へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

権利と義務

2007年09月19日 19時50分43秒 | Weblog
昼間、数人の人と話をする機会があった。
話題は当然の事、「次期総理は、麻生か福田か?」である。
しかし、話をしていて「腹がっ立って」仕方がなかった。
話の内容は、「生活が苦しいから、ああして欲しいこうして欲しい」と言う話ばかり。
「それを実行する為の財源は?」、と聞くと、あれこれと自分達に関係ないものを無くせと言う。
完全なる「利己主義」以外の何物でもない。
「税金は払わないが、あれもしろこれもしろ」。
これは、レストランで食事をして代金を踏み倒す「無銭飲食」や、買った商品の代金を払わない「犯罪行為」と同じではないか。
何かをしてもらう(権利)為には、それに見合う代償(義務)が必要になる。
一部に、無償(ボランティア)でしてもらえるものも有るが、「例外的」と言わざるを得ない。
基本的には、権利と義務は「表裏一体」の物で、切り離す事は出来ない。
しかし、現代社会では「権利ばかり主張して義務を果たさない」人が増えている。
「自分さえ良ければ、他人はどうでもよい」。
「因果応報」と言う言葉が有る。
「自分さえ良ければよい」と言う考えでは、いずれその「報い」が返ってくるだろう。

麻生、福田両氏とも、それぞれ色々な主張をしているが、結局のところ「どっちもどっち」というところである。
安部前総理の時、「大臣の任命責任」が問われた。
しかし、安部前総理を選んだ人たちの「任命責任」は問われなかった。
安部前総理の「突然の辞任劇」には、様々な批判が噴出した。
しかし、そんな阿部さんを総理大臣にした人たちの責任は?。
今回もまた「同じ事」が繰り返されるであろう。
無責任な話である。
「美しい日本」なんてとても無理、「絵に描いた餅」でしかない。
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人類に未来は有るのか?

2007年09月19日 04時55分15秒 | Weblog
空想科学の世界では、すばらしい世界が「空想」されている。
しかし、現実の話、そんな明るい未来が待っているとは思えない。
今現在でさえ、エネルギー、食料などの問題が起きている。
新しいエネルギーの開発など、夢物語ではないだろうか?。
電気などは、太陽光、風力などである程度まかなえるかもしれないが、限界が有る。
一番の問題は、現在大量に作られている「石油製品」である。
石油以外の原料から、プラスチックを作る研究がされているのだが、これもバイオ燃料と同じで、直接・間接を問わず人間の食料になるものが殆ど。
本格的に生産すると、「人間の食料」が不足してしまうだろう。
食糧の増産をしようにも、耕地面積を増やそうとすれば、森林を伐採するなどの「環境破壊行為」が起きる。
今以上に「環境破壊」が進んだらどうなるのだろう?。
地球の温暖化が進み、「海面の上昇」「異常気象」・・・・・・。
「人類は優れた知能を持っている」と言う人がいるが、とても信じられない。
「墓穴」を掘っている様なものでは?。
アフリカ、南米、ニューギニアなどに住む、「原始時代」に近い生活をしている原住民の生き方が正解のように思える。
それ程遠くない将来、「文明社会」が滅んで、「原始生活に近い生き方をする人たちが生き残る」と言う事も有り得る話である。
それ以外にも、「医療の発達」が人類を滅ぼすかもしれない。
「医療の発達」は、「助からない命」を救う事になるのだが、喜んでばかりいられない。
自然界では、「強い遺伝子を残し、弱い遺伝子は残さない」と言う事で、「種」を維持している。
人類だけが「自然の法則」に反した事をしている。
「明るい未来」「明るい日本」が「絵空事」にならなければいいのだが。
「景気の回復」を望む人が多いが、景気の回復は、一方で「墓穴」へ進む速度を速めることになる。
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