さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

インド事情

2012-12-24 21:44:27 | 海外旅行
インド
面積;約329万k㎡(日本の約9倍)
人口;約12億1000万人
公用語;ヒンディー語、英語は補助公用語
宗教:ヒンドゥー教81.3%、イスラム教12%、その他キリスト教、仏教など
時差;日本より3時間30分遅れ
通貨;インドルピー(Rs) 1ルピー=1.7円

インドは「宗教の国」と言われる。人口の多数を占めるヒンズー教の他に、イスラム教、キリスト教に、この国で生まれた仏教など、世界の主な宗教がインドには集まっている。宗教は人々の生活に深く根差し、内面的に人々を支えている。
■ ヒンズー教
「ヒンズー」とは「India」の語源でもあり、ヒンズー教はその名の通り「インド教」でもある。インド人の82%がヒンズー教徒であり、パキスタン、バングラディッシュにも、人口の1割ほどのヒンズー教徒がいる。
紀元前1500年頃からインドに侵入を始めたア^ーリア人は、独自の神々と火を焚く祭式を持っていた。祭式を司るバラモン(僧)が強い支配権を振るったので、バラモン教と呼ばれるようになった。バラモン教は、インド先住民の持つ宗教観念や土着の神々を次々取り入れながら変化し、ヒンズー教へと発展していった。このため、多神教に見える一面がある。だがそれらの神々は、一つ一つ独立している在るのではなく、いわば宇宙そのものである唯一・至高の存在が、個々の神格の形をとって現れたものと考えられる。
〈ヒンドゥー教〉
 三神一体
・ブランマ神  世界創造
・ヴィシュヌ神 世界維持
・シヴァ神   創造と破壊
「いくつもの川が、流れこそ違ってもやがてひとつの大海に注ぐように、すべての宗教が目指すゴールはひとつだ」と説明している。
■イスラム教
7世紀にマホメットが興した宗教で、『コーラン』を聖典とし、唯一神アッラーを崇拝する。インドには8世紀頃から伝わり始めた。やがてイスラーム王朝がインドに建てられると、一時はインドの大部分を政治的に支配するほどの勢力になり、この後イスラム教は、特に北インド文化に影響を与えた。
インド・パキスタンの分離独立後も、インドには人口の12%を占める。
ヒンズーのカースト制の下で圧迫されていた下層の人々が、集団で、神の下の平等を説くイスラム教に改宗していった例もある。
■ シーク教
イスラムの影響を受けて、ヒンズー教を改革した宗教。絶対真理としての神を崇拝し、偶像礼拝、カースト制度を否定し、人間の平等を唱える。
信徒総数は全体の2%ほどだが、ビジネス、交通、運輸、軍関係の仕事に活躍している。頭髪や髭を切らない掟を守るために、束ねた長髪にターバンをかぶり、黒々と髭をたくわえる姿が特徴的である。アーリア人の血が濃く、肉食であるため体格が立派な人が多い。少数ながらも信徒の結束は非常に強く、インド社会の中では得意な存在。
■ ジャイナ教
仏教とほぼ同時期に成立した宗教で、行為が業を生み、輪廻に束縛されると考え、厳しい戒律と苦行を守って解脱に至ろうとする。そのためには不殺生・無所有が強調される。空衣派の無所有の極み、全裸で暮らし、修行に励む。信徒数は0.4%。
■ キリスト教
イギリスによる植民地化により広まったのではなく、1世紀にシリアの聖トーマスによりインドに伝えられた。信者は人口の2.4%。
■ 仏教
「ブッダ」とは「覚った人、覚者」という意味で、ブッダは今から2500年前ほど前、ルンビニー(現ネパール領)でシャーキャ(釈迦)族の王子として生まれた。
人生の苦悩を解決する道を求めて出家し、苦行を経て静かな瞑想に入り、ブッダ・ガヤーの菩提樹の木の下で覚りを開いた。生ある限り、覚った真理を人々に伝えることを決意し、バナーラス郊外のサールナートで初めて法を説いた。多くの人々を教化し、80歳の時、説法の途中で病気にかかり入滅した。信徒数は全人口の0.7%。ヒンズー教においては、ブッダはヴィシュヌ神の9番目の権化とされている。 (小乗仏教;寺院は造らない、卒塔婆を造った)




□カースト制度
3000年ほど前に北インドに侵入してきたアーリア人は、現在のヨーロッパ人と同じの白色人種系であった。彼らは先住民族を平定してその支配を固めるにつれ、ヴァルナという身分制度を作り上げた。肌の色による身分の上下区分のことである。肌色の白い人たちを支配者である上位に置き、被支配民族を下に置いた。
その後、アーリア人の中でも社会的機能による区分が出来始めた。それがいわゆる「四姓」であり、4つの階級に分かれる。
 ・バラモン(祭司)・・・宗教儀礼を専門とする
 ・クシャトリア(王族・武士)・・・軍事・政治を司る
 ・ヴァイシャ(平民)・・・商工業活動に従事する
 ・シュードラ(奴隷)・・・被支配民族
この古代的身分制度ヴァルナがインドのカースト制度の基本を成し、今でも肌色の方がよいとする考えが残っているの。
さらに、特にヴァイシャとシュードラはそれぞれ職業ごとにさらに細分化されてゆき、やがて2000ともいわれる多数の区分が、中世的身分制度として固定された。この区分は、職業を生まれにより世襲化するもので、ヒンズー社会では非常に強い影響を持ち、人々を束縛し続けている。
カースト制度は、人間への差別として非難されるが、現実のヒンズー社会ではこの制度を受け入れ、その内部でのそれぞれの分を守ることによって、生活を保障されている面もあり、同一のカースト内では互いに助け合う共同体的な機能も持っている。
独立後の新憲法では、カーストによる差別を禁じており、法的には「カースト」は存在しないことになっている。 (カースト制度でも特に問題視されるのは、不可触民の存在である。触れただけ、目にしただけでも汚れるものとして差別されてきた。1億人近くといわれる不可触民は、社会の底辺で大きな労働力を提供しているのに、社会的地位は非常に低い。このような事態を改めるため、ガンディーは彼らを「ハリジャン(神の子)」と呼び、ヒンズー社会での地位向上に努めた。政府はハリジャンたちを法的に保護し、大学・企業などに受け入れを義務づけている。また、新聞の広告などでは「不可触民」という差別語を避け、Scheduled(指定カースト)と示されているが、入学・入社しても周囲から不当な圧力を受け、差別を受けているのが現状である。)

□ 結婚
7割はお見合い結婚であり、同じカーストで行われる。男は、出生のカーストより選ぶ、女が恋愛により上のカーストと結婚する「玉の腰」あり。

□ インドのイギリス植民地時代
①ムガル帝国の衰退
17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、ジズヤ(人頭税)を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラータ族もシヴァージーを中心に1674年にマラータ王国を形成したのをはじめ、各地で反乱が勃発した。
アウラングゼーブはビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼし、その死までにムガル帝国は最大領土を獲得したが、彼の悪政の結果、帝国は衰退にむかった。
② 英蘭の南インド進出
マドラスのセント・ジョージ要塞(18世紀末ころ)17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。1612年にはオランダ東インド会社がチェンナイの北プリカットに商館を構えていたが、1623年、英蘭両国が東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めた。
③ 英仏の進出と植民地抗争
インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。イギリスはマドラスにつづき、1661年ボンベイ(ムンバイ)、1690年カルカッタ(コルカタ)を獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリを獲得した。利害が対立した英仏両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続け、1757年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。
④ イギリスによる蚕食とインドの貧困化
18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラーター戦争(英語版)・シク戦争(英語版)などを経てインド支配を確立した。1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、1793年のザミンダーリー制、19世紀前半のライヤットワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。
19世紀にはいると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く軌道の幅もまちまちで、主としてインドでの税収をもとに投資されたもので、これから得られる利益は多くイギリス人によって回収された。
⑤ イギリス植民地時代
1858年から1945年まで、イギリスによる植民地化から第二次世界大戦の終結までの87年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。
”イギリス帝国は沈まない太陽”の時代へ

□ 1947年8月15日独立記念日




最初のホテルは五つ星でした。LEELA KEMPINSKI GURGAON/デリー

□ インドVs中国
インド北東部の国境紛争地アルナチャルプラデシュ州を、中国との間で所有権を争っている(1962年に国境紛争)。シン首相の訪問に対し、中国外務省の報道官が不満の声明を発表。インド側もすぐに反論を表明、首相訪問の正当性を主張した。
  『日本人に英語を教えること、
    中国人にマナーを教えること、
      アメリカ人に戦争するなと教えること。
        これは、無駄だ。』








インドの伝統舞踊
「カタック」はインド四大古典舞踊の一つ。ヒンドゥー教の寺院で神に仕える巫女の踊りに由来し、ムガール王朝(16-19 世紀)の庇護のもとに、北インドを中心に宮廷舞踊として発達した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レッド・フォート城(デリー、世界文化遺産)

2012-12-24 21:18:36 | 海外旅行







レッド・フォート城(2007年登録、世界文化遺産)
デリーは近代的な都市だが、デリーは過去(オールド・デリー)と現在(ニュー・デリー)が同居する街で、オールド・デリーを象徴するのが、赤砂岩でできたレッド・フォート城である。
ムガール帝国の第5代皇帝;シャー・ジャハーンによって建設された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする