さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

福島正則公の荼毘の跡

2007-02-25 20:56:57 | 閑話休題
[清洲城主]
秀吉の従兄弟といわれ、秀吉の親戚筋。秀吉の天下人への階段に伴い、数少ない身内として出世した。秀吉亡き後は朝鮮出兵を機に不仲になった石田三成らとの対立し徳川家康に接近。加藤清正らとくんで三成を政界から追放。
関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として奮戦した。広島城を改築し、領内六ヶ所に支城を整備した。正則は徳川家につき、豊臣ゆかりの大名と徳川家の仲介役となり、自身も家康の養女を後妻に迎えるが、豊臣家に取り立てられた恩も忘れなかった。豊臣恩顧の大名が千姫の輿入れで大坂に参集した際は「正則主唱で西国大名は秀頼に忠誠を誓う旨の誓書を大坂に提出した」と風聞が立った。
そして「大坂の陣」が始まるが、幕府からは一番に警戒されて江戸留守居を命じられた。福島家は豊臣家に呼応しなかったが、両者の和平を願い調停活動を行っている。夏の陣で豊臣家は滅亡、かつての主の滅亡を江戸から見送った。
[宿命的な没落]
大坂の陣終結後、いよいよ徳川の天下となる。やがて、正則は徳川から警戒され、「武家諸法度」の適用第一号になり、広島城の無断改築を咎められる。広島城に残る家臣たち4千人と支城の城主とが「主君、正則の自筆の書状を見ない限り城は明け渡さない!」と戦う構えを見せたため事態は悪化。
[落日]
正則の処分としては信濃の川中島へ転封。寂しい晩年を送ったとされる。寛永元年(1624)死去。死後、家臣が正則の遺体を幕府の検使の到着前に火葬してしまい、その事から咎められた福島家は3千石の旗本にまで成り下がってしまう(とはいえ福島家の家名は残った)。小布施町岩松院に墓碑がある。

福島正則と酒
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