さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

北部ルソン島、マバラカット特攻記念碑

2023-01-16 15:25:49 | 海外旅行
フィリピン 北部ルソン島戦跡めぐりの旅5泊6日
平成24年2月10日(金)~2月15日(水)、日本エアービジョン浅田ツァー
●日本軍は、昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻略と同時に、南方への進撃を開始。フイリピン攻略は開戦当日の米空軍基地への奇襲攻撃から始まった。マッカーサー司令官は、マニラでの防衛戦を断念、パターン半島とコレヒドール島に約15万の米比軍を移動させ籠城作戦に切り替えた。昭和17年1月2日、日本軍はマニラを無血占領した。
●この国は、日本軍による植民地からの解放を歓喜で迎えてくれたジャワ、ビルマ等のアジア諸国と違い、フリピンは事実上の支配者は米国であったが、既にヒイリピン人による自治政府が存在しており名目上は植民地ではなかった。民衆は、米国に好意的であり、日本軍に対しては反抗的であった。
●日本軍は軍政を敷いたもののフィリピンの独立を認め、新政権を支援したが、結局は米軍の謀略とフィリピン人ゲリラの組織化に苦しめられた。
●反攻の機を窺っていたマッカーサーは、昭和19年10月頃よりフィリピン奪回にむけての作戦を開始し、10月12日にフィリピン中部のレイテ島に上陸した。
●昭和19年12月、日本はレイテ決戦を諦めルソン島での作戦に切り替えた。しかしルソン島決戦は、「本土決戦」の時間稼ぎの意味しかなかった。日本の第14方面軍は、ルソン島で兵力を三分しそれぞれの地域で、米軍を釘付けにすることを使命とされた。北部バギオに主力の6個師団、兵力152,000人「尚武集団」を置き、この地を中心に持久戦を展開することになった。、その南方のクラーク飛行場群と周辺に兵力30,000人「建武集団」を配して航空基地の防御にあたらせ、マニラの東方には兵力2個師団、105,000人「振武集団」を配置し米軍侵攻に備えた。ルソン島の兵力は合計28万7千名であった。
 今回の北部ルソン島の旅は、山下大将の足跡を辿る旅でもある。






マバラカット東飛行場跡(神風特攻隊記念碑)
昭和19年(1944年)10月25日朝7時25分、5人の神風(しんぷう)特攻隊「敷島隊」がここマバラカット東飛行場から出撃、特攻第一号としてレイテ沖に突入した。
零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりするという特攻作戦が開始された。
記念碑は、1974(昭和49)年、ダニエル・ディソン画伯が中心になり地元の有志が建設、1991(平成3)年6月ピナツボ火山噴火の土石流で埋没。1999(平成13)年、マバラカット市観光課が再建。


 この朝日 機体に浴(あ)みつつ
  征(ゆ)きしや 敷島隊の
    五機は還らず
       マバラカットの朝 7時25分
  (2012年2月10日ー15日、フィリピンの旅、向後廣道氏作)


最初の神風特攻隊が東のアラヤット山の方向に飛び立った。
■神風特攻ぼ先陣・敷島隊 5軍神
隊長1番機 海軍中佐    関 行男 西条市出身 23才
  2〃  海軍少佐    中野盤雄 福岡県出身 19才
  3〃  海軍少尉    谷 暢夫 京都府出身 20才
  4〃  海軍飛行兵曹長 永峰 肇 宮崎県出身 19才
  5〃   〃      大黒繁男 新居浜市出身20才
       (階級は、戦死後の二階級特進による)
■関行男大尉の母は、愛媛県西条市の故郷で、軍神の母として祭り上げられ涙を見せることもできなかった。やがて敗戦、英雄の母は一転して軍国主義の推進者といわれ、追われるように町を出て、石鎚山のふもとの小さな中学校の住み込み用務員となり、昭和28年、用務員室でひっそり亡くなったという。『私に備わった運命 人を恨んでもしょうがない』と終始言い続けたとのこと。

□フィリピンでの特攻作戦
投入機の数と、戦死者
陸軍 178機 226名
海軍 零戦264機 264名、 その他71機 158名




マバラカットは、首都マニラの北方約80kmにある町

● 2月10日の成田空港を飛び立ったあと、その日に、二人の大切な人が亡くなりました。今回の旅では、戦没者のお墓参りを随分しましたが、現世と来世の間をさまよう旅・・・・・・・?
一人は、稲沢の義母が亡くなりました。もう一人は、しんらいの会の設立以来、監事を私と一緒にやっていた、筑波銀行の元常務・新堀喜久さんです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バギオ慰霊碑 | トップ | メイミョウの陸軍墓地 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

海外旅行」カテゴリの最新記事