丁寧なお手紙を頂きました。ありがとうございます。池さんのDVDの中の「死を共同体へ取り戻すこととはどういうことですか」(ちょと説明すると、たくさんある池さんのDVDの中で、私たちのスタンスを表現したDVDの中に使った言葉です。)
かつて老いも死も暮らしの中に普通にありました。人が生まれ・生き・老い・死ぬことは人の「命の過程」として当たり前に受け入れられてきたように思うのです。
科学や文化が進化してゆく過程の中で、かつて人々が生きた昔のような「小さくて濃い社会」は失われつつあります。人々の生活が忙しくなると共に、近所の付き合いも希薄になってゆきました。この小さな町でさえも。
時代の流れと共に、人の生き方や考え方が変化してゆくのは仕方のないことかもしれません。昔のように、人と人の関係が濃い社会へと帰れるはずもないでしょう。
けれど人は、昔と変わらず生きています。そして、医療は進歩し続けています。どの人へも平等に高度な医療が行われる時代。十分人生を生き、老いと共に自然に人生の終わりを迎えたいと願う人にも。例え高度な医療を望まないとしても・・・。
高度な医療の前では、人の「人生」はないように思います。高度な医療の前にいるのは、ただ治療の対象者の「ヒト」でしかないと。治療の現場には、「生活者としての人」はいないのです。
満足死を提唱する疋田医師が言いました。「終末期のスピリチュアルケアはどんなに偉い医者にもできません。なぜなら患者個人を知らないからです。患者の生活史を知らずにお手伝いできるはずがありません。それができるのは家族です。」
人にはそれぞれ「エピソード(物語)」が必ずあります。かけがえのないその人だけの物語。どんな人だったか・どんな人生を生きたのか・家族はどんな人たちか・どんな声か・どんな笑顔か・服の好み・食べ物は何が好きか・・・
それを知っている人々が共同体の人たちです。「その人」に近い場所で生きている人たち。 生活者としての「その人」を知っている人たち。
こう考えてゆくと、「共同体へ死を取り戻す」ということの意味は、「生活者として生きたその人の死を、その人を取り巻く周囲の人たちの元へ取り戻す」と考えることができると思います。
「何号室の患者」として死を迎えるのではなく、「一人の人」として最後の時を迎えてほしいと思います。誰もが決して避けることができない死を前にして、その人の生を想い・死にゆく過程を見ながら・手や足をさすったり・想い出話をしながら・最後の時は好きなものを食べさせてあげたいし・お酒が好きなら最後に口に含ませてあげたい・「そういえばお酒好きだったもんね」と笑いながら・・・・・
・・・つまり、その人が生きたエピソード(物語)を語ることができる人たちの元へと死を取り戻したい・・・というのが私たちの思うことなのです。
「最後まで、人として命を生き切って欲しい」そのために、どこで最後を迎えるか・・・そのことを考えて欲しいと思っています。
病院に行かなければならないとしたら、どういう治療を行ってほしいか・最後の時はどうして欲しいか・・・考えておく必要もあるでしょう。
もし家で最後を迎えるとしても、どういう最後を迎えたいかをしっかり考えておかないと、いよいよ最後という時に家族が迷うことになるでしょう。
もし、家でも今の病院でもムリだと思うなら、家に代わる場所を探して欲しいと思います。安心して最後を看取って貰える信頼できる場所を。
その人が歩んだ人生を知る人だけが、死にゆく人を本当に支えることができると思っています。共同体の人とは、そんな人たち。
そんなメッセージが込めてあることを知ってほしいと思います。
「どんな最後を迎えたいか」・・・死を積極的に語ることは決してタブーな問題ではありません。自らの人生の最後を、自ら考えて決めてゆくことは、本当は大事なことなのだと思うのです。老いというステージの中で、自分の人生をどう生きるかと考えることは、その「生」の延長線上にある「死」を自分自身の手で作っていくことに他ならないと。
PS.池さんのDVDを見てくださって、ご自分の人生やご家族の将来のことを真剣に考えて下さって、本当にありがたく思います。ただ賑やかなデイというイメージが先行することに、ジレンマや苦しさを感じた日々もありましたが、こうして私たちのメッセージが遠く離れた土地で生きるSさんに、届いたことを感謝します。どうぞこれからも良き命を生きてくださることをお祈りしています。