
インパール作戦
インド北東部の都市インパールは、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると考えた。
牟田口の案は、第15軍の3個師団に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというもの。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡り、標高2,000メートルのアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は牟田口の案を無謀だと判断したが、大本営は最終的にこの案を支持。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという思惑があったと言われる。
1944年3月8日に、作戦を開始した。当初、作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリスの作戦だった。
4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス軍が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。
やがて雨季が訪、日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみ。作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、インパール南側の防衛線ビシェンプールへの肉弾攻撃を繰り返した。
□ 白骨街道
7月3日、日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながらの退却戦は悲惨なものになった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。
インド北東部の都市インパールは、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると考えた。
牟田口の案は、第15軍の3個師団に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというもの。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡り、標高2,000メートルのアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は牟田口の案を無謀だと判断したが、大本営は最終的にこの案を支持。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという思惑があったと言われる。
1944年3月8日に、作戦を開始した。当初、作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリスの作戦だった。
4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス軍が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。
やがて雨季が訪、日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみ。作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、インパール南側の防衛線ビシェンプールへの肉弾攻撃を繰り返した。
□ 白骨街道
7月3日、日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながらの退却戦は悲惨なものになった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。
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