恩師のご著書「講演集」より
講演集、 二
「お陰様で」
私たちは「お陰様で」という感謝の心を忘れております。
あって当たり前、してもらって当たり前、すべてが当たり前と、
思い違いをしております。
お陰様で、お陰様で、どんなことでもお陰があって今があるのです。
そのお陰様を忘れ去って当たり前になっていくのですね。
当たり前という思いの中から感謝を忘れます。
「私には感謝するような幸せなどありません」とよく言われます。
考えてみますと、こうして生きさせていただくのも、目に見ることはできませんけれど、
現実に空気を与えられているからです。
もし空気が無く、空気中の酸素が無かったら、三分以上生きられる人はありません。
全部の人の息は止まります。
この与えられた空気に対して、
「有難いなあ、このように目で見ることのできない酸素や窒素など、空気中にいろんなものがあって、
私たちは苦しみなしに生きさせていただける。
ありがたいなあ」と心から感謝できた方は一度手を挙げてみて下さい(笑い)。
また、あのお日様の熱や光に対して、心から感謝できましたか。
これも、なかなか私たちにはできません。
私たちの目を楽しませてくれる花、こうして花を生けて下さる方の私たちのへの思いやり、
すべてはお陰様の中に生きさせていただいております。
当たり前のように思っているので、有難さが分かりません。
お日様も照って当たり前、しかし無かったらどうしますか。
常に「もし無かったら」と思わせていただいた時、有難さが身にしみてきます。
夫婦の間もそうです。
健全に守っていただいている間は喧嘩ばかりして、亡くなった時、
ああ、えらいことをしたと言って、相手が死んでから一生懸命お墓にお参りして、
お父ちゃんお父ちゃんと言っておられる方があります。
生きていた間はさんざん意地悪をして―――。
しかし十分に尽くさせていただいた時にはお墓へお参りしなくていいのです。
生きている時に満足を与えていたなら、お墓へもお仏壇へもお参りしなくても、
うらめしやと出て来られることはありません。
本当に尽くし抜いた時は、絶対に夢に出て来られることはありません。
夢ばかり見るのは、自分の良心が、尽くしていない分だけ自分を責めて、
夢を見せるのです。
死んだ人が夢の中に出て来て、こわい夢でうなされたというのは、
完全に自分の良心が自分を責めているのです。
そういうことがないように、生きている間によく尽くすことですね。
そして、死んでしまってからも何の悔いも無いように、死なれた時も思いを残さないように、
又あとに残された者も思いを残さないように、日々に十分、お互いに尽くし合っていくことですね。
そうすれば悔いは残りません。
~ 感謝・合掌 ~