この前とりあげた『大日本帝国の民主主義』の坂野潤治先生の著書です。
本書は、現在の民主主義が戦前の伝統とは関係なく敗戦と同時に始まった、と説いてきた戦後思想の行き詰まりという問題意識を根底に、「大正デモクラシー」そして、その前にある明治時代の憲法制定前後の政治思想の中にある民主主義の考えを「明治デモクラシー」と名づけ、その思想と運動の系譜をたどったものです。
とまあ、それはあとがきに著者の問題意識として書いてあるのですが、私としては、明治時代の「国会開設の請願」とか「大同団結運動」という出来事を点と点で結んだような受験勉強の知識と、日露戦争のようなイベントをめぐる小説という知識しかなかった明治時代の政治が、さまざまな思想家や支持団体の動きの集合体としての政治過程として描かれていて、面白く読むことが出来ました。
憲法制定に際し交詢社の私擬憲法を起草し大きな影響力を持っていた福沢派が井上馨を捨てて大隈重信を選んだことの誤算、また同時に「君主専制家」からにわか仕立ての議員内閣論者になった大隈の誤算、というあたりは政治ドラマとしても読み応えがあります。
そして、最後の章で、この「明治デモクラシー」が「大正デモクラシー」に継承・発展していく様子を美濃部達吉の『憲法講話』、社会主義者であった若き北一輝の『国体論及び純正社会主義』そして吉野作造の民本主義を代表させて触れています。(もっとも吉野作造の思想は内容的には「明治デモクラシー」の思想を受け継いでいるものの欧州に影響により形成されたものであり、その意味では「個体発生は系統発生を繰り返す」というような継承の仕方であったのかもしれません。)
そうは言いながらも、実は著者が一番紹介したかったのは、二・二六事件の思想的支柱になった50代の国家主義者としてではなく20代の社会主義者としての北一輝の、東京大学教授で憲法学者の権威であった穂積八束(美濃部達吉は東大では行政法の教授にすぎなかった)の国体論への痛快な批判ではないかと推察します。
まずは国体論を循環論法と批判し
今の憲法学者といえども、西洋諸国の国家を歴史的進化に従いて時代的に分類せざるにあらず。ただ、我が日本国を論ずるにおいてのみ、常に古今の差別を無視して、「我が国体においては」と云う特殊の前置きを以って、憲法論の緒論より結論までを一貫すとは、そもそも何の理由に基くぞ。--「万世一系の皇統」と云うことのあればなり。・・・・・・西洋諸国においては、国体および政体は歴史の進化に従いて進化するも、日本民族のみ進化律の外に結跏趺座(けっかふざ:座禅を組む)して、少しも進化せざる者なりと考えつつあるなり。
日本の憲法学者においては、・・・・・・常に必ず、万世一系の我国体においては主権は天皇にありと一貫す。これ少しも解釈に非ず。万世一系の天皇に主権が所在するが故に、主権は天皇に在りと云うものなり。甲が年齢を問われたるに乙と同じと答え、さらに乙を問われて甲と同じと答うる問答の循環なり。
さらに「万世一系」を歴史的に批判し、
国体論が日本歴史を解して乱臣賊子は二、三の例外にして、国民は古今を通じて忠君義士なりしと云うと正反対に、歴史的生活以後の日本民族は、皇室に対しては悉く乱臣賊子にして、例外の二、三のみ皇室の忠臣義士なりし・・・・・・。
と言っています。
そして、ここで坂野先生はとどめのセリフを吐きます。
この「不忠」の文を読んだ上で、青年将校は北を師と仰いだのであろうか。