さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

メイミョウの陸軍墓地

2023-01-20 17:40:46 | 海外旅行
畑中に残る陸軍墓地
メイミョウの街のはずれにある畑の広がる地域があり、細い農道を軽トラックの荷台に乗って日本軍の墓地を訪れた。土地の所有者で墓地を管理している人は、地元の漢方薬医とのことであり、我々の訪れを知らされ家族とともに掃除をしながら迎えてくれた。
21名の将兵らが埋葬されている。碑の裏に「昭和22年4月30日建立」とあることから、この地に収容されていた将兵らが、祖国日本への復員を前に改めて亡き戦友を弔ったもとと思われる。

※南機関(みなみきかん)
1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。
当時日本と中国とは日中戦争の最中にあった。中国の蒋介石政権は重慶へと逃れながらも、英米等からの軍事援助を受けて頑強に抗戦を続けていた。軍事物資の輸送ルートとしては、1.フランス領インドシナ、2.ビルマ、3.ソ連から中国内陸部、4.中国沿岸を経由する各ルートがあった。ビルマルートはラングーン(現在のヤンゴン)の港から、マンダレーを経由し、山岳地帯を越えて中国に達する道路で、1940(昭和15)年にはビルマルートの輸送量が最も多くなっていた。
日本軍は、外交交渉や橋梁爆撃などによるビルマルートの遮断に務めたが、その達成には苦慮していた。1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出した。
彼は、内密にビルマ独立の志士タキン党のオン・サンとラミヤンの二人を郷里の浜松に招いて秘策を練った。
やがて1941(昭和16)年2月、彼を長とする「南機関」を作った。南機関は、ビルマから30人の志士を集め、海南島で猛訓練を行った。開戦後、バンコクでBIA(ビルマ独立義勇軍)を編成。軍司令官に鈴木が就任、やがて南機関の解散に伴い、オン・サンに引き継いだ。
ビルマが終戦後独立すると、30人志士の一人であったオン・サンの右腕、ネ・ウィンが首相となった。
ビルマの第33回目の独立記念日に当たる1981年1月4日、ビルマ軍事政権は、ビルマ独立に貢献した7名の日本人に対して感謝の意を表し「アウン・サン勲章」を授与した。その7名とは鈴木敬司の未亡人、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、高橋八郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄で、全員が南機関関係者であった。







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北部ルソン島、マバラカット... | トップ | マンダレー王宮 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

海外旅行」カテゴリの最新記事