さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

御殿場東山「東山つばきガーデン」

2020-02-02 21:42:17 | 閑話休題
2020,1.26(日)、東山つばきガーデン
御殿場東山は、由緒ある別荘地帯、御殿場市の景観重点整備地区になっている。
住所:静岡県御殿場市東山1082-107  TEL0550-83-6783
Open Garden:2月~4月 10時~日没
環境省主催平成27年度第10回「みどり香るまちづくり」企画コンテスト入賞、『癒やしの小径』として道路沿いに4種の薫り椿150本を植栽。この小径は、東山旧岸邸と秩父宮記念公園を結ぶ散歩道。


松岡別荘
外務大臣や外交官、政治家、満州鉄道総裁など歴任した松岡洋右の別荘、森林の中の庭園に約90種370本の椿が点在、一番の見頃は3月中旬から4月上旬、昨年春から、OpenGardenとして
一般に開放したとのこと。(入場料:管理協力費100円)


主人の松岡陽子氏は故松岡洋右の息子(四男、松岡志郎)の嫁、昨年、夫が亡くなり、一人で守っている。


外交官、松岡洋右、イタリア・ムッソリーニ


近現代史


別荘2階のお宝(松岡洋右氏の私物)
◇松岡 洋右(まつおか ようすけ)
 1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。満州鉄道総裁を務めた。日本主席全権として国際連盟を脱退。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で、彼だけ北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。
 敗戦後、A級戦犯として極東国際軍事裁判公判中に病死した。

生涯
(1)アメリカ留学
 1880年(明治13年)3月4日、山口県光市にて、廻船問屋の四男として生まれる。 洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け入信、洗礼を受けた。
アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった。
(2)外務省時代
 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意する。1904年(明治37年)に外交官及領事官試験に首席で合格し、外務省に入省する。
 外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海に赴任する。短期間のロシア、アメリカ勤務があるが、「これからの日本には大陸が大切だから」という思いがあり、中華民国勤務が永い。1921年(大正10年)、外務省を41歳で退官した。

(3)満鉄から代議士へ
 退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本)。 1930年(昭和5年)、満鉄を退職する。
 2月の衆議院議員総選挙に郷里の山口2区から立候補して初当選する。議会内では「対米英との協調と対支那の内政不干渉」を方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びることとなる。
 ただし、当時の松岡が実際に望んだ対中外交は、あくまでも経済的なアプローチを基本とするものであった。そのため、1931年(昭和6年)9月19日、前日に起きた柳条湖事件を報道する新聞を読んだ松岡は、「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休ぬるかな」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆している。そして10月15日に内大臣の牧野伸顕に対して「今日は私を捨てて協力内閣に依るの外なし」と語るなど、満州事変勃発当初は、事態の収束を図るために民政党との協力内閣構想を積極的に主張した。しかし協力内閣構想は、民政党の若槻内閣の拒否により挫折する。その後は対外方針を一転させ、満州国の早期承認を主張するようになった。

(4)ジュネーブ総会派遣・連盟脱退
 1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団を満州に派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。
 報告書は、「満州の自治・日本権益の有効性」を認めながらも結果として「満州を国際管理下に置く事」を提案し、満州を満州国として認めない内容だった。
 10月、松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。 松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコスロバキア代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝えるほどであった。
 しかし、1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定した。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択された。松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して総会から退場した。
 
 その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。

(5)議員辞職・再び満鉄へ
 帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。
 帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年(昭和14年)2月まで)。
1938年(昭和13年)3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。

(6)外務大臣就任
 1940年(昭和15年)、近衛文麿が、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった。
 20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した。

 当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。

(7)四国同盟構想とその失敗
 松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えており、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏の完成を目指すことを唱えていた。
 松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越し、やがて世界国家に至ると考えていた。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。
 就任当初から日本・ドイツ・イタリアによる三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけていた。陸軍と「議論」を行う中で、次第に三国同盟に傾斜していった。 当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年(昭和15年)の8月頃から三国同盟案を検討するようになった。
  一方で松岡は、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、ロシアブロックの指導国家ソビエト連邦にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた。松岡は「ドイツが日ソの仲介を買って出れば、日ソ関係を構築できる」と思った。
 8月13日、松岡はドイツと会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相もまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想。
 松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができる。アメリカの世論は沸騰するだろうが、日本の真意がわかればアメリカ人の心証は一転するであろうと極めて楽観的に、三国同盟成立に邁進する。
 日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日に成立した。しかし、その後の独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。

 この状況の急変に直面し、松岡は自ら赴いて外交的駆け引きをすることを決意し、1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことに首相ヨシフ・スターリン自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。
 独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、南部仏印進駐に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。
  しかし政府首脳や世論は北進論に関しては全体的に消極的で、独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする南進論が優勢になった。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも平沼騏一郎ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。また日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになった。ついには昭和天皇までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させた。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。

(8)外相離任後
 1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという。
 しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡には、緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と喜んでいる。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。

(9)A級戦犯被告
 敗戦後はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕される。連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には1度のみ出席となった。
 1946年(昭和21年)6月27日、病死。満66歳没。墓所は青山霊園。
 辞世の句は「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」。

(10)逸話
満州国と松岡
 満州事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59回帝国議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、龍角散のキャッチコピーに引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。

 また、アメリカでの経験から貧困層の秀才をスパイに育て上げることを考え、アイヌ人の天才少年シクルシィ氏を幼少時から援助し、5回の飛び級を経て12歳で釧路中学を卒業させ、英語以外にロシア語、ドイツ語、ユダヤ語、フランス語、イスパニア語、北京語、華南語、朝鮮語、ブリヤーク語、タガログ語を現地レベルで学ばせ密偵として各国に派遣させ、情報を収集した。

 満鉄総裁時代のオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ナチスの不興を買っている。また、1940年(昭和15年)12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。また、「これは私個人の見解では無く、日本の見解である」とまで述べており、反ユダヤ主義者ではなかった。

ヒグチ・ルート
「樋口季一郎#オトポール事件」
 満州鉄道総裁だった1938年にソ連と満州の国境に押し寄せたユダヤ人を樋口季一郎から直接依頼を受け、ユダヤ難民を後にヒグチ・ルートと呼ばれる満鉄の特別列車で上海まで特別列車を出して5000人以上を救っている。

昭和天皇からの評価
 昭和天皇は松岡を徹底して嫌っていた。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」というような非常に厳しい言葉を残している。

北進論について
 松岡の北進論は相当な不評であった。松岡が大本営政府連絡会議で北進論を語った際、当時の陸軍大臣で南進論者の東条英機は、松岡は気が狂ったのではないかと思ったという。また、松岡が昭和天皇に単独拝啓して北進論を上奏した際には、天皇は「松岡のやり方では果たして統帥部と政府と一致するかどうか。国力から考えて妥当であるかどうか。」と懸念した。

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