昨日書いた渋沢栄一の「論語と算盤」から、もう一つ。
人の心には「智、情、意」の3つがあって、人間社会で活動して成果をあげるには、この3つが調和しなければならない、とのことです。
「智」(知恵)ばかりで「情」(情愛)に欠ければ、自分の利益のためならば他人を蹴飛ばしてもかまわないとなってしまい(知恵があるだけに極端に走ってしまう)、それでうまくいくはずがない。
かといって「情」(情愛)ばかりだと感情に流されてふらふらしてしまうので、強い「意」(意志)によるコントロールが必要である。
一方で「意」(意志)ばかり強くて「智」(知恵)や「情」(情愛)が伴わないと、ただの頑固者になってしまう。
だから、この3つのバランスがとれていないと社会の役には立てない、ということだそうです。
では、知財活動で成果をあげる、知財活動をとおして会社(or顧客)の役に立つためには何が必要なのか。
「智」にあたるのが実務面の知識やスキル(知財実務)、「意」にあたるのが戦略思考(知財戦略)であるとするならば、この2つについては、いろいろな情報が提供され、議論もされてきています。それでは「情」にあたるものとは、一体何なのでしょうか。
論語と算盤では、「情」とはバランスを保つための一種の緩和剤と説明されていますが、これは「智」や「意」以上に抽象的で掴みにくいもので、実務や戦略のように他から学ぶことが難しく(知財業界でそこを伝えようとされているのは最近「コミュニケーション」を強調されている的場先生くらいではないでしょうか・・・)、個別性の高いものなのでしょう。最近このブログでも、止揚だ、審美眼だと抽象的なことを書いていますが、たぶん「情」の部分にあたる要素は‘知財’と名のつく情報の中には見つからず、自分でどこかから探してこなければならないのだろうと思います。
人の心には「智、情、意」の3つがあって、人間社会で活動して成果をあげるには、この3つが調和しなければならない、とのことです。
「智」(知恵)ばかりで「情」(情愛)に欠ければ、自分の利益のためならば他人を蹴飛ばしてもかまわないとなってしまい(知恵があるだけに極端に走ってしまう)、それでうまくいくはずがない。
かといって「情」(情愛)ばかりだと感情に流されてふらふらしてしまうので、強い「意」(意志)によるコントロールが必要である。
一方で「意」(意志)ばかり強くて「智」(知恵)や「情」(情愛)が伴わないと、ただの頑固者になってしまう。
だから、この3つのバランスがとれていないと社会の役には立てない、ということだそうです。
では、知財活動で成果をあげる、知財活動をとおして会社(or顧客)の役に立つためには何が必要なのか。
「智」にあたるのが実務面の知識やスキル(知財実務)、「意」にあたるのが戦略思考(知財戦略)であるとするならば、この2つについては、いろいろな情報が提供され、議論もされてきています。それでは「情」にあたるものとは、一体何なのでしょうか。
論語と算盤では、「情」とはバランスを保つための一種の緩和剤と説明されていますが、これは「智」や「意」以上に抽象的で掴みにくいもので、実務や戦略のように他から学ぶことが難しく(知財業界でそこを伝えようとされているのは最近「コミュニケーション」を強調されている的場先生くらいではないでしょうか・・・)、個別性の高いものなのでしょう。最近このブログでも、止揚だ、審美眼だと抽象的なことを書いていますが、たぶん「情」の部分にあたる要素は‘知財’と名のつく情報の中には見つからず、自分でどこかから探してこなければならないのだろうと思います。
http://www.patentisland.com/memo222.html
「情」は、真・善・美・愛で示される価値ある状態を統括する概念であるようにも思えます。
この価値ある状態の本質を考察していきますと、そこには「情報」の働きが見えてきます。
コメント有難うございます。
確かにご指摘のような考察というのは、根っ子の部分で必要ですね。
‘特許戦略メモ’の背景は盧遮那仏のようですが、私は出身が奈良ということもあり、2年位前から古刹めぐりにはまっております。