、同銀、4六歩、同歩、4七角、2三歩成、同銀、3一飛から攻め合いましたが――
投了図
52手、塚田正夫の勝ち。
升田の才能、カラ回りの一局、でした。
1か月前の「塚田正夫‐花村元司戦」では、後手の花村元司が“8二飛戦法”を仕掛けたのですが、それを「これは有力」と思ったようです。
今度は塚田正夫が後手番で“横歩取らせ8二飛戦法”を升田幸三を相手に仕掛けたのでした。そして、このとうり、結果は成功しました。(本局は戦法がどうこうより、升田さんの自爆っぽい内容ですが。)
前局の「塚田正夫‐花村元司戦」は、先手の塚田さんの攻めが炸裂しましたが、序盤の内容としては「先手指しにくい」という塚田さんの感触だったようです。
伊藤宗看‐大橋宗英 1788年
升田さんの「2四歩」は、失敗でしたが、あるいはこの対局の棋譜が頭の片隅にあったかもしれません。
この図の将棋は、対局日が11月17日なので、「御城将棋」の対局ですが、12歳年上の宗英が後手番で右の香車を落としています。今では「右香落ち」の将棋は全く指されることはないので、この将棋も“横歩取り”ではありますが、序盤の研究としてはまったく参考にはなりません。後手の「右香」がないので、「9六歩~9七角」で敵の飛車先を受けるような手が成立しています。この将棋は、先手伊藤宗看の勝ち。
この時は大橋宗英が32歳、伊藤宗看20歳。宗英は11年後に九世名人となり、さらにその10年後に宗看が十世名人になります。(谷川浩司―羽生善治のような年齢差です。)
ところで、“名人伊藤宗看”は、歴史上、3名存在しています。初代伊藤宗看(三世名人)、三代伊藤宗看(七世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)で、この三人はいずれも“強い名人”でした。詰将棋『将棋無双』で有名なのは、この真ん中の三代宗看。
で、この大橋宗英と対戦している“伊藤宗看”は、六代宗看。
この、初代、三代、六代、というのは、「宗看の○代目」ということではない。宗看はこの三人以外には存在しておらず、二代目宗看とか五代目宗看とかはいないようだ。「三代」とか「六代」というのは、伊藤家三代目当主、六代目当主、という意味であって、二代目は宗印(五世名人)だし、五代目もやはり宗印なのである。(ただし五代宗印は名人にはなっていない。)
さて、盤上の将棋の話に戻って、1952年の当時の観戦記を読みますと、この戦法の注目点は、「8二飛」にではなくて、その前の、「8六歩、同歩、同飛」とする指し方にあったようです。この指し方が新鮮で、「成立するかどうか」がテーマとなっていたようです。
すなわち、
初手から、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛
その局面で、「8六歩、同歩、同飛」とするのが、どうか、と。
当時はここでは「2三歩、3四飛」と進んでいたのです。(または先手は横歩を取らず飛車を引く。) この“2三歩を打たずに8六歩”がこの時期生まれた新しいテーマだったのです。
とはいえ、この手(8六歩、同歩、同飛)は江戸時代、それも18世紀の昔から指されています。
たとえばこの一局。
伊藤寿三‐徳川家治 1775年
「徳川家治」とは、江戸幕府第十代将軍徳川家治のことです。この人は聡明な人で、趣味も多く、将棋が大好きでしかも強かった。
この対局の時は38歳ということになります。相手の伊藤寿三は、詰将棋の神様とも称される伊藤看寿(かんじゅ)の息子です。
こんなふうに、18世紀に、徳川家治がすでに「8六歩」を指しているわけです。凄いですね、240年前ですよ。
この後も少し見てみましょう。
先手の寿三は「3四飛」と取ります。
対して十代将軍家治は、「8八角成、同銀、4五角」と指しました。
今で言う「4五角戦法」です。徳川家治はこの「4五角戦法」を先手後手両方をもって何局も指しています。「極めてやろう」と思っていたんですかね。
現代の眼で見ると、この図では先手が良しとされています。4五角、2四飛、2三歩、2八飛となって、後手は攻めが続かない、というのが現代の定跡。
村越為吉‐花田長太郎 1920年
現代の定跡は、横歩取りの「4五角戦法」を使うなら、8八角成から角交換した次に「2八歩」と打つことを示しています。
1920年に花田長太郎が、「2八歩」を指しています。「村越為吉‐花田長太郎戦」。花田長太郎23歳の時の将棋。(花田長太郎は関根金次郎十三世名人の弟子で、塚田正夫の師匠です。)
「2八歩、同銀」としておいて「4五角」と打つ。これならば、上で示した“2八飛”とする手が先手にはないので、後手もチャンスがでてくるというわけ。今でもこの手が最有力手として指されています。(ただし先手が正確に対応すれば後手が勝ちにくそう、というのが現在の評価。)
この「2八歩」が、もしかして花田さんの考えた新手なのかとも思いましたが、違いました。「2八歩」はもっと前からあるようです。大橋柳雪(おおはしりゅうせつ、1794 ― 1839)の定跡書に、すでに記されているようですね。
「村越‐花田戦」、この将棋は先手の村越為吉が勝利しています。花田長太郎の「4五角戦法」、不発の終わりました。
それでなのかどうなのか、これより以後、ずっと「4五角戦法」は指されることもなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」までも忘れ去られていたわけです。
(「4五角戦法」は70年代になってプロ公式戦に現れる。)
後日注: 後で判ったことですが、花田長太郎はこの対局前まで、なんと、22連勝の記録更新中だったようです。ここで村越に敗れて連勝ストップという話題の一局だったみたいです。
塚田正夫「後手が同形に8六飛と出るのは、従来の横歩取り先手よしを覆す新定跡になるかもしれない。」(1952年9月)
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)
後手松田茂役(まつだしげゆき、元々松田茂行だったが晩年に改名したらしい)が“横歩取らせ8二飛戦法”。 升田幸三、受けて立つ。
さて、先手は「8四飛」。
「あれっ? 9五角で、「王手飛車」じゃないか!!」
8八角成、同銀、9五角には、7七角、8四角、1一角成で、先手良し、なのでしょうか? いやいや、とても先手良しには見えない。
前回記事で紹介した「松浦卓造‐高島一岐代戦」でも同じように「8四飛」と指しているし、これはすると両対局者の“うっかり”などではない。いったいどういうことなんだ――!?
と、僕は悩みましたが、しばらく考えて自己解決。8八角成には、“同飛”で何事も起こらない。
こういうところが、素人の「序盤研究」の意義といえます。これが実戦でしたら、勘違いするか、時間を序盤で浪費してしまっているところです。
後手の「7四歩」はなかなか凡人には浮かばない手です。同飛と取らせて、7三金と活用する。「どうせ歩損しているんだ、1歩も2歩もいっしょだ」ということか。
松田茂役は「天才」とか、「名人候補」と呼ばれていました。この時、31歳。
升田、角を換えて、7七桂。
3三桂、4八銀に、松田はここで「8六歩」。
以下、6五桂に、6四金と出る。
この将棋を別室で研究していた者達は、「先手有利」と断定していた。先手の攻めを後手は受け切れない、と。
升田も、初めはそう思っていた。8二歩成、同銀、2二飛成、同金、5三銀、6五金、5二銀成以下、攻めきれる、と。
ところがよく読むと、5三銀に、3二飛とされた時に、6四銀成が、8七歩成で一手負けになると気づいた。ということで、升田は苦吟した。約2時間の長考の末、6六歩と指した。しかしここから形勢は後手に傾いていく。
局後の講評で、木村義雄十四世名人は、6六歩では、3五角で先手良しと見解を述べている。しかし升田は「5三角には、6二角があってまずい。」と言っており、つまり木村名人の言う3五角にも、やはり6二角がある。(木村名人はこの年の春の名人戦で大山康晴に敗れ、引退している。)
まあつまり、その前の、松田茂役の8六歩~6四金がすぐれていたのである。
(後日注; 3五角、6二角、同角成、同銀、6六歩としておけば、次に8二歩成があるので先手良し、としている解説も別にあった。)
6六歩、2三歩、2八飛、4四角、8四角、4一玉、7三桂成、と進む。
松田、5五歩。松田の「中飛車」が働いてきた。
飛車角をさばいて、後手好調。升田の飛車は働きのない駒になってしまっている。
5六歩に、5四飛と引いて、4六歩には、5五金と出る。5五金は角取りになっている。
7四歩、4六金、6五歩、7二歩。
松田7二歩。これで持駒を補充する。
8二歩成、7三桂、7一と、7四飛、7五銀、4四飛。
升田は銀を得たが、その銀を7五銀と「打たされ」た。
松田は戦力を4筋に。
投了図
松田茂役の勝ち。 松田さんの会心の指し回しでした。
この年度のA級順位戦は、升田幸三が4戦全勝で走っていましたが、ここで松田茂役が土をつけました。この年度は結局、升田、塚田、松田の三者が並び、プレーオフとなり、名人挑戦権は、升田幸三が獲得しました。
実はその名人挑戦権争いと名人戦の将棋は、本ブログですでにいくつか紹介済みです。
この年度は、A級に花村元司と小堀清一が初参加した年であり、前に紹介した“横歩取り小堀流4二玉”が流行した年なのです。
つまり、トップ棋士達が、横歩取りの新らしい二つの風、“小堀流4二玉”と“8二飛戦法”を指し始めたのが、この1952年度なのでした。
小堀流4二玉戦法の記事
『横歩を取らない男、羽生善治 3』
『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生』
『小堀流、名人戦に登場!』
『「将棋の虫」と呼ばれた男』
『その後の“小堀流”と、それから村山聖伝説』
では、この“横歩取り8二飛戦法”を流行らせたのは誰なのか。
この対局の観戦記に、升田幸三がこう言ったと記されています。
「3四飛と横歩を取り、8二飛と引かれた局面は、最近塚田君と二局、○○君と一局経験している。私の感じでは先手指せると思ったのでまた横歩を取った。」
この「○○君」というのが、この“8二飛戦法”の創始者なのです。
誰なのかは、次回記事で明らかにします。
1955年のソ連の水爆実験の記事
Wikipediaで調べましたら、ハリウッド制作映画『原子怪獣現わる』の項目がありました。米国では、日本の『ゴジラ』初公開よりも1年前に公開されており、ということは、「日本で発想→アメリカがパクッた」という可能性は消えました。逆は、しかし残っています。
日本の東宝が『ゴジラ』を構想するきっかけは1954年3月のビキニ環礁の水爆実験ということなのですが、アメリカはそれよりも前に「核実験によって復活した恐竜」という設定の映画を作っているわけです。
もともとこの『原子怪獣現わる』のストーリーの原作はレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』ですが、恐竜が「核実験によって復活する」という設定は、映画で付け加えられた設定のようです。
「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた』
『創始者はだれなのか “8二飛戦法”』
『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した』
『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン』
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