つれづれの記

日々の生活での印象

地球の地図と図法  4

2015年04月22日 10時49分17秒 | 日記

2015年4月22日(水)  地球の地図と図法  4

 

 地球の地図に関連して、これまで投稿した、以下の3件の記事で、

     地球の地図と図法  1  (2015/4/5)  

     地球の地図と図法  2  (2015/4/10)

     地球の地図と図法  3  (2015/4/16)

1では、地図の各種図法による世界地図やその用途について、2では、上空や宇宙から見た地球の姿の把握や、地球の出について、3では、地球儀に関する話題について、主に取り上げた。    

 4件目の続編である本稿は、地図データに関する先人である、伊能忠敬の話題である。 

 

○伊能忠敬の業績と生き様

 地図の話題で、忘れてはならないのが、昔、日本史でも習った、江戸時代後期の先駆者 伊能忠敬である。(伊能忠敬 - Wikipedia 等を参照)

  千葉県香取市佐原に、「伊能忠敬記念館」があり、数年前と昨年5月の2度、ここを訪れる機会があった。

記念館の入り口近くに、伊能忠敬と弟子達がまとめ上げたという、「大日本沿海輿地全図」(伊能図)(文政4年(1821年)完成)が、大きく掲示されていて、国土地理院による現代の日本地図と、対比してある。(下図は、ネット画像より)

 下図にあるように、両者を比べると、驚くほど一致しており、方位的なズレがある、北海道(蝦夷地)、東北北部や、九州等でも、形状はほぼ同じなのである。 精度は、1千万分の1(100kmで1cmの誤差!)程度という。

     

       伊能図                              対比:黄色 伊能図  緑色 現代図

 

 記念館には、測量に使われた各種機材も展示されている。 当時の測量法は、以下のようなものという。(伊能忠敬の測量 伊能忠敬の日本地図は第二の人生だった 等を参照)

測定点を決め、その間の長さと角度を測り、次に測定点を移動させて、又、長さと角度を測ると言う、下図のような方法だ。このやり方は、「導線法」(どうせんほう)と呼ばれるようだ。 導線法  

 長さの測定には、間縄や鉄鎖や量程車等の道具を使う他、訓練して歩数も使ったと言う。

北の方角と角度は、杖の先に付けた磁石の磁針で求めたという。

 

 このような、ローカルな作業を積み重ねて行くと、次第に誤差が増えて行くので、これを修正するために、遠くに見える山等を使った、「交会法」(こうかいほう)と言うやり方も使われた様だ。

 更に、地球上での現在位置(緯度)を知るために、可搬型の機材(中象限儀等)を使って北極星等を観測し、その方向と仰角から、割り出したようだ。 又、現在位置の経度は、日食、月食等が起こる時刻を観測し、それから求めたという。

 

 伊能忠敬が、家業から隠居したのが、数えで50歳の時で、その後、第二の人生として、一念発起して江戸に出て、かなり年下の幕府天文方の高橋至時(よしとき)に師事し、暦学・天文学を勉強、習得したようだ。当時の我が国の、これらの学門のレベルの高さに驚くのだが、基礎となる数学が発達していた事が背景にあっただろうか。 

 そして、実際の測量作業に従事したのは、55歳~73歳までという。当初は、独自に蝦夷地の測量等を行ったりし、次第に時の幕府にも認められ、第一次から、第十次まで、17年にも亘って、測量が行われた。 地図の名称にもあるように、内陸よりも沿岸部に、調査の重点が置かれている。

忠敬没後、3年経って、弟子達の手によって、漸く、伊能図は完成したと言う。    

      

  忠敬の、知的な側面は言うまでも無いが、年齢不相応の、足腰の丈夫さにも驚かされるとともに、諦めない意思の確かさや、全体を纏め上げる指導力等も見事なものである。

弟子の一人の 間宮 林蔵は、蝦夷地の調査を行い、そのデータは伊能図に多く使用されている。彼は、樺太(現 サハリン)の探検で、樺太が、大陸から離れた島であることを確認していて、終戦前の日本では、大陸との間の海峡名は、間宮海峡と呼ばれていた。

 

 

○二つの文化的な作品

 伊能忠敬に関して、近年作られた、2つの文化的な作品があるようだ。 

◇1つは、映画で、タイトルは、『伊能忠敬 -子午線の夢―』(平成13年 劇団俳優座記念作品)である。(伊能忠敬 子午線の夢|一般社団法人日本映画製作者連盟

主人公の生涯に亘る生き様を描いた映画のようで、筆者は、この映画を見る機会は無かったが、DVDも無いのは残念である。  

 

 これのサブタイトルが気になった。伊能忠敬は、地球の子午線の1度分の長さが幾らなのか、興味を持ち、地図の製作という公務と並行して、算出する事を意図していたようだ。そして、忠敬が、第二次、第三次の測量時(1800~1802頃)に求めた数値が、当時の尺貫法で、28.2町だったという。(1里=36町 1町=60間 等) 

 忠敬の時代より大分後の、1879年(明治11年)に、国際的にメートル法が採用されたが、これが、面白いことに、子午線の長さから決められたのである。忠敬自身も、国際的な、この様な動きを察知していたようだ。

 メートル法の基準となるメートル原器は、赤道と北極点間の子午線(90度分)の長さの、1/1000万を、1メートルと定めている。1000万m=1万kmだから、子午線全体(360度分)の長さは、これを4倍した、40000km ぴったりとなる。

 

 忠敬が求めた、28.2町という数値を、メートル法で表示して見ると、やや、不明確なのだが、110.85kmとなるようだ。(伊能忠敬が算出した子午線1度の長さ

これから、子午線全体では、1周360度だから、

   110.85m/度×360度=39906km

となる。

従って、忠敬の出した子午線1度の長さは、メートル法の規定の0.9977となり、少し短かっただろうか。

 

 余談だが、国際的に、当初は、物であるメートル原器で長さを表示していたが、その後、物理現象を使うように変わり、現在は、単位時間に、光波が進む距離を基準とするように変更になっているようだ。

 

 

◇もう1つは、故井上ひさし著「四千万歩の男 忠敬の生き方」(講談社文庫 全5巻 昭和52年)という、伝記風著作である。

アマゾンサイトにある、本書の紹介欄を、以下に引用させて貰う。(Amazon.co.jp: 四千万歩の男(一) (講談社文庫): 井上 ひさし: 本) 

“素晴らしきかな、忠敬的セカンドライフ。50歳で隠居するまでの忠敬は下総の名家の旦那。隠居と同時に本格的に星学暦学の勉強をはじめ、56歳から72歳までの17年間で3万5千キロ、約4千万歩を歩き尽くして、日本地図を完成させた。愚直にも思えるその精神が支えた、第二の人生を全うする平凡な覚悟は我々の生き方に大きな示唆を与える。”

作者は、高齢化に向かう時代の流れの中で、主人公の、「第二の人生を全うする平凡な覚悟」を強調したかったのかもしれない。

文庫本の各巻は、1000円程だが、まだ、読んだことは無い。

 

 上記にある、測量で全国を歩いた総距離と総歩数から、歩幅を逆算してみると、歩幅0.875mとなり、やや大股のように思える。

改めて調べたところ、忠敬の歩幅は、0.69mという、記録があるようだ。(よくある質問(Q&A) )

これを用いて、改めて歩数を計算すると、

    35000000/0.69 ≒ 約5070万歩

となる。

 井上ひさしは、如何にも作家らしい感覚で、歩いた距離から、ネームバリューを考えて、本のタイトルを「4千万歩の男」としたのだろうが、「五千万歩の男」でも良かったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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