朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」で連載中の「世界史レッスン」第32回目の今日は「マリア・テレジアの16人の子どもたち」⇒http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/09/post_6e8c.html#more偉大すぎる母、お気楽な父の間に生まれたプリンス、プリンセスたちの、明暗分けたその人生について書きました。
当時のお姫様はいったん他国へ嫁ぐとほとんどもう一生家族とは会えなかった。マリー・アントワネットもわずか15歳で母や兄弟姉妹と、いわば生き別れである。なかなか過酷なものだ。
ただし兄である長男のヨーゼフ2世だけは、彼女が22歳のとき、わざわざパリまで会いに来てくれた。もちろん外交目的である。世継ぎを産むのが「仕事」の王妃に子どもがなく、その原因は夫ルイ16世にあるということは周知の事実だったので、なんと彼は義弟に手術を勧めにきたのだ。ルイは説得されて手術を受け、無事子どもを得た喜びと感謝の手紙を、後にヨーゼフ2世へ書き送っている(当時の王家の人々があけすけに性的な話しをするのには、正直びっくりさせられる)。
アントワネットにとって、母亡き後、ヨーゼフは自分の大きな後ろ盾だった。1789年にフランス革命が起きたとき、実際にはまだ全くギロチンへの道は考えられず、王党派と革命派は危ういバランスの上にあった。ところが翌1790年、ヨーゼフが病死して風向きが変わり始める。
アントワネットの立場からだけ見るとき、つくづくヨーゼフの死を境に運に見放されたとしか思えないのだが、跡を継いだすぐ次の兄レオポルト2世まで2年足らずで病死してしまう(さらにフランス宮廷を一貫して支持してくれていたスウェーデンのグスタフ3世の暗殺がほぼ同時期に重なった)。
レオポルト2世の息子の代になると、もはや顔を見たこともない叔母を助けるため、自国を疲弊させる気はおきなくなっているのも当然だろう。彼女は実家から見捨てられてしまうのだ。まあ、こういうことは下々の者にもあることで、実家の両親が亡くなって兄家族の代になると、娘たちは実家へ帰りにくくなるという、あれですね。しかしアントワネットみたいに命がかかっていないだけましというべきでしょうね。
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大塚美術館の「怖い絵」ツアーは引き続き開催していますので、ぜひ一度いらしてくださいね。そして5月にはわたしもここで講演する予定です。⇒ http://www.o-museum.or.jp/info/event/100305_137.html
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毎日新聞での紹介⇒ http://mainichi.jp/enta/book/shinkan/news/20080903ddm015070149000c.html
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アントワネットにとって、母亡き後、ヨーゼフは自分の大きな後ろ盾だった。1789年にフランス革命が起きたとき、実際にはまだ全くギロチンへの道は考えられず、王党派と革命派は危ういバランスの上にあった。ところが翌1790年、ヨーゼフが病死して風向きが変わり始める。
アントワネットの立場からだけ見るとき、つくづくヨーゼフの死を境に運に見放されたとしか思えないのだが、跡を継いだすぐ次の兄レオポルト2世まで2年足らずで病死してしまう(さらにフランス宮廷を一貫して支持してくれていたスウェーデンのグスタフ3世の暗殺がほぼ同時期に重なった)。
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日本でも、子の出来ない嫁は、追い出されたみたいですね。上は、世継ぎ。下は、労働力。女だと、がっかりされるのは、雅子さんのケースもそうでしょうね。子供を産む機械扱い。ノイローゼなるはず。優等生紀子さんが、40で、帝王切開までして、男の子産んだのは、夫婦で、皇室の支配者になりたかったのでしょうか?それとも、雅子さんへの思いやり?
雅子さんは、ほっとしたみたい。まだ登校拒否みたいだけど。大変な社会に、自分から入ったにしては、脆い方です。あるいは、正直な方?
大喜劇じゃないですか?それは、ミステリーのテーマの一つ(純文学のも、あるかな?)で、今、例が、挙げれないのが、残念。
朔太郎の詩にありましたが、「父とは永遠に悲愴である」。
10人の子供たちの中で、4女のマリア・クリスティーネだけ、溺愛し、ただ一人自分と同じ恋愛結婚を許したそうですが、10人の中でも、彼女は特別に相性が良かったのでしょうか?
子供は政略結婚に限る、と心に決めていても、一人くらいは、まー、私のように好きにさせてやりたいと願ったのでしょうか?
他の子供たちを見ると人生色々・・・
全く関係ないことで恐縮ですが、教育関係の本の中で、「単一言語社会は言葉が通じるので便利ですが、悪い方向に進むと歯止めがきかず、もろいのです。
たとえば、英語の思考法というのがあるので、英語だけの世界では、ひとつの方向に進んでしまいがちです。イラク戦争の場合も反対したのは英語圏外のフランスやロシアだった、なんていうように。」というくだりがあり、ドイツ語的思考、フランス語的思考とかやはりあるのか?と英語もおぼつかない私は考えていました。ど素人的質問で申し訳ないのですが、先生が日本語と、ドイツ語とここの思考法が明らかに違うと思われる箇所を一般ピープルレベルでお教えいただけたら幸いです。
あ、これは「思考法」とはちょっと違うかな?
私の脳ミソのしわが少ないせいか、「やはり?不思議な大王」でした。
8月に『マリア・テレジアとその時代』(江村洋)を読んでいるので、「豊かなシュレージエンを強奪し、女帝を苦しめたオヤジ」という印象がどーも、強くて・・・
無理解な父王に悩まされたとこは同情するんですが、逃亡に失敗し、カッテが処刑されるとこは、時代が時代とはいえ、ひどいなーとつぶやいてしまいました。
それでも、彼の没後、文人王の著作集が、ちゃんとありのまま、出版されず、不必要に削除、加筆されたのは、歴史上大きな損失かも?
それらが、もっと正確に残されていたら、彼の評価もかなり違ったかもしれないと思うと、好き嫌いは別として残念です。(女帝テレジアもこの人相手に本当によく、戦ったと思います。)
フリードリヒ大王にせよアントワネットにせよ、とても現代の尺度で善悪の判断は下せませんよね。そこがまた歴史を読むおもしろさでしょうけれど。
確かに、性を残しているという意味では、フランス語やイタリア語も同様なのですが、格とそれに伴う各変化まで残しているというのは、欧州近代語の中では、ドイツ語は、ある意味で、ラテン語的な古さを残しているといえるでしょうね。
ただ、ラテン語でも、あるいは漢文(つまり、古典中国語)でもそうなのですが、文法の複雑な古典語は、その文法さえマスターしてしまえば、逆に複雑な思考表現が可能になる。
ドイツ語でも、単に単語に性数格があるだけではなく、形容詞などまで、それに従って活用するので、長い複雑な文章を書いても、相互関係が掴みやすいのです。
これに慣れると、逆に、英語のように性数格が省略された言語で、ドイツ語と同様のことを表現するのが困難になります。
それどころか、日本人である私が、日本語で練りに練った文章を、いざドイツ語にしようとすると、自分の日本語の論理の甘さが見えてしまうことがある。
つまりは、日本語という言語の性格上、表現しきれない、あるいは、あえて表現しようとすると、欧米諸言語の直訳調になってしまうような内容が、ドイツ語なら、自然に表現できてしまうということなのですね。
日本語というのは、古典文法を考えても、状態を表す助動詞の類は、やたらに複雑多様でも、論理をきっちりと表現できる構造にはなっていない。
逆に言えば、当時、そうした論理的な官僚言語・公式言語は漢文であったわけで、日本語の古典は、プライベートな場での心情を表現するのに適しており、和歌や日記など、私的な文学を発展させてきたということではないでしょうか。
そういう、異なる構造の言語を行き来していると、私などは、使用する言語によって、自分の性格まで変わってしまうような気がするのです。
ドイツ語では、自然に論理的になるし、イタリア語では、朗かで芸術的な気分になる。フランス語のエスプリは、もっと斜に構えているし、アメリカンには、イタリア語とは違う陽気さがある……。
そういう異なる世界観・価値観を行き来できるのが、言語を習得する醍醐味ではないでしょうか。
(尤も、以前、同様のことを外務省の人に話したら、「そんなことを言ったって、あなたは中欧しか知らないのでしょうに!」と言われてしまった……。確かに、私はスラブ諸言語も、日本語・漢文以外のアジア諸言語も何もできない……。このご指摘には脱帽!)
使用する言語ごとに、思考法どころか、自分の性格まで変わるような気がするのは、各言語の文法構造だけではなく、音韻構造にも起因すると思います。
散文でも、個々の音韻やリズム・文イントネーションは言語によって相当、異なるのですが、顕著でわかりやすいのが韻文。
ラテン語の高低韻律に対し、ドイツ語は、基本的には同じ韻律でも、強弱で表現する。
それに対し、フランス語は日本語同様、シラブルで数えるから、リズム的には単調。
だから、曲をつけた場合に、ドイツ語ではリズムが強調されるのに対し、フランス語では、言葉そのものの響きを大切にして、語るように歌うのですね。
イタリア語の、最後から二番目の節にアクセントが来る(ランララ~ラ)独特のリズムも特徴的で、母音の多い言語構造とともに、歌いやすい。だから、単に喋っているだけでも、つい、歌っているような調子になるのです。
変な例かもしれないけれど、コンサートのあとで掛ける「ブラヴォー」の掛け声はイタリア語なのに、ドイツ語圏でも、ついぞ、ドイツ語で、 "ausgezeichnet! (アウスゲツァィヒネット)" などというのは、聴いたことがない。掛け声にならないでしょうが。
尤も、「アンコール!」の代わりに、同意の "Zugabe! (ツーガーベ)" というのは聴いたことがある。ドイツ語にしては子音が少なく、母音が強調される言葉だから、手拍子を取りながら掛け声を掛けることは不可能ではないけれど、それでも、高揚したコンサートの雰囲気にはそぐわない、硬い雰囲気の言葉ですよね。
で、ウィーンの人達などは、「ドイツ人は、ウィンナ・ワルツをマーチのリズムで演奏する」などと揶揄するわけです。
じゃ、ウィーンの人達が喋っている言葉は、ドイツ語じゃないのかって? 違うんですよ、それが。
ウィーン方言というのは、ドイツ語と基本的には同じ文法で、基本語彙も同じはずなのに、音韻的には、ずっと柔らかい。ちょうど、はんなりした京言葉のような雰囲気なのです。
フォルクスオーパーのウィーン版「マイ・フェア・レディ」では、このウィーン方言を、標準ドイツ語に矯正するわけですが……。
だから、言語というものは、完全に異なる言語だけではなく、方言ですら、ニュアンスも、思考方法も、つまりは表現される感情が違うような気が、私はするのですね。